本邦初 敵前上陸 戊辰戦争新潟太夫浜への上陸と帝国海軍余話

出典:戦う民間船(大内健二/著 2006/07/13)に依拠する。  補完: 防長回天史
東北諸藩 米沢・仙台藩の戊辰戦争 その1    東北諸藩 米沢・仙台藩の戊辰戦争 その2

慶応4年(1868) 6月〜9月の北越

 慶応4年(1868)7月、越後戦線は膠着状態であった。新潟港は幕領であったが6月1日同盟軍は 衆議し米沢藩の指揮下に管理することを決定。  新政府軍はこの状況の打開に、同盟諸藩武器輸入港の感を呈していた新潟占領を画策した。 新潟港、新発田藩攻撃軍(衝背を突く)の進発であった。  経緯は省略する。 総指揮黒田了介(清隆、薩摩)、 艦船隊指揮山田市之允(顕義、日本大学創設、長州、24)、 本田彌右衛門(薩摩)、同周旋久保無二三(注1、長州)、白井小助(長州)、 軍監岩村精一郎(土佐)らであった。
 港湾施設のない場所に大量の軍需物資と兵員を同時に揚陸した作戦は本邦初見であった。  同年六月一六日〜一九日常陸平潟上陸は港湾であったが、 敵前上陸ともいえる新潟新発田藩領太夫浜への上陸作戦は太平洋戦争(1941〜1945)における島嶼上陸作戦の基本となった。 輸送船に兵員、武器・弾薬を積載。佐渡小木港で漁船を徴発(注2、30隻)上陸用舟艇とした。 同周旋方は白井小助(介、42)周防(山口県)の独眼流と云われた男であった。  山田市之允は松下村塾生(15才で入塾)でかつ 村田蔵六(大村益次郎)三兵塾卒業生。小助は吉田松陰の朋友であった。7月24日佐渡小木港 での目的は小舟艇調達であった。この才覚にかけては北越戦線にあった白井小助が適任であろう。 松陰の申し子山田市之允を支えるために親子ほど年の違う小助は奮闘している。 同じく北越戦線の山県有朋と小助はうまが合わなかった。 小木港で小助の凄みと豪腕は瞬く間に30隻の漁船を確保した。
 軍艦攝津(総督府)・丁卯(長州)・ 輸送船の千別丸(柳川)・大鵬丸(福岡)・錫懐丸(しゃっかい、加賀)・萬年丸(広島)等 六隻(注3)で艦船隊を編成した。佐渡小木港で漁船を徴発。 蒸気船にロープで縛り付けて曳航。翌25日、太夫浜の沖合で輸送船と浜辺を往復して兵士・物資を 揚陸した。 越後口軍司令部(柏崎)はその一隻を報知船として 上陸展開の速報連絡を指示した。
列藩同盟にとって軍事物資補給港(兵站確保)確保は最重要課題でなければならない。 補給を絶たれる。  そうなれば、勝敗の行方はもはや明らかであった。

黒田了介
防長回天史で、この衝背軍を海軍という表現にしている。現在用いられている「海軍」の意 でなく、海上回航軍を称して「海軍」と表現した。柏崎と新潟両方向から 長岡挟撃を目指しており、越後口総督府はこの上越作戦に 山田市之允、本田彌右衛門両名に「海軍参謀」を命じている。 そして、この衝背軍総指揮者を岩村精一郎事績 で黒田了介としているが、現在のところ確実とはされていない。 この作戦の手際よさから総指揮は山田市之允と 考えられる。
注1) 久保無二三について
天保12(1841)年 紀伊津井村に生まれたとある。遠近支配武助嫡子。 遊撃隊参謀兼狙撃隊隊長。

