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| 1.貨幣経済の浸透 |
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18世紀のはじめ、元禄時代、貨幣経済が浸透し商人が台頭した。流通のあらゆる面に商人が介入。 商人は米の売買で利益を計上し、金融で資本を蓄積していった。 極端な例で幕末庄内藩 本間家の資産で戊辰戦争を戦った。 下層武士を含め九割以上の庶民は貧困に苦しみ、農村では本百姓が崩壊し水呑百姓化した。 |
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大名家も資本の蓄積が行えず資本的には最下層に位置付けられた商人の支配下に陥った。 |
| 藩政改革 | 藩財政健全化模索 武士貧窮化の救済 百姓公租引き上げにより貧窮加速。 下層武士の貧窮救済はどの藩も最期まで出来ず幕末に至った。 明治維新はこの層が造反。 |
| 商人の台頭は | 工業支配の強化 消費物資高級化 これにより庶民の生計費上昇。 |
| 藩財政確立のために | 百姓の収奪強化(耕作面積が限定され収奪強化を指向) 衣類=木綿奨励 米飯規制 雑穀食奨励 嗜好品、酒、たばこなど生活全般を規制。 米の生産者に米食規制。お茶の飲む女房は離縁しろと迫った。 |
| 幕藩体制後期 | 各藩とも年貢の定免法施行。(不作でも一定量公租) 幕末にかけて全国的に凶作が続き百姓の没落が加速。荒廃した農村の立て直しはかなわず、 寄生地主に絞り上げられ、掘っ建て小屋や物置に起居した。 |
| 公租の確保 | 五軒の家を組み合わせた五人組の組織を作り租税の連帯責任制をとらせた。 納税不能に陥れば、妻子は年季奉公という名の人身売買を黙認した。当然売春や 農奴的収奪の対象となった。 |
| 開幕以来、徳川幕府は絹を支配していた。長崎で唯一幕府のみ取引できた。 庶民には奢侈禁止令で絹物の着用を制限した。 長州奇兵隊でも、同一の仕組みとし徒士(かち・最下級の武士)以上の隊員の名札は絹とし、それ以外の隊員は綿であった。 |
| 2.本百姓の消滅 農村の階層分解 |
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基軸通貨的な米だけに価値を置く農本主義体制が、野放しの商業資本に食い荒らされていた。 基軸通貨の米は豊不作に大きく影響を受けたたが、この制度は他の物資や労賃が米価に連動してはじめて成り立つ。 だが連動は一切行われなかった。 また商業資本への 体系的課税制度を持ち得なかった。 よって本百姓が消滅し日本中貧民だらけであった。 本百姓の消滅が諸藩の財政を一段と脆弱化させたが、殖産興業は侍の価値観に相容れず、収奪の対象は常に百姓であった。各藩とも藩財政の窮乏を 商業資本に依存したことで彼らに離反されることを極度に恐れた。 |
| 天保3年(1833年)〜天保7年(1863年) |
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天保以降、天災や疫病が続き各藩の財政は破綻し、百姓は租税に苦しんでいた。 成人男子の年間食糧消費量(食べる量)は1石(150Kg)であった。よって貧農は生存そのものが脅かされた。 |
| 天保12年(1841年)頃の実態 |
| 区分:項 | 年間収穫量 | 年貢(租税) | 可処分残 | 構成率 (%) |
| 零細農 | 750Kg 以下 | 300Kg | 450Kg以下 | 60 |
| 中農 | 750〜3200Kg以下 | 300〜1280Kg以下 | 450〜1920Kg以下 | 26 |
| 富農 | 3200〜7500Kg以下 | 1280〜3000Kg以下 | 1290〜4500Kg以下 | 11 |
| 大地主 | 7500Kg以上 | 3000Kg超 | 4500Kg超 | 3 |
| 備中長尾村(岡山県倉敷市)の階層分解の実態 |
| 年 ------ 項目 | 元禄8年(1695) | 寛政12年(1800) | |||||||
| 戸 数 | 反 別 | 戸 数 | 反 別 | ||||||
| 所有面積 | % | 町・反畝.分 | % | % | 町・反畝.分 | % | |||
| 50町以上 | − | 1 | 0.3 | 69・95.04 | 40.2 | 大地主 | |||
| 50町未満 | − | − | |||||||
| 40町 〃 | − | − | |||||||
| 30町 〃 | 1 | 0.4 | 10・27.17 | 5.9 | 1 | 0.3 | 19・26.12 | 11.1 | |
| 10町 〃 | 5 | 1.9 | 38・76.21 | 22.3 | 2 | 0.6 | 12・58.27 | 7.2 | 富 農 |
| 5町 〃 | 3 | 1.2 | 10・43.07 | 6.0 | 3 | 0.9 | 11・68.08 | 6.7 | |
| 3町 〃 | 32 | 12.4 | 55・50.23 | 31.9 | 9 | 2.6 | 16・53.23 | 9.5 | |
