第二奇兵隊の悲劇 管理者のスタンスについて

会津藩系の方、長岡藩系の方、河井継之助ファンの方、テロ集団新選組ファンの方、幕藩体制擁護の方。 幕藩体制下貧農が這い上がれる(た)と信じている方。閲覧せず引き返して下さい。血圧が極限までUPするかも知れません。
白虎隊 飯沼貞吉の証言   会津若松城下 長州兵の戦死者と会津藩   記録に残る戊辰会津藩投降者一覧表
会津藩 陸奥(斗南)北遷の理由はこちら    データで見る農村分解
幕末・歴史上の嫌いな人物を列挙すると
筆頭 ■松平容保会津藩主
 幕末国内政治の混乱の首謀者。 体制側テロ集団の首魁。 その他枚挙にいとまなし。
2番 ■長岡藩 河井継之助
 慶応4年のあの時期、局外中立武装独立。 一藩のことより新国家建設が急がれていた。
歴史上の人物にするにはまだ生臭いやつだが
3番 ■海軍 源田 實
 醜悪極まりなし。海軍に言論の自由があった。などたわごと。 航空特攻生みの親。 人類最初の原爆投下責任者の カーチス・E・ルメイに国家最高勲章授与の根回しを行うなど国民、いやこの無神経さは人類の敵。  軍事ずきな輩に知ったかぶりの「源田」ファンがいることさえ許せない。
4番 ■陸軍 辻 政信
 テクノロジー無視。戦略戦術なきがゆえに人間をボロ切れのごとく扱った。 陸大の本質体現者。  この馬鹿は、現職国会議員でありながら、東南アジアで行方不明になるまで、軍略・戦術の天才と自らを信じていた。

テクノロジーの絶対的信奉者です。 テクノロジー音痴の精神論を蛇蝎以上に嫌います。 よって当HPで勇敢だの壮烈無比だの精神論的記述は特別の場合を除いて一切 記述していません。 いくら必勝の信念的精神論で武装しようとも、初速500m程度のパチンコ弾の前に立てば、 それまで命あふれる肉体を1秒後にはただの肉塊にしてしまいます。 幕末銃器はすでに連発銃と大砲は施条砲の 時代に入っていました。 そのような状況で兵士に刀槍・弓矢で戦場に赴かせたなど言語同断です。
ついつい筆が滑って関係記述の中で旧日本軍の批判も沢山しています。 あまりにもテクノロジー音痴だからです。  戦争緒戦シンガポールを占領して初めてレーダーに八木アンテナが使われていて驚愕しています。 当然以前からレーダーは知っていました。 開発検討会が開催されます。  結果はこちらから電波を発するなど「闇夜にカンテラ」愚の骨頂。でオジャン。  彼らの頭は、天気晴朗昼間だけの戦争しか頭にありませんでした。  次に連発銃。 100発1中より 「1発必中の単発銃が勝る」でこれもオジャン。 考えてみて下さい。 双方10人程度の兵が不時遭遇し散会銃撃戦になったとします。 一人ひとりが違う相手をねらって射撃するはずもありません。敵一人に味方3人が照準を定めているかも知れません。  連続して引金を引けない単発銃側が 確実に全滅の危機に陥ります。 陸軍の大砲もしかりでした。 着弾観測者は砲側に居りません。  当然別の敵陣が視認できる地点に進出します。 必須アイテムは無線機(実用の域に達していない)が必要でしょう。 悪くて手旗。よくて有線電話でした。 当然ジャングルで手旗など通用しません。 それもこれも観測員と砲側の連絡が巧く取れたとします。  だがジャングルでは正確な着弾点がしっかりわかりません。 高い樹木の間から煙りが立ち上るだけです。 米軍はこれに簡単に対応しました。 垂直発煙弾を開発しました。 日本軍は持っていませんでした。 満州の荒野での戦闘しか頭に思い描けませんでした。  さなに、日本人特有の悪い癖がありました。 会議などで声の大きいヤツが勝ってしまう弊害でした。 お宅の会社でも見かけませんか?。 太平洋の 島嶼で航空機の戦いでした。 日本機は燃料タンクが防弾構造になっていません。 燃料はガソリンですから すぐ発火します。 熟練パイロットを次々と失う結果になります。 現地から防弾構造燃料タンクの要望があがります。  結果は源田実(海軍・戦後参議院議員)が、がたがた云うな!!。一機でも多く生産しようでチョン。  彼の馬鹿さを書くと私が悶絶発狂しそうです。
この非論理的発言で防弾燃料タンク開発を封じ込めたその当人が、 昭和50年(1975)に発売された「別冊週間読売」のコラムで 海軍では、論理の通っている議論が尊重され ・・・・ 云々。と述べている。 勝手で都合のよいことを書くな!!。
極めつけは、 昭和19年9月、海軍は大森仙太郎海軍中将を特攻部長に任命し、同13日軍令部参謀源田実は 一通の電報を発した。 「神風攻撃隊ノ発表ハ全軍ノ志気高揚竝ニ国民戦意ノ振作ニ 至大ノ関係アル処、各攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊) ヲモ併セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒ度・・・・・」 すなわち、特攻部長を決め、 特攻隊名まで決めて人間爆弾となる人選を行っている。 そして突入は10月25日。この事実をどう説明するのか。  あくまで指導部は特攻隊を「志願」であったという詭弁を弄する。志願なら なぜ1名を除いて佐官の特攻隊員はいないのか。なぜ将官の特攻隊員はいないのか。 なぜ、皇室関係者はいないのか。特攻を知らなかったとでも言うのだろうか。 単座1名の航空機以外に、艦攻、艦爆の副座にご丁寧にもペアを乗せて特攻させた。 佐官、将官が操縦できなくてもペアは組めたはずだ。志願が聞いて呆れる。愚弄するにも程がある。
 殉国の至情に基づく先に航空特攻があった。と公言して憚らない連中に聞きたい。
 彼、源田はこの特攻について戦後、片言隻語触れなかった。 馬鹿らしいのでこれで終わり。 この先は、半藤一利氏著:昭和史(上・下)を読んで知って下さい。 それでないとあなたが馬鹿にみえますよ。
元山海軍航空隊の青木司令は1945年8月11日家族を連れて日本に逃亡 したとこのHPにある。