注2) 佐渡小木港寄航について
防長回天史中、岩村精一郎記録として佐渡小木港寄航は荒天のためとしている。 同じく7月23日 仙台、米沢合同の佐渡偵察隊が新潟港より佐渡夷港へ向かっている。この記録に荒天は記録されていない。
摂津艦ほか
摂津は太政官が購入している。よって艦籍を筆者は総督府とした。  7月23日付けで摂津艦長に兼阪熊四郎(肥後、熊本)が任命されている。 いわゆる戦闘艦は 摂津、丁卯である。残りは輸送船。兵員輸送は千別丸・大鵬丸・錫懐丸とし。糧食輸送は萬年丸が当たっている。萬年丸は 24日柏崎から直行で太夫浜に向かった。
艦船6隻の1隻を通信船として上陸成功の報知任務にあて、摂津、丁卯にて陸上攻撃支援艦として 新潟港へ砲撃を加えている。当時この海域には諸外国の艦船が往来しており、 その排除並びに陸上支援砲撃の任務を割り振った。7月27日朝8時、陸上砲台が摂津を砲撃その1弾が 左舷から右舷に貫通。水夫菊四郎死亡。 航行に支障を生じていない。  29日午前2時頃までに散発的砲撃を行ってた。
なお、大鵬丸(福岡)・錫懐丸(しゃっかい、加賀)・萬年丸(広島)は北蒲原郡島見村沖に 留まるよう命令されている。
報知船、千別丸(柳川)
太夫浜は新発田藩領であった。 表面的に新発田藩は背反するスタンスを取っていた。早くから新政府側に接近していたが、 列藩同盟ができると地勢的に避けようもなく、結果的に同盟に与した。  新政府北越方面軍(柏崎)としても上陸に内意は得たものの太夫浜上陸は一種の賭けであった。 それらを踏まえ総督府は結果を早急に知る必要があった。 場合によっては戦略変更を余儀なくされるのである。
当時の越後戦線は長岡藩の頑強な抵抗で戦線は膠着し、太夫浜の上陸で活路を見いだそうとしていた。  よって、上陸軍の 六割弱にあたる430人を新発田に進駐させた。 新潟港攻撃隊は290人と大砲三門である。  方面軍はこの太夫浜の上陸に賭けていた。 実際上陸後、名目床村(現;名目所)に斥候を 出してみると、在方責任者は村民によく周旋し上陸軍は感激している。

