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幕藩体制の崩壊の要因を三つに限ったら 1.黒船来航 開港によって国内自給完結型の経済が崩壊した。 2.尊皇思想の国内伝播 忠の対象が主君(家)でなく聞いたことも見たこともないものに置き換えられ、脱藩の名分がたった。 3.下級士族(徒士)の造反 尊皇思想により忠のタガが外れ、生活困窮が政治運動に転換し、攘夷を旗印にした長州に参集した。 |
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一般的に徳川氏が長期政権を維持できた要因として 1)参勤交代制を中核とする政治の江戸集中 2)大坂を中心とする全国的商品流通の掌握 3)長崎を拠点とする対外通商の独占、 の三つだといわれている。 |
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石井氏は政治集中と商流統制が長期政権の要因だったと述べられている。
そうすると、この三つを全部壊したら幕府は崩壊したのか。否、簡単には崩壊しなかっただろう。
私見、忠の対象のタガが外れたことが幕府崩壊の大要因(徒士層の造反可能)と、税収基盤としての 農村の崩壊だったような気がする。新潟庄内本間家のような 極端な寡占化が起きてしまった。庄内藩は北越戦争における武器弾薬の全てを本間家に調達させた。庄内藩に限って矮小的にみると本間家が薩長と戦争したことになる。 |
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歴史的評価は別にして、近代日本黎明の原点は歴史的に幕末といわれている時代に、日本のどこよりも先鋭的に西欧列強と対決し、
徳川幕府にもただ長州一国が敵対しました。そして結果的に幕藩体制を突き崩し近代日本が誕生しました。
天誅組の吉村虎太郎、中平龍之介、那須俊平、那須信吾、坂本龍馬、沢村惣之丞、中岡慎太郎。そして平野国臣、真木和泉。諸藩の志ある老荘こぞって長州に走りました。 その時代の山口県、 すなわち防長二州たった50万人弱が、 日本全人口2500万人を統べる体制を突き崩してしまったのでした。これがなかったら明治維新は確実に50年遅れたといわれています。 そうすると現在の日本が今日のように先進諸国の一員になれたであろうか?、というところにまでたどり着いてしまいます。 山口県は、長門、周防の二国より成り立っています。この防長2州は関ヶ原の戦い(1600)以降毛利が領しました。ここには二つの支藩(長府藩、徳山藩)と一つの孫藩 (長府藩支藩、清末藩)、及び吉川領(明治の岩国藩) で構成されています。 |
![]() | 時代は幕末、志士に二つの大きな流れがありました。西、高杉晋作に象徴される長門・萩の吉田松陰門下生。東、周防遠崎妙円寺僧月性門下生。がありました。
月性はご多分にもれず攘夷派で海防僧とまでいわれました。彼はまた草莽人材発掘にも熱心でした。 本藩武士以外が人間として扱われなかった時代、発掘した人材は毛利藩家老浦(Ura)に送り込みます。 彼らは陪臣とはいえ建前で武士になります。浦は現柳井市阿月に知行地を持っていました。 育(はぐくみ)という制度が存在した。 |
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文久3年(1863)6月高杉奇兵隊が下関で誕生しますが隊員のほとんどが山口県東部の青年たちでした。やがて奥羽鎮撫総督府参謀となった世良や、
第三代奇兵隊総督となった赤根などが活躍しました。
特に隊員勧誘には赤根の活躍が大でした。文久3年(1863)10月奇兵隊総管に就任するや奇兵隊士「士分格申請(隊員の身分を武士にしろ!)」を藩府に提出します。武士支配に風穴を開けようとしたのです。
この浦家臣団に象徴される傍流の志士たちが報われることはありませんでした。世良や赤根が蒔いた種は維新回天を推し進めましたが、本流松陰門下生とその一統に果実はもぎ取られたのでした。 このHPを訪問された方の世良や赤根の評価に対する一般的な概念は、「赤根は裏切り者」「世良は悪逆非道で無知無能」と信じていることと思います。 赤根について、文久3年10月(1863) 第三代目奇兵隊総管(督)に就任しました。高杉晋作が奇兵隊を結成したのが同年6月7日です。わずか4カ月後には総管(督)にまでなりました。 生まれは現在人口500人たらずの一嶋礁にしか過ぎない柱島です。出自は医家とされていますが小さな島で医業が成り立つとも思えません。おそらく本業は百姓だったことでしょう。 