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倉敷・浅尾暴動事件 第二奇兵隊浪士追討幕府軍構成及び派遣人員
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■ 当ページは次の史料(資料)による ◆玉島地方史 中 大田茂弥/著 忘牛庵 平成3年10月1日発行 標題は「倉敷騒動制圧のため幕軍玉島港に上陸」 1.四月公儀御軍勢御止宿 慶応2年(1866) 寅 氏は人数扣(控) 守安亀太郎 としているが、それ以上の出典は不明である。 ◆維新史料綱要巻六 東京大学史料編纂所蔵版 |
| 第二奇兵隊が脱走したという幕府への情報は、当時高森(山口県周東町・現岩国市周東町)に派遣されていた赤川又太郎(1828〜1874)により当時国交のあった芸州藩経由で在広幕閣(小笠原長行)に伝えられた。 以下、(維新史料綱要巻六)東京大学史料編纂所蔵版に依によって記述する。 注) 赤川又太郎の任務は対幕折衝要員(八組士・萩明倫館教授)であった。開戦が避けられなくなった時点で広島で拘禁されている。 |
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−幕軍側の記録− ■ 4月11日 新暦 5月25日、晴れ夜雨 老中小笠原長行(唐津藩)、広島藩に命じ、領内海岸に兵を出して浪士立石孫一郎の徒党に備えしむ。尋て、申ねて厳戒を令し、逋亡(ほぼう・逃れること)を捕斬せしむ。
■ 4月12日 新暦 5月26日、晴れ
■ 4月13日 新暦 5月27日、晴れ夜雨
■ 4月14日 新暦 5月28日、夜前雨朝晴れ
■ 4月15日 新暦 5月29日、晴れ
■ 4月16日 新暦 5月30日、晴れ
■ 4月17日 新暦 5月31日、朝曇り晩雨
■ 4月18日 新暦 6月1日、朝雨、晩小雨 |
| 原文送り仮名は片仮名。平仮名は筆者による。 原文のまま。なお天候は現地倉敷付近。
4月12日歩兵奉行(連隊長)戸田肥後守は命令を受け在広幕府軍を率い二隻の艦艇で浪士追討のために派遣されることになった。 |
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玉島宿割帳にみえる浪士追討幕府軍考 幕府は文久改革の一環として、旧来を改め軍政掛という職名を設け改革に取りかかった。宿割帳整理データ処理で 1.軍目付曽我種右衛門は他の資料などに権右衛門とあり( )内で両方示した。 2.宿泊先ごとに 上下○○人、〆○○人、外に○○人の記述があり、 上下○○人は表記者を含めると解釈し内数。 〆○○人も表記の者があればそれを含めた内数。 外に○○人とあれば外数。 職種で解り難いものとして「調役」と「附屋」がある。当時「調(しらべ)」は現在なら一般的な調査の意でなく、「整え」に近いもの考え「縫製・洗濯」とした。 「附屋」は勝手解釈で理髪とした。 また「才領」は運搬・搬送担当考えられから「輜重兵」とした。
宿割帳を整理して見えてきたもの
追討軍が連隊規模だとしたなら |
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![]() | 慶応2年4月14日、広島から海路玉島小原に上陸した幕府軍は、現在の玉島中央町,仲買町に分宿した。
判明している宿泊先は @仲買町 吉井屋 A中央町1−21−13 西国屋 B 〃 1−21−17 久米屋 C 〃 1−21−8 米屋 D 〃 1−21−7 西綿屋 E 〃 1−18−4 児島屋(駐車場) |
| 玉島米屋は連島米屋の分家である。連島米屋の当主三宅定太郎(高幸)は尊攘運動に財貨を湯水の如く浪費し破産していた。破産管財人が分家玉島当主(安八郎高炳)であった。 高幸の妻は高炳の妹である。 往事の中央町、仲買町の住人の多くは玉島を離れたが玉島米屋は当地にとどまった。 |
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現在の玉島中央町の地形は往事と著しく違ったものになった。上手(上流)浦川の中州に出来たような町であった。玉島港側は倉庫群で通り反対側が
各店舗である。赤点線で囲んだ部分と思って頂けたらよい。幕末当時浦川が運ぶ土砂で玉島港の機能は失われていた。備中綿の集散地として栄えた玉島の面影はない。当時の住民で現在も残っている家は数軒にとどまる。
<== 保存されている西綿屋 |
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| 1995年当時残っていた児島屋。現在は長岡藩家老河合継之助逗留の地の石碑を残す。 | ||
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