日本軍の体質 テク音痴
 太平洋戦争(1941〜1945)上陸作戦にあたって、輸送船+上陸用舟艇方式を日米とも採用した。 上陸用舟艇の実用化は米国より先んじたが、  日本軍は、山田、小助コンビが73年前に編み出したこの橋頭堡方式から一歩も進歩せず太平洋戦争を 戦った。  よって米航空機により海岸に集積した物資は空爆され、継戦が不可能となり、 玉砕という全滅を繰り返した。  戦訓、戦訓と云いながら戦訓に学んだことは一度もなく、次々と拠点と船舶を失った。  太平洋を戦場 としたにも係わらずシーレーンの防衛を考えた艦船(艦隊)構成ではなかった。   対潜能力は低く、護衛空母構想もなく、徴用した輸送船を次々と喪失した。 上陸用舟艇の着想は早く 大発、小発という舟艇を建造し実用化したが、輸送船からの揚貨能力が低く (物資輸送用水陸両用カーゴが実用化域に達しなかった)、征空隊なき中、空襲され船舶を喪失した。  実態は慶応4年(1868)の状態と1Cm程の進歩もなかつた。  日本はこの何千トンという物資をひたすら人力に頼って浜辺より移動させた。
 輸送船を撃沈(潜水艦の雷撃、空爆)されてもされても 戦訓に学ばず損失を増大させた。  戦争終盤に入ると兵科別輸送は途上の消耗で不可能となり、とりあえず兵員を多量に 輸送する方式に切りかえられた。これだと沈没を免れた船舶乗兵員だけ戦力になり得たが、 今度は携帯する武器や装備がなく、兵科も限定され戦力になりえずフィリピンの山野を 糧食もなく逃避行するのみとなった。
 攻撃は最大の防御などと「ほざいた」が輸送船を攻撃する米潜水艦を攻撃することもできず 、輸送船を護衛する海防艦や駆逐艦も雷撃により喪失した。 すなわち防御も攻撃も出来なかった。  航空機による対潜用ソノブイは実用化されず、かつ、水中聴音機の性能も劣悪、 米潜の跳梁を防ぐことは不可能であった。
 科学技術の進歩を軽ろんじ、硬直教育を受けた兵学校出の俊秀?が考えた先が「人間魚雷」であった。 その人間魚雷とて最大30ノットしか出せなかった。 屠殺者の群れと恐れられた 米第58機動部隊の空母群(空母16隻)は速力30ノットであった。 自明の理で30ノットでは30ノットを襲えない。 また、それを戦域まで運搬する日本の潜水艦は、 ブリキのバケツを棍棒で叩きながら進む状態で静謐性は全く備わっていなかった。また、回天そのものも水深70m程度の水圧にしか耐えられなかった。 昭和20年(1945)5月、山口県光海軍工廠内の回天四型工作隊は解散された。 製造したもののそれを戦域まで運ぶ潜水艦の燃料が枯渇した。 最後の出撃は昭和20年(1945)8月16日 回天特別攻撃隊「神州隊」/平生基地発イ159である。 帰投は18日。 敗戦3日後である。 その間に殉職・戦没した者は145名に及ぶ。海軍兵学校出身者はたかだか19名。13%にしか過ぎない。  出典:「回天記念館概要・収蔵目録」  回天(基地)を保存する会/発行
 太平洋戦争中、訪独した伊号潜水艦が5隻 (伊30、伊8、伊34、伊29、伊52) いたが、 ドイツは伊号に全く興味を示さなかったという。  逆に、よくもまあーこんな割れバケツを叩くような騒音発生潜水艦で到達できたものだと感心したという。   最後に派遣された伊52はお粗末な電子兵器での到着は不可能であり、大西洋の真ん中で ドイツ潜水艦 (U530) よりレーダー逆探知装置を受け取った。  その伊52も夜間対潜用ソノブイからの信号により音響追尾魚雷(マ−ク24) により撃沈(1944/06/24 02:12)された。(独技術習得のため七人の民間技術者が乗艦)
 広大な太平洋での戦いは補給が全てである。日本軍は伝統的に輸送(輜重、しちょう)を 軽ろんじた。 海軍でも主として学徒兵を主計課員とし兵学校出身者と微妙な差別を行った。 戦闘艦には優秀者という「根拠無き神話」がまかり通っていた。  広大な海域の島嶼に人間が生きるために必要な物資と、戦力を維持するために必要な資源と、病み傷ついたときの医薬品。 さらに日本本土の生産拠点に必要な物質を海上輸送しなければならない。 また船舶の修理と 乗員の交替・休養など諸般のことを考えれば「あほのポンタ」が務まる訳がない。 それでも軍艦で大砲を撃つ担当と運輸科員(輜重)とでは「見えなく差別された高く厚い壁」があった。
 機会があればぜひ読んで頂きたい。昭和19年(1944)3月、海軍省教育局が徴用船員向け の小冊子「船員ニに告グ」である。 大和魂・武士道精神の発揮。金剛精神の発揮が輸送効率 につながる。また「心眼で見張れ」と述べている。 時代錯誤も甚だしく読みながら腹が立ってくる。
 心眼は具体的にどんな眼なのだろうか。 一体だれが備わっていたのだろうか。 レーダーと 心眼ではどちらが性能的に上位なのだろうか。
 戦争末期輸送船には大量大規模な作戦が 不可能(すぐ撃沈)と悟った(戦訓が生きた)海軍省は 「臨時船舶徴用隊」を結成(1945/06/06)した。これは 海軍省嘱託(勅任待遇) 川南造船社長川南豊作氏発案により小型船(機帆船)での沖縄片道輸送を本気で考え実行に移そうとしてのである。 そして、九州各地で徴用(計画200隻、実績135隻)を行った。  無謀というより、 ここまでくると軍関係者の頭脳と思考を疑わざるを得ない。
 戦後、川南豊作氏は「三無事件(破防法適用第1号)」に関わり、戦中は氏が経営する 川南造船(株)で、戦時標準船(船というより鉄の棺桶)の建造で利益を上げた。 川南豊作は軍部と強い繋がりを持ち、 労働力確保のため軍が強制連行した朝鮮人や外国人捕虜を集め、強制労働をさせた。