 当HPの私の視点について。まず、当時の庶民が置かれたであろう弱者の立場に立っています。 よって事象を多面的・多角的、総合的に分析し、また検討を行っていません。 すなわち管理者(筆者)が気に入った資料を掲載しています。 これが「許せない」という方は閲覧せず素通りして下さい。
 当初は歴史に埋もれた(埋もれさせた)第二奇兵隊倉敷暴動事件をUPしたものでした。 靴をすり減らし過去帳調べのお寺廻りや、口伝伝承の 調査をしていました。調べ尽くしたとは思っていませんが、正直なところ新発掘資料が少なくなってしまったのも現実です。よって門戸を無制限に拡げ 現在の体裁となってしまいました。 現在は幕末東北諸藩の醜態を掲載しまくっています。  ことの発端は松野儀助調査の折、猪苗代湖畔翁島荘の宿泊からでした。 山口県から調査に来たと食事の際話すと、 男性同宿者の内2人を残し憤然と席を立ったのです。 彼らの歴史認識を疑ってしまいました。 よって事実(史実)とデータで幕末を記述しています。
 なお当サイトは間違っても研究サイトではありません。 深く知りたい方は参考、参照文献(出典文献を明らかにしているつもりです。)か、 ご自身の靴をすり減らしてお調べ下さい。ご質問、間違いのご指摘など、トップページのアドレスで管理者に届きます。
 また、自分(当HP管理者)のことは棚にあげ、歴史書を標榜する史書、及び文献表現の枝葉にこだわります。 特に第二奇兵隊軍監で、奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵殺害の金沢屋を 遊郭と記述する輩等の無神経さなど、噴飯を通り越して人間性を疑います。奥羽街道に面した一等地の旅籠屋が遊郭とは笑わせます。 現地を調べもせず奥羽戊辰戦争と仙台藩(藤原相之助著)などで青楼としてある のを読者の無知をよいことに遊郭としたに違いないと考えられます。
  物書きが遊郭の定義も知らず書いていることに呆れかえってしまいます。 反長州で凝り固まってざれ歌さえねつ造した藤原さんでも「青楼」とは書き方ましたが「遊郭」とはしていません。
 地図でご覧のようにかっての福島城が現在の福島県庁です。歴史を書く物書きが城前の北町を遊郭というのです。
そこが遊郭なら、仙台藩も遊郭から100m程度のところに軍事局を設置したことになります。仙台藩もスケ ベーか??  人間間違えるこはままあります。だが、福島市北町が遊郭であったかどうかすぐ調べられます。
慶応四年(1868)閏4月19日夜、すなわち仙台、福島藩士が金沢屋を襲撃したとき、二階別室に 会津藩士2名同宿していたと史書にある。その目的(買春)で彼らも売春宿に泊まったのか。
最近沢山の市町村で住居表示が法によって変えられてしまっています。由緒ある地名が「希望町」などと変えられた日にゃー 調べごとする人間にはたまったものではありません。住居表示変更の法律は天下の悪法です。市町村のご担当よく考えて下さい。
藤原さんが紹介している長州兵が唄ったというざれ唄。 [奥羽戊辰戦争と仙台藩]より
「竹に雀を袋に入れて後においらのものとする」 竹とすずめは仙台藩の家紋だという。長州兵が仙台を侮蔑し仙台藩士の怒りが増幅したと彼の記述にある。
東北地方のかたは自分のことを「おいら」とおっしゃるかもしれませんが、山口県では自分のことを「おいら」と絶対言いません。  その昔自分のことは銘々(めいめい)でした。少し縮めて「めいめ」でした。
 当HPでは、補完資料や図表を沢山使用してます。おおむね出典を明らかにしている つもりです。また出典先を明らかにしているものは歴史的資料として通用します。 参考資料はここかこちらをご覧下さい。
会津藩籠城糞尿計算
会津籠城戦 期間糞尿堆積量推計計算 (8月23日〜1カ月間)
(記録) 人員500g600g700g800g900g
北夷雑記 5,23578,52594,230 109,935 125,640 141,345
会津戊辰戦史4,965 74,475 89,370 104,265 119,160 134,055
籠城人員は史書によって若干違う。 ( gは1日一人当たりの排泄量 )

