第二奇兵隊と天誅組生残り石田英吉(土佐藩、長州忠勇隊)

 土佐藩 石田英吉(天保10年11月8日〜明治34年4月8日)がときに潜んでいた洞窟か?。
 場所:山口県大島郡久賀町畑能庄
 ここはこの事件の当初に殺害された楢崎剛十郎の生家である。 昭和16年頃(1941)偶然に発見された。現在の海岸線から2.8km 内部に入ったところで標高200m。嘉納山(682m)の 山襞にある。
 英吉について
 土佐国安芸郡中山村(現高知県安芸郡安田町中ノ川。生家跡現存) の医師、伊吹泰次の長男として誕生。文久元年(1861)22才の時医術修養のため 大坂緒方洪庵の塾に入りやがて同2年(1862)憂国の志士と交わり、 文久3年(1863)8月に発生した天誅組の挙兵に参加。
 文久3年9月24日(1863年11月5日、雨)夜7〜8時頃、 総裁中山忠光を無事を脱出さすため、那須信吾(土佐藩、35才)を隊長とする 6名の決死隊(全員闘死)が鷲家口の彦根藩(井伊家)本陣に突入し、 かく乱作戦をとった。
 最後まで中山忠光に付き従ったのは、 後藤深蔵(上田宗児)・嶋浪間・半田門吉・石田英吉(伊吹周吉)・ 山口松蔵、藤吉の六名であった。やがて一行は無事大坂長州藩邸に到着。やがて山口県 に逃避行する。ご存じのようにその後長州重商派(俗論)政権により忠光は謀殺される。 翌元治元年(1864)6月、山口県防府市で脱藩諸国浪士を糾合し結成された 忠勇隊(総督:久留米藩真木和泉、天誅組生還者は全員入隊している)に参加。禁門の変時には久坂玄瑞、真木和泉 らと共に鷹司邸にあった。

洞窟の場所、カシミールで作成洞窟の入口を外から見る

やがて久坂、寺島、真木らは自刃。 鷹司邸を脱出する時肩先を槍で突かれれ 重傷の石田英吉は「もっこ(土石などの運搬具)」に担がれ逃避行を続ける。担がれている「もっこ」が 物に当たると 弾みで回転し吊縄が絞れ込まれ英吉はうめいたという。逃避行の一隊に英吉は自分 に構わず死地を脱するように促したと伝えられている。  死地を脱した者たちは英吉の身を案じたがやがて再会し無事生還を喜ぶ。(防長史談會編、黒岩直方の話) 英吉にとって幸いは「もっこ」担ぎの人夫が最後まで彼を見捨てなかったことであった。 すくなくともこの当時の長州藩の諸士(無名に近い人たち)にあっては、藩閥を越えた人間的同志愛があったことが 記録でわかる。

この洞窟(楢崎家)に石田英吉が潜んでいた記録上の論拠
 禁門の変の敗戦と、下関攘夷戦(諸国商船無差別砲撃)の報復として連合艦隊が 下関の砲台を占拠する事態と第一次長州戦争の危機により政権の主導権は幕府に 恭順する重商派(俗論)の台頭となり忠勇隊は解散してしまった。幕府恭順政権にとって 諸国の浪士は邪魔者でありそうした中で中山忠光は謀殺されてしまった。 以下記録に残る石田英吉の動静について。

 芥川義天誌 慶応元年(1865)正月中旬条;(当時義天らは尊攘の士でもって諸隊の結成を企画していた)
 「翌朝文武場に行き会せば、白井、松宮等、国内の状況視察の為、宮市(防府市)附近に至る帰途 ら節戸田村(徳山市、へた)において冷泉に、花岡(下松市)に於て冨永に遭遇し、 四名共に阿月に来るなり。阿月の志士と浦氏の文武場に集合し、義兵を南海に挙げ民心を鎮撫 せんことを決議す。〜以下略〜 冨永は松村五六郎と共に久賀村(大島郡久賀村) 覚法寺に至り、大洲浩然及び其の弟鉄燃其の他と謀を通し、同地の兵士数名と 同地畑に潜伏中の土佐藩(高知県)石田英吉、児玉若狭(吉敷郡小郡町)の士、 山県源吾(兄は大楽源太郎。維新後兄とともに久留米で殺害される。)を拉れ一同阿月に集合す」とある。これにより彼は大島郡畑能庄に居たことが判る。

洞窟の中から外を見る
内部から入口をみる
 現ご当主の父君が昭和16年頃(1941)排水路整備をしようとして穴にもぐった ところ奥に一室があることを発見。一室について伝承は存せず本当に偶然であった という。水路はこの潜入口の下面に巧妙に造られて落差を伝わる水音はするものの 乾いている。
画像でおわかりのように石組みは非常に丁寧に造ってあり崩壊する危険を感じな し、奥に進むほど巧妙に広く高く造られている。

ノミ跡もハッキリわかる天盤支石
 洞内は広くはないが、画像でおわかりのように天盤支石にノミ跡がハッキリわかり この洞窟が偶然に出来たものでないことがわかる。支石のまわりは一周でき、大人がほぼ 立って歩くことが出来る。この洞窟は段々畑の崖を利用しており、明かり取り小孔が幾つもあり 自然光が入ってくるように設えてある。
 天盤の上は当然畑である。
ノミ跡もハッキリわかる支石
 
洞窟の断面図

 洞窟の断面図である。入口から約2m入ったところから一段高くしてあり、覗いただけではその先 に小部屋があるなど想像すら出来ない。入口も50cm程度と狭く奥に部屋があることが 分かるから潜れるが、それでも少しばかり勇気がいる。
 非常に手の込んだ造りになっていることがおわかり頂けたとおもう。この洞窟がある意図 (潜伏)をもっていると断言できるであろう。
 藩権力から同志を救うために造られた。 そう感じるのは筆者だけであろうか。



当サイトの写真その他記事内容等を自身のサイトに掲載する場合管理者の了解を取って下さい。
第二奇兵隊取材班
E-mail   お問合せ、ご質問はこちら
ADDRESS Kudamatu City S.K.P
Version 1.00 (C)Copyright 1999/2001

JOY Searcher    Yahoo!JAPAN    総目次に戻る