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| そして覇権国家が牙をむいた 元治元年(1864)年8月5日彼らは17隻もの大艦隊で関門海峡に殺到した。報復という側面からなら 加わる理由もないイギリスは全く政治的、経済的理由で9隻もの戦闘艦を参加させた。そして長州の庶民が死んだ。 |
![]() | ![]() 奇=奇兵隊 膺=膺懲隊 報=報国隊 四=第四大隊 |
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【金子文輔】馬関攘夷以来従軍筆記より 8月5日 晴黎明敵艦1列となり1艦は姫島の方位に去り舟木宰判本山の手前に抵り該艦より 狼烟を発するや1列の敵艦左の方又狼烟を発し之に応ず各艦も亦然り此時我前田砲台発砲す 敵艦も亦之に応ず前田角田杉谷の諸砲台より続々発砲す敵艦は大軍艦を中央に置き10数艘 左より右に圏様をなし巡回し砲台に向けて発砲し前田杉谷桜馬の砲台に全力を尽くすものの如し。 (山口県文書館蔵) |
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注)防長回天史では英仏米蘭四国の連合艦隊軍艦十六隻商船二隻とし英艦九隻旗艦ユリアラスを以て先頭
となし、中央縦陣を作り蘭軍艦四隻その右方に、仏艦三隻米船一隻左方に各小隊縦陣を作り海峡の東口に向て
駢進(ならんですすむこと)す。となっている。 軍艦十六隻商船二隻だと計十八隻になるが、三縦陣を加算すると十七隻である。 |
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| 上@は中段図左矢印の位置から撮影したと思える。上右はその再現画像。それぞれの画像はカシミールで作成。 | |
| イギリスの砲艦外交 攻撃してもいないのに大艦隊派遣 前年(1863)5月10日〜6月5日までの馬関攘夷戦でイギリス国籍の艦船を長州は攻撃していない。にも関わらず17艦船の内9艦 も参戦している。しかも停戦交渉もイギリス主導である。 砲艦外交が前年の薩摩や今回の長州で実行された。当時のイギリスは帝国主義的覇権国家であった。 注)前田砲台占拠の画像は「高杉晋作と奇兵隊(東行生誕150年記念):平成元年(1989)7月28日第1刷 東行庵発行」による。 |
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| この講話談判で過去刊行された長州維新史の疑問 欧米側の資料として「英米仏蘭聯合艦隊幕末海戦記」第八章 「長門候の屈服 同候と各司令官に締結されたる協定」のどこにも彦島租借の話が出てこない。 各司令官の共通の考えとして「海峡中にいかなる外国軍隊の駐屯も之を禁じ」とある。 後世の史家が高杉の武勇伝として付け加えたに違いない。 今回の欧米側は聯合艦隊を編成しており、彦島租借となれば共同統治となり、 当時各国とも覇権争い中で常識的に租借などあり得ない。これなど歴史のねつ造にあたり誰も否定しなかったことが不思議である。 |
前田砲台位置及び現況 ![]() 前田砲台跡は国道9号線山側に石碑の建つのみ。 下関市は明治維新の原点というのに道路に案内標識もない。 また、国道9号線を挟んだ海側にビルが建ってしまい日本の歴史を 揺るがしたこの砲台跡から海峡は見えない。 |
下関幕末史跡場所![]() |
前田砲台 N 33゜58' 24.17" E 130゜58' 05.42" 桜山招魂社 N 33゜57' 40.51" E 130゜55' 13.07" 下関会所跡 N 33゜57' 25.34" E 130゜55' 17.91" 高杉終焉地 N 33゜57' 23.35" E 130゜55' 16.78" 白石正一郎 N 33゜57' 11.45" E 130゜55' 15.12" 地図はカシミールで作成 |
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