 籠城で堆積した糞尿の推計計算。城内ふんぷんたる悪臭で閉口したとある。斗南藩史では糧食も尽きかけとあるが、悪臭も降伏の要因か 、なにしろ100トン近いものが堆積したであろうから。・・・・・・・・・ いくら城内が広いからとて昼間は鉄砲の弾も大砲の弾も飛んでくる。遮蔽物の陰での排泄となると いきおい場所は限定される。そうすると立方体的に排泄できるわけではないのでたちまち満杯となってしまう。 私、現役時代社員その他で 夏キャンプと称し野外活動を行ったが、頭痛の種はトイレの確保であった。戦史にはトイレのこと全く触れていない。 第二奇兵隊倉敷事件の倉敷への船旅でもトイレ休憩を記述している。それほど 食べることと、排泄は切実な問題である。
2008年3月29日讀賣新聞に面白い記事が掲載されていました。東京放送(TBS)2月16日放映の「歴史王グランプリ」というクイズ番組で、 戊辰戦争で会津藩が降伏した理由の正解として「城内ウンコだらけ」に早速 会津若松市菅家一郎市長がTBS番組製作会社に抗議文を郵送した。そうです。菅家市長の記者会見で 会津藩降伏は、
@他藩からの応援の望みが断たれた。
A1カ月に及ぶ籠城による傷病兵の増加や物資の枯渇。など様々な要因が重なった結果。
と述べたそうです。
市長の歴史認識を疑います。
@項、8月早々、すでに北越・東北諸藩に会津応援援兵の動きも実力もありませんでした。
A項、籠城総人員は史料により少し違いがありますが、修訂防長回天史(北夷雑記)で5,235人。その内戦闘員3,481人。 鉄砲2,845挺。銃弾22,000発。66.5%が戦えるはずでした。傷病者が増えた?。8月29日に大規模な城内出撃を最後として、 後の降伏まで大規模な戦闘は4週間あまりありません。逆に攻める側に死傷者続出です。一般的に城郭防禦戦は 圧倒的に防禦側有利です。また、記録されている病者は570人。構成比10.9%。城郭も戦闘資源も温存し、 実際降伏しているのですから。降伏した最大の要因は城内の「ウンコ」以外に 降伏の説明が付かないのが実際です。降伏がたった一つ要因ということはありませんが、クイズ番組で複数正答など ありえませんので絞り込んだものを正解としたのでしょう。
「ウンコ」の話は笑えるが、會津藩、莫大な贋金を製造流通させた犯罪行為は笑えなくなりそうです。
このようなおバカ計算をする低脳が当HPを公開しています。 それを承知で閲覧下さい。


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