幕末の経済とその実相 (日本経済の破綻)

幕末の実相       貿易の品々
全ての物語は嘉永6年(1853)旧暦6月3日(新暦07/07)からはじまった。
黒船の来航である。やがて日本の沿岸各地に外国艦船が姿を見せ始める。 自他の違いを知る。日本人を意識し始めた。日本人としてのアィデンティを求めた。「皇国」であった。 それまで意識することもなかった刀を「日本刀」と呼ぶようになった。 やたら皇国を使い、やがて政治的スローガンが「尊皇攘夷」となってしまった。
「横浜市史より」輸出入貿易額 経済からみた幕末の実相
年表の一部を抜粋する。
万延元年(1860) 3月 桜田門外の変
文久2年(1862) 1月 坂下門外の変
文久3年(1863) 8月 「天誅組」代官所襲撃
    〃    10月 兵庫但馬生野の変
元治元年(1864) 3月 武田耕雲斉の水戸天狗党の乱
 年表にみる激動の幕開けを作ったのが嘉永6年(1853)6月ペリーの率いる黒船の威力でもって、 永い鎖国の夢を破られたことによる開国の危機感から、これらの行動が生まれ
たことは疑いようもない。一方国内では開国に伴い今までの流通文化は根底から崩れ、天保以降(1830年代)商業 活動活発化に伴う貨幣経済の拡大と、後ほど述べるが封建制度ゆえの矛盾は破断界に達していた。隣国中国の阿 片戦争(第一次、1840〜42、第二次、1857〜60)の情報は、高杉晋作も上海に渡航し太平天国の乱(1850〜64)と 外国の侵略に搖れる中国を見聞し、その内容は国内に広く知れ渡っていた。
 幕府を含む諸藩は財政的に宿命的な矛盾を抱えていた。
 1.米の石高制による農業税制であった。 そして米は基軸通貨であった。   この制度は、米価に諸物価が連動してはじめて成り立つ。だが豊作となると米価は下落し、諸物価は下がらな い経済問題に突き当たり、徒士層を含む下層民の生活に大打撃を与えた。
  税収不足を補う方法として、初期検見制から定免制で増収を図ったことで本百姓の凋落に歯止めがかからなく なった。
 2.商業者に対する組織的体系的税制を持ち合わせていなかった。
  各藩とも商流に関わる者に、運上・冥加などの営業税を課すなど財政改革を試みたが、担当役人と商人の間で 不正を生み成功しなかった。
 3.貨幣改鋳(悪貨)で差益を得る方法が常套的に使われた。  

 そうした中で列強による日本侵略の危機感は、統治権者の側にたつことになる者たち(この場合武士)に強くあった。 水戸藩は幕末の激動の中で、激派(天狗党)と鎮派との間で相互に殺掠の限りを尽くしたが、侵略により日本は滅びる という危機感のもとに攘夷の急先鋒となった。当初は、政策的に幕府と対立するものではなかったが、安政5年6月 (1858)、勅許をまたず井伊直弼が、日米修好通商条約を締結したためにことがややこしくなった。当初幕府は雄藩連合 でもって挙国一致の国防体制を作りあげるつもりでいたが、井伊をはじめとする、幕閣高級官僚の反発を受け、同時に 将軍継嗣問題もからんで、水戸藩激派と幕閣は決定的な対立を生んだ。井伊は大老に就任するや、安政の大獄に象 徴される志士弾圧政策をとった。このことは力学的にあらゆる面で作用と反作用を醸成した。武士がその帰属する藩を 離脱することは、生活基盤の喪失を意味していたが、このころの下級武士は窮々とした身分制度のしがらみと生活苦 から逃れるために平気で脱藩を決行した。生活のために尊皇攘夷を念仏のように唱えれば、脱藩しても生活できたの である。弾圧策では、物事が解決できる時代背景でなかった。