 米軍は大きく違い太平洋戦争が始まるや兵学校での成績最優者を次から次に運輸本部に 配置し、一方では戦時標準設計船(輸送カーゴ、2,712隻 1944万総トン)を造り就航させた。 また、 橋頭堡を築くと集積した物資は機械化車輌移動(水陸両用カーゴや車輌)で瞬く間に分散させた。 
 6万トンの戦艦大和を造りながら、海防艦や、たかだか100トンの程度の監視艇・魚雷艇が造れない いびつな海軍力であった。
太平洋戦争における日本商船隊の総決算
開戦時+建造船舶 4,225隻 1,021万総トン
戦時喪失       3,129隻  883万総トン
敗戦後運行可能船舶 588隻   79万総トン
判明している船員の戦死 60,607人(日本殉職船員顕彰会は60,608人) 過酷な任務に邁進した船員に敬意と深甚なる感謝の意を表する。
また、過酷な条件で殉職された関係者に深い哀悼の誠を捧げたい。   閲覧者はぜひ冒頭の書籍を読んで戴きたい。  小泉首相もこのような殉難施設に額ずいたとて、近隣諸国は決してクレームは付けないであろう。  彼は頭を垂れるところを誤っている。
日本殉職船員顕彰会とそのホームページから
日本殉職船員顕彰会  開戦時輸送船を護衛する海防艦は僅か4隻という。 昭和17年8月から7ヶ月におよんだガダルカナル島の奪回作戦は、 ソロモン群島方面の制空・制海権を確保するために彼我の死闘が展開された、 まさに太平洋戦争の天王山であった。
ガ島に擱座した鬼怒川丸
この作戦もその中心は、上陸部隊への増援、補給であった。 そのため、この輸送作戦には、わが国が誇る高速輸送船で船団が編成され、 2回にわたる強行輸送が実施された。しかし、敵の反攻は、とくに航空機によって熾烈を極め、その多くが目的を達することなく撃沈された。 なかでも、かろうじてガ島に着いた輸送船は、兵員等の揚陸のため強行擱座を命じられ、 船員は船を捨ててガ島に上陸した。上陸後の船員は、軍からも邪魔者扱いされ、飢餓とマラリアなどの悪疫に苦しみ、 2月初めに強行された撤退作戦で帰還できた船員は、 同島に上陸した267名の中で僅か27名にすぎなかった。
鬼怒川丸が擱座したのは11隻の船団だった。ガダルカナル島に揚陸できた物資は野・山砲弾260箱。 米1,500俵(当時の兵員の4日分)のみであった。 制空権なき船舶での輸送は不可能(悲しい戦訓)と悟った海軍は 夜間に駆逐艦や潜水艦でガ島に輸送を続けた。 猫の目(米軍)を盗むような輸送を自嘲を込めて「ねずみ輸送」と云った。 ガ島は激戦の島と知られているが実態は投入兵員3万4,000人のうち、昭和18年2月の撤退時 の戦死者約1万9,200人の内1万1,000人が戦病死と餓死だった。死者の内、実に85%が戦闘死ではなかった。
ガ島陸軍の作戦は誰が立案したかって? ご存じ陸大出身 天才軍略・戦術家 辻 政信様なのだ!!。

潜水艦の運用と伊52号民間乗船者
大戦中米国は日本のシーレーンの破壊に潜水艦を存分に活用した。 日本海軍艦艇189隻を 撃沈。船舶は1,150隻に及んだ。 武器弾薬・糧食運搬船舶の六割は潜水艦によるものだった。
 一方日本は大艦巨砲の艦隊決戦の思想により、潜水艦は付属物で単独運用に用いられることなく、 艦隊決戦のための偵察や防御に使われた。 米潜によるシーレーンの破壊に曝されながら、 頭を切りかえることなく硬直した運用に終始した。結果日本の潜水艦が沈めた米艦は13隻。船舶171隻にとどまった。 戦争後期には輸送船として使われ、潜水艦として本領を発揮する機会さえなかった。

伊52号
伊52号は、竣工当初から輸送艦として期待され撃沈されるまで攻撃任務に一度も就いていない。
伊52号艦長 宇野亀雄中佐(海兵53期)
民間乗船者
■ 水野一郎(日本光学・対空射撃用機械式計算機 現:ニコン)
■ 請井保治(愛知時計・歯車技術 現:愛知時計電機)
■ 岡田誠一(富士電気・対空射撃装置)
■ 永尾政實(富士通信機製造・高周波真空管・レーダーの専門家 現:富士通)
■ 萩野市太郎(東京計器製作所・ジャイロ技術 現:トキメツク)
■ 藁谷 武(三菱重工・ディーゼルエンジン)
■ 蒲生郷信(三菱重工・ディーゼルエンジン)

大西洋で独U530からレーダー逆探知装置を受領したがその操作に 独連絡将校1名。操作兵2名が乗り込んだ。 1944年6月24日午前2時12分。アベンジャー雷撃機 の投下したマーク24音響追尾魚雷により撃沈される。 なお、U530は米海軍の追尾を振り切り帰還している。

太平洋戦争開戦前、各年に見積もられた船舶喪失数と実際には大きな乖離があった。 1944年2月17日・18日に行われた米軍トラック島空襲で失われた輸送船舶トン数は20万5千トン。  見積もりの非科学性を露呈した。 戦争指導部は「戦闘に勝つことが戦争に勝つこと」と考えたが、 連合軍は日本の補給線を絶つことが戦争に勝つ大きな要素である。とみなした。 相次ぐ輸送船舶の喪失で 日本の継戦は不可能となっていく。 護衛なし無防備の船舶に対し米潜は悠々浮上したまま攻撃した。  丸腰はたまらないと電信柱の擬砲を搭載せざるをえなかった。 詳しくは「戦時輸送船団史(駒宮真七郎:著)」で。
または、「大日本帝国のアキレス腱(NHK取材班:編)」「消えた潜水艦イ52(NHK取材班:編)」に詳しい。

