幕末歴史 幕府滅亡への道 図表で見る20大事件

幕末歴史 攘夷から開国へ転換(一) 1863年下関攘夷戦
長州はなぜそれほどまでに攘夷だったのか?
 当時日本の台所は大坂であった。日本海諸国の物産は北前船で大坂に運ばれた。山口県にはその寄港地として 馬関(下関市)、中関(防府市)、上関(上関町)という潮待ち、風待ちの良港があった。庄内藩(新潟県)の物産の 30%ほども長州籍船が運んでいた。(渡辺信夫著:海からの文化みちのく海運史に詳しい)すなわち諸国情報がリアルタイムに入ってくる地勢的位置にあった。
 1859年(安政6年)貿易開始による諸物価騰貴は庶民を飢渇の瀬戸際に追い込んだ。久坂玄瑞はこの庶民の窮状 を救う道として「草莽志士糾合の外には迚(とて)も策無之」と考え行動した。攘夷は庶民を塗炭の苦しみから救う唯一 の選択であった。
 西欧列強は植民地主義的覇権国家であった。すなわち武力外交が彼らの手段であった。
 そして日本で唯一長州が世界を相手にして戦った。戦ったのは山口県の武士ではなく庶民だった。だゞの一度たりとも会津容保とその配下の新選組は日本を救おうとはしなかった。
 そして1863年5月10日(11日未明)最初の砲弾は米船ペンブロークに放たれた。


























   フランス軍の上陸作戦をフランス人ルサンが描いたとされている。
1863/06/01報復砲撃米艦ワイオミング
米艦ワイオミング
 
攘夷決行 第一次関門海峡戦
年号(西暦)陰暦陽暦国籍艦船種艦船名損害部位航行方向
文久3年(1863) 5月10日6月25日哨戒艇 ペンブローク綱具遮断西進
最初の砲撃は日付が変わって11日になっいたという。
文久3年(1863)5月23日7月 8日報知艦キェン・シャン喫水線被弾西進
キェン・シャン 即死4名。 端艇大破。
文久3年(1863) 5月26日7月11日海防艦ラ・メデューサ左舷側中破東進
同艦即死4名 負傷者5名 甲板爆裂弾3被弾。 被弾痕31。
文久3年(1863) 6月 1日7月16日海防艦 ワイオミング各所被弾西進
報復攻撃 ワ号諸元:726t 各舷 4門(24斤砲) 旋回砲 口径27.5cm×2 乗員160人。
長州 庚申・壬戌沈没。癸亥(きがい)大破。 ワ号戦死者4、重傷2、軽傷2。
文久3年(1863) 6月 5日7月20日二等戦艦ラ・セミラミス 西進
〃 哨戒艇ル・タンクレード喫水線貫通
報復攻撃 陸戦隊250人上陸。長州守兵ほとんど抵抗せず逃走。 対岸門司見物人多数。
長州守備兵戦死1、逃げ遅れ自決2。 仏側重傷1 軽傷3
出典:英米仏蘭聯合艦隊幕末海戦記 平凡社(昭和5年6月5日発行)
幕府が、攘夷決行日とした5月10日以降、長州藩は関門海峡通過の軍船に砲撃を加えたが、上表にのように商船を砲撃した訳ではない。 当時の西欧列強は、このように軍船を遊弋させ常に恫喝外交を行っていた。これに屈した国は全て植民地化されていた。
この日、領内下関の民衆は日頃威張り散らす武士が逃げまどう様を目撃する。武士の時代の終焉が近づいた。
旧暦6月の長州の確認できる戦死者14人。その内武士の戦死者たったの3人。
藩首脳は攘夷決行を指示したものの、武士の大敗でこの大恥どうスベー。勉強不足の門閥武士に柔軟な発想と対応は無理だった。 晋作を呼べ!・・・・・ 彼一人に長州を背負わせた。  文久3年(1863)6月7日(7月22日)長州奇兵隊結成。 日本民族の歴史に新しい第一歩を踏み出した。
庶民が戦った1864年8月5日 報復四国連合艦隊下関砲撃事件へ

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第二奇兵隊取材班
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