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井伊大老の見識と靖国参拝はこちら 孝明天皇の時代。嘉永4年(1853)将軍は家慶(いえよし)でした。その後家定、家茂、慶喜と続きます。家慶、家定時代、 開国・尊王攘夷運動・倒(討)幕の時代になりました。嘉永七年(1854)3月3日、 日米和親条約 (注1)。 8月、日英和親条約。12月日露和親条約。 翌安政2年(1855)12月、日蘭和親条約。 安政4年(1857)5月下田条約締結と続きます。 安政5年(1858)1月、老中首座 堀田正睦(佐倉藩[千葉県]の第5代藩主。 まさよし)は日米通商条約の勅許を奏請(そうせい) しましたが、孝明天皇は諸大名の意見を聞いて再願せよと却下してしまいました。 だが、3月11日には、九条尚忠の建言をいれ、外交は幕府に委任すると言い切っています。 ところが 公卿88人が天皇の考えに造反し、外交権限幕府委任を取り消し諸大名の意見を聞き再願する よう二転三転してしまいます。 4月、井伊直弼が大老に就任するや勅許を待たず、 6月19日、日米通商条約調印。そとて安政の大獄へと続きます。 参考:大老は幕末まで13人就任した。井伊直弼は12人目。 最後の大老は酒井雅楽頭忠績(1865/02/01〜1865/11/12) 幕末老中在任表はこちら。 |
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世は攘夷の時代に入ります。その急先鋒が現在の山口県(長州藩)でした。なぜ攘夷なのかここが大切なのです。当時の天皇は外国人大嫌いと伝えられています。
1.日本は神国である。外国人の足下に国土を蹂躙させてたまるか! よって攘夷だ! 2.幕府は勅許をまたず勝手に条約を調印した。天皇をないがしろにした。 よって尊王倒(討)幕だ! 3.勅許を得ずして、開国調印をした幕府を「攘夷」「攘夷」と云って困らせろ! よって攘夷だ! 志士たちが「攘夷」や「倒(討)幕」を叫んだ真因(本音)は上記のいずれとも違う。というのが私の視点なのです。藩ぐるみで攘夷を叫んで行動に移そうとしたら、 条約締結をした幕府政権の立場は困るでしょう。 政治的要因があったにしろ土佐藩(高知県)をはじめとし 他藩の若者が本当にたくさん脱藩しました。当時各藩とも脱藩は重罪で百姓の逃散のようなものでした。彼らが攘夷ダー!と云って、脱藩したとしても幕府はちっとも困りません。 それだけなら単なる烏合の衆なのですから。 彼らが命をかけてつかみ取ろうとしたものは一体何だったのでしょうか? 詳しくは幕藩体制下の身分差別構造と及び貨幣経済の浸透と本百姓の消滅や「本章」2.なぜ攘夷だったのか?をどうぞ。 |
| 当時の日本の外交権は幕府にあったと思います。井伊さんを弁護するわけではありませんが、 勅許の必要はないと筆者は思います。 |
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伝えられる井伊直弼の見識 勅許なき条約調印は攘夷派の術中に落ちるとの具申に対し、大老は「その方ども申す処一応尤もに候え共、 こと危急にせまり勅許をまち候時日もこれなく、尚また海外の形成を考察するに古今とちがい、 航海の術発達し、万里も隣の如く、交通通商をひらき、そのほか兵器軍制などみな実戦に試み、 国富み強く、強いてこれを拒絶し戦端を開き幸に一時勝を得候とも、海外みな敵となすとき全勝 いずれにあるやあらかじめはかるべからず、いやしくも敗をとり、 地を割き(領土割譲)償わざるを得ざる場合に 至たらば、国辱之より大なるはなし、 今日拒絶して永く国体を辱しむると、勅許を待たずして国体 を辱かしめざるといずれか重き、かつ朝廷より仰せすすめられの儀は御国体をけがさざるようにと の御主意にこれあり、そもそも大政は関東(幕府)へ御委任あそばされあり、政治をとるもの 臨機の権道なかるべからず、しかりと雖も勅許を待たざる重罪は、甘んじて我等壱人受候決意 につきまた他を云う勿れ。」 |
| 井伊さんが死刑を言い渡した吉田松陰の墓は東京都世田谷区若林4−35−1 松陰神社境内に、 そして松陰の刑死半年後、本人直弼さんの墓は世田谷区豪徳寺2丁目にある。直線距離で約900m。 |
| 彦根のような海岸線を持たない内陸に育った彼が、国際情勢や技術格差について示した見識は注目すべきである。 このすばらしい見識を持った人物があろうことか安政の大獄を引き起こし、幕府の屋台骨を揺るがすことになった。 彼の目論見は強権をもって反対勢力の壊滅を図り幕権確立を果たそうとしましたが、 かえって反幕気運を台頭させる結果となってしまったのでした。 |
| 井伊直弼という人物ほど評価の分かれる人物はいない。攘夷をかなぐり捨て開国した 明治の元勲らも修好条約には目をつぶり、彼の政治手腕(強権政治)を非難し国賊とした。 時々の政治が彼を利用した。 彼の見識は別にして、開国がなかったら、まず、対馬はロシア に占領されていたであろう。(文久元年[1861]露艦ポサードニクの対馬占拠事件) |
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通貨問題が経済を混乱させた 日本の貨幣と外国の貨幣が品位も交換比率も違っていた。 初期国内交換基準 ![]() 日本は金1:銀 5 外国は金1:銀15 1ドル銀貨=銀27gであったので金1.8gとの交換だったが、日本国内ルールの適用を主張した。金融テクノクラート不在の幕府はこれを容認。 小判は奔流のごとく流出した。 万延元年(1860)、小栗忠順(おぐりただまさ、1827〜68[文政10〜明治1]) 34歳の時、井伊大老の抜擢により日米修好通商条約批准のため米艦ポウハタン号で渡米。貨幣の問題に気づいた彼は帰国後 小判を改鋳(万延小判、金含有0.88匁=3.3g)を行った。旧1両の4分の1と万延小判を等価としたことで国内物価が高騰してしまった。 |
| −−閑話休題 桜田門外の変 キャリアとノンキャリア−− |
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注1 真の開国はこの時から、ときの老中は備後福山藩主(広島県)阿部正弘(1819〜1857 当時33才)。 天保7年(1836)藩主の座につく。同9年奏者番、寺社奉行を経て、 同14年老中となる。老中期間中は有力大名と協調を図り、御三家は 幕政の要職に就かないという慣例を破りペリー来航という難局を乗り切るために 前水戸藩主徳川斉昭に海防参与を要請。 開国という未曾有の政策転換は 徳川の威信の上で実現させた。 こうした政治姿勢は譜代門閥派からの抵抗を 招いたがその回避策として安政2年(1855)堀田正睦に老中再任を求め首座を譲った。 ハリスの江戸訪問や将軍継嗣問題が政治の 争点になりつつあったさなかの安政4年(1857、38才)病没した。 堀田正睦は、藩主時代には蘭学を奨励し、佐藤泰然を招聘して 順天堂を開かせるなど蘭学好きであったことから、「蘭癖」と呼ばれた。 幕末においては、 攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。 幕末ダイジェストは こちら でどうぞ |
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