 
【貿易の品々】 「横浜市史より」貿易物品割合  後述することになるが、なぜ日本中が攘夷熱に浮かされるようになったのであろうか。このあたりを推論する。 政治とは、統治する側と統治される側の二極である。まず統治する側についての推論を行う。 当時政治は庶民のものでなく、当然武士が行っていた。この武士は生産活動に従事せず、百姓に寄生して 生存していた。当然日本が侵略されたら政治は侵略者の側が遂行し、寄生者の出番はない。よって武士は よって立つべき生活基盤を失うのである。明治維新の後、各地で不平氏族の反乱が起きたが、表面上は別 の主張をしても本音は、生活基盤を失をうことに尽きる。
一方被統治者の側は、階層的にどの位置にあるかで若干事情が異なる。生産者は、需要があるからといって 無制限に作れるものでなく流通のどこかで藩の介入があり、例えば長州藩では、櫨蝋を多量に生産していたが、 蝋を絞る面木の数を制限し生産者(百姓)が勝手に生産することを禁じた。すなわち余剰生産を認めなかったのである。 安政3年(1856)以降専売による統制を強めたゝめに、民業は圧迫され、さらに文久2年(1862)には、より一層藩統制は厳しくなった。 慶応期(1865〜)になると、倒幕戦に備えて軍事費を捻出するため、櫨蝋専売制は一層強力に推進された。 このように、藩の介入によつて末端市場価格と生産者からの買取り価格に大幅な開きがあり、 この不満は幕藩体制のなかでいつも紛争の種であった。次に繊維関係製造業者の場合は、 輸出の急増で繭玉は、国内の加工業者に回らず生産停止の状況であった。ちなみに安政5年(1856)6月、 日米修好通商条約が締結され貿易がはじまったが、生糸、茶、繭玉、紙などの輸出が増大し、 国内の消費物資は極度に不足し、このことにより物価の騰貴を招き庶民の生活は困窮の度合を増した。
 次に既存の繊維販売業者の場合、産業革命に成功した英国の安い綿布が大量に出廻り、国産物の競争力 はまるでなくなってしまい開店休業の状態となった。少なくとも収入の路がなかった。
元治元年7月19日(1864年8月20日)未明、伏見を進発した長州兵と、守備についていた 大垣藩兵が砲火をまじえ、禁門の変が勃発。京都は兵火で焼失。 それでも京都市民は長州兵に同情的であった。京都は西陣の里である。貿易により商品流通は激変。 生産地から横浜や神戸に流れるルートが生まれ生糸が暴騰、また品不足から廃業(従事者は失業)に追い込まれた。 そのため織元は攘夷を掲げる長州を支援した。
 次に貧農と、都市最下層民の場合、国内での流通物資が輸出に回ったことにより、消費物資が一般市場 に出廻らなくなり、市場原理の結果物価騰貴を招いた。物価の急激な騰貴により、下級武士 や都市貧民、小作農民層の生活を脅かし、それにより下級武士では反幕機運がたかまり、尊皇攘夷運動へとつながった。 また都市貧民や農民層は打ち壊しや百姓一揆に走ることになった。
 どれもこれも、外国と通商を始めた結果によって引き起こされた。以上概略みてきたが、 三者三様の感を呈してはいるけれど、どの階層も攘夷という一点では、共に利害が一致したのである。 当時すでに、幕府も含め各藩とも財政的に破綻しており、民衆の物価騰貴の怨嗟の声は日増しにたかまっていた。
 このような、国論の混乱を打開する方策として長州藩の長井雅楽は、航海遠略策を献策し審議の結果藩論となったが、 彼の脳裏に藩財政基盤確立の一助にと下関を函館や横浜同様、開港場に指定させ、幕府が独占している 貿易の税金取り立ての利益にあずかろうとしたものであった。この考えは、財政に責任を持たない、 攘夷激派の久坂玄瑞(義助)たちにとっては、到底容認できるものではなかった。空論派(思想派) は大衆受けすることはやってのけるが、全ての組織に共通する財政基盤の確立ということにはまるで 無頓着であった。この手の人種は体制の破壊には役立つが建設にはまるで不向きである。会社の中でも、 実務派と空論派の二極分化する。つまるところ空論派のほうが声が大きい。 久坂義助に象徴されるこの攘夷の思想は、長州藩にとって熱病にうなされるほどのイデオロギー となってしまった。身悶えするといっても過言ではない。

 文久2年(1862)7月4日付けで久坂は長井弾劾建白書を草起したが、その 内容の一節「天勅に背き外夷に媚び候奸吏共、未だ厳罰を蒙らぬ事にては正 邪混淆仕候・・・以下略」こゝの外夷に媚びとは通商による経済の混乱(輸 出と輸入の拡大)を指弾している。経済の混乱は、全責任が幕府にあるもの ではない。幕藩体制の枠組みの中で、藩による生産管理がなされたことで消 費物資の欠乏を招来しただけなのである。 やがてこの長井雅楽の航海遠略策は朝廷の夷人ぎらいにより破綻し、長州 は中央政治から疎外される。 その後長井は、尊攘派により失脚し藩是は攘夷に決定することになる。この 長州激派の行動が、その後の歴史をしてこの藩を窮地に立たせることになっ た。
禁門の変まで後2年
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