その島にまで武士以外は人間として扱われない過酷な過程が存在したことでしょう。総管就任6カ月後の元治元年4月(1864)藩政府に「隊員士分格」申請を行います。彼の志が見えてきます。 こんな不条理な世の中俺たちで最後にしてやる この志が周防部の若者を奮い立たせこぞって諸隊に入隊したものと思います。 ![]() 幕末の会津は、テロ集団を一手に引き受け治安(正義を行った)を守ってきたのに、薩長が理不尽にも寄ってたかって攻め滅ぼし、家や町を焼き尽くし多くの人を殺した!。と思っていることでしょう。奥羽、北越全般戦略戦術担当は 長州の大村益次郎でした。北越戦線を含め動員兵力は十万人と伝えられています。 彼らはこれに惨敗しました。会津が書くことは決まっています。 俺たちには、鬼の官兵衛がいた。大川がいた。 西郷頼母家の悲劇があった。白虎隊はあの若さで自刃したぞ。どうだすごいだろう。に尽きるような気がします。 当時の日本が置かれた状況を考えてみて下さい。西欧列強は武力を背景に虎視眈々と日本を窺っていました。 農村は疲弊し幕藩体制を支えていた徒士層は貧窮にあえいでいました。あらゆる面で統一国家を早急に創る必要がありました。 会津のいう徳川への家訓を後生大事に守るなどあまりにも矮小です。そして賞金目当ての殺人集団を統べるなどアナクロでしかありません。 新選組は攘夷派の浪士たちによるテロが横行した京都にあって、治安維持を図った正義の集団とみている方がいらっしゃいますが彼ら(新選組)も間違いなくテロ集団なのです。 それも体制側のテロ集団だけに更にたちが悪い。 少し歴史を振り返ってみます。安政5年(1858)安政の大獄が発生します。 これも政権批判者に対する体制側のテロでしょう。この体制テロに反体制側がまたテロで応じたのです。この反体制テロに対し体制側に与した新選組が またテロで応じました。体制側が自己保身のテロほど危険なものはありません。その手先が新選組でした。 この指揮者が会津松平容保(まつだいら かたもり)だったのです。 テロにはテロで応ずる。テロの連鎖です。連鎖の鎖を断ち切るのが政治家でしょう。 その面で容保(かたもり)は暗愚です。治安悪化の要因を醸しだしたのは間違いなく徳川幕府でした。新しい政体を創り 西欧列強との関係強化を図らねば日本全土植民地化の危機的情況に置かれていました。 寄ってたかって攻め立てられたことは長州にもあります。 慶応2年(1866)6月、広島(小瀬川)戦線、島根(益田・浜田)戦線、福岡(門司・小倉)戦線、大島(屋代島)戦線、の4個所から幕府海軍を含め十二万人が襲いかかりました。十二万人対三千五百人です。 守る長州は三戦線に各千人、大島戦線は五百人でした。大島戦線は市街戦も経験しています。 本当に「寄ってたかって」攻め立てられました。でも結果は、会津と違って決して負けませんでした。島根浜田、福岡小倉は占領統治。大島は奪還。でした。この違いは何によって招来されたのでしょうか。 福岡戦線では坂本龍馬や中岡慎太郎も戦いに加わっています。 広島戦線では天誅組生き残り土佐:後藤深造も戦いで負傷しました。維新をみることなく彼らは散華しましたが、 彼らの「こころざし」は何だったのでしょうか? 庶民は塗炭の苦しみに置かれ、また侍だけが人間として扱われるこんな不条理な世の中俺たちで最後にしてやる。 この若者の志の違いだったように思います。同じ思いを会津地方の庶民までが 共有していたなら、自刃した白虎隊士の身ぐるみまではぎ取る無礼は働かなかったと思います。父祖の受けた苦しみを俺で最後にしてやる!!。 おそらく今の私でも命を投げ出すと思います。 赤根の先生は世良修蔵でした。彼は芯からの百姓です。書画の残ってない人物ですが、残された書簡からくみとれるものは書籍の購入依頼が大半です。伝えられる 悪逆非道さはどこにもありません。奥羽、北越戦乱の要因は彼がつくったように伝えられていますが、 奥羽戦乱の真因をつくり出したのは間違いなく仙台藩です。おそらく山口県の方も「悪逆非道の世良」 のイメージを持たれていることでしょう。大いに彼について知って欲しい一人(当HP管理者)です。 最後に一言、山口県の明治維新は庶民まで参加した革命だ。について。庶民参加は事実ですがその夢を誕生したばかりの明治政府は力ずくでひねり潰します。明治2年の脱隊事件です。多くの若者の 志を一気にひねり潰してしまいました。判明しているだけで133名も殺害しました。 これでもって「庶民革命」は幻想に終わりました。周防の若者は松陰門下生たちの栄達の走狗に使われた気さえしています。 |
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