| 1町 〃 | 37 | 14.3 | 27・11.27 | 15.6 | 16 | 4.6 | 9・40.18 | 5.4 | 中 農 |
| 5反 〃 | 36 | 13.9 | 14・31.07 | 8.2 | 23 | 6.6 | 8・49.18 | 4.9 | |
| 3反 〃 | 76 | 29.3 | 14・65.23 | 8.4 | 74 | 21.3 | 12・97.01 | 7.5 | 零細農 |
| 1反 〃 | 69 | 26.6 | 2・84.03 | 1.6 | 219 | 62.9 | 13・01.11 | 7.5 | |
| 259 | 100.0 | 173・88.28 | 100.0 | 348 | 100.0 | 173・88.22 | 100.0 | ||
| 新修倉敷市史 第三巻(上) | |||||||||
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富農、中農が分解し零細農に転落したことがわかる。寛政12年(1800)には戸数の84.2%が三反
未満である。その所持する面積は15%で、一方大地主は2軒で耕作面積の51.3%を占有した。
三反での収量は多く見積もっても600Kgである。50%以上貢納させられたから実収は300Kgで一年間
生活しなければならない。衣食住、肥料・農機具代も含めてである。 成人一人が一年間穀物を最低約150Kg食べたから、この零細農民たちがどんな生活をしたいたか大方想像つくであろう。 幕末このような状態だったから、明治維新は可能であった。 中農がやっと世間並みの生計が保たれた。社会補償の無い時代働き手の 病気や怪我で貧窮にさらされた。農民の租税は連帯責任制を取らせたので、納付不能者は妻や娘を売らざるを得なかった。この窮状を救わんとして 新潟柏崎(桑名領)で「生田 万 ( いくた よろず ) 」は決起しが、機熟せずあえなく挫折。世にいう「生田 万の乱」である。 零細農民が這い上がるために 1)余剰労働力と備蓄食料があること。 2)余剰労働力の賃仕事が年間通じてあること。 3)余剰農産物の売却先があること。 1)余剰労働力そのものがなく(飢渇に苦しんだので嬰児殺しは公然の秘密であった)、3人家族が食べる米ぐらいしかなかった。 よって、百姓の米食を規制した。 2)農村に継続的賃仕事はなかった。職業選択の自由はなく、逃散し都市に逃げ出すことになる。 3)農民による農産余剰品(有りもしなかったが)の売買は禁止していた。 当時の農村で地下役人(大庄屋層)の監視の目を逃れることはできなかった。 |
| 3.百姓の抵抗活動 (藩別百姓一揆多発藩ベスト20) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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■ 大塩平八郎の乱 天保8年(1837)2月、大坂東町奉行所与力大塩平八郎が飢民の惨状黙しがたく反乱を起こした。 原因は、各地の津留(米麦穀物の移出禁止)により餓死者が続出しているにもかかわらず、奉行所が保有している 米を飢渇者に放出せず、ひそかに江戸廻米を行うなど暴政を行ったことに起因する。 乱は半日で鎮圧されたが その影響は大きかった。 専門的にはこちらをどうぞ |
| 4.貧困によって |
| 山口県の人口推移。 資料によると近世中部地方農家女性の平均死亡年齢は39才。とある。 |
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| 上表は幕末から明治初年の山口県の人口推移である。いずれの時期も女性が男性と比し少ない。恣意的 人口調節(間引き)の結果と想われる。 表左 村田清風の記述。右は維新政府への届け。 |
| 5.現在の山口県の人口 |
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人身売買は昭和までつきまとった 以下「飢饉日本史(雄山閣)」より転載。 水呑百姓は最後の手段を取らざるを得ない。それは主として不要な女の子を殺す間引きという 非常手段を行うまで追いつめられて行く。 飢饉の時はもちろん平時においても間引きや赤ちゃん殺しは公然の秘密として実行される。 当時男の子を殺すことを「山行きにやった」女の子を殺すことを 「よもぎ詰みにやった」と称している。 百姓一揆、逃散、間引き、赤ちゃん殺し、人身売買、売春など農民の悲しい抵抗と犠牲の上に 徳川263年の平和が築かれたことを我々は忘れ得ない。 飢饉で餓死したり、税金を滞納してひどい目にあわされるより、次善の一時しのぎの策として、 農村の婦女子は売春に走った。 売られる歳は七、八才が多かった。 又、越後出身は、他地方の婦人より二割ほど高かったという。 その理由は理知的で恋愛ざたが少ないこと、肌の優美、忍耐力が強いことなどである。 越後婦人のこの特徴は需要の増加となった。 人間が物として売られた。 これが徳川幕藩体制263年の歴史であった。 極論すれば、会津や新選組が守ろうとしたものは、人間を物として売買する仕組みを 守ろうとしたに過ぎない。 |
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