下松市笠戸湾に沈むコンクリート船 昭和18年9月(1843)の大本営政府連絡会議で海軍護衛司令部を発足させ、シーレーン確保に乗り出し、 商船改造の護衛空母4隻(雲鷹、海鷹、大鷹、神鷹)と931空(佐伯:48機)が配備・ 新設されたが商船船団との連携運用がうまくいかず空母4隻のうち3隻は初出撃で米国潜水艦の 雷撃を受け沈没。一方海防艦の建造も急がれたが、最高速度が17ノット程度であり、浮上航走する 米船潜水艦(20ノット程度)に逃げ切られてしまった。

上の画像は、旧海軍のバカどもが最終的に行き着いたコンクリート船の残骸である。 歴史の生き証人として山口県下松市笠戸湾に 無惨な姿をさらしている。
場合によっては装備砲が米潜より劣り犬と狐の関係逆転が発生し 護衛艦が撃沈される事例も多々発生した。 輸送船の不足に対応するため、昭和19年(1844)に海軍艦政本部は武智造船(兵庫県高砂市) に戦時標準貨物E型コンクリート船(800総トン)の建造を発注している。 同船の仕様は、全長60メートル、全幅10メートル、航海速度9.5ノット、舷側厚11センチメートル、船底厚15センチメートルであったが同タイプの鉄鋼船(鋼材使用量350トン) に比べ4割弱の鋼材使用量(135トン)で済むこと、内海へ投下された磁気機雷に対し感応が小さく安全性が高いとの利点がうたわれた。 このコンクリート船は昭和20年(1945)8月までに4隻(最終船完成は8月)が完成し海軍の呉、横須賀、佐世保の各鎮守府へ納船されている。海軍艦政本部は航海試験後、25隻のコンクリート船を 発注する計画であったが敗戦によりそれ以上のコンクリート船の完成には至らなかった。
実際コンクリート船を建造し曳航実験を行いったが結果は散々たるものだった。 無舵バージ操船の困難さと、かつ、曳航することでカーゴーの船速低下をもたらし実用にはほど遠かった。
各 年見積り船舶喪失(万・トン)実績喪失(万・トン)
1941−−   5.6
1942  80  95.3
1943  60 179.3
1944  70 383.6
1945 −− 226.0

太平洋戦争末期台湾とルソン島(フィリッピン)を隔てるバシー海峡は日本の輸送船の墓場となった。 船が沈むのは、質量を持った鉄材と同時に生きた人間をも葬り去る。 日本の戦時急造船は米潜の 高性能魚雷でほぼ3分以内で海没したと伝えられている。時に、一船3,000程の兵員を失ったともある。
悪名高いドイツの殺人工場アウシュビッツで工場稼働期間で殺された人員を除すると一人殺すのに 1分20秒必要だったという。 ところが日本の急造船の場合1秒で17人弱殺せた。 この状態を 次から次に繰り返した。 普通一度失敗したことは二度行わないが、繰り返し繰り返し同じ愚行を 行い同胞を殺しまくった。
海沈犠牲者の最大数は、隆西丸(1944/02/25・中村汽船・船員死亡31人)の約4,968人である。 戦時編成の2〜3個連隊が、戦場に到着する前に、雷撃により海没している。  上位10隻の合計犠牲者数は約3万人で1.5個師団、上位30隻の合計犠牲者は約6.6万人で3個師団の 兵員と兵器・弾薬が戦う前に海没した。当然輸送船乗組員も失われた。
詳しくは戦没船を記録する会 のウエッブサイトをご覧下さい。
戦時喪失 3,129隻  883万総トン  この数字の持つ重みを考えて欲しい。 言葉を失う。
1,150隻が潜水艦により撃沈された。
 戦後誰も責任をとらなかった。

腹立ちついでに
昭和19年末(1944)、軍需省総動員課長が小磯内閣の閣議に招かれた。内容は「物的国力の推移並びに今後の見通し」だった。 課長は、最低限の国民生活の維持は困難で、経済は崩壊。戦争継続は不可能と報告した。 外相の重光 葵は国力の実態知り驚いた。と述べたという。また別の大臣は「石油が足りないようだが」と 質問したが、かの課長は「山から集めた松の根から松根油を作り、民需引当の砂糖全てからアルコールを作る」 と答えると、その大臣は「そうかじゃなんとかなるな」と答え、国民に国体護持・一億玉砕。へと突き進ませた。  しかし、松根油から高オクタン価の航空ガソリンを製造する技術は確立されておらず、 出来た試作ガソリンは不安定でゴム含有量が多く自動車エンジンに使用すると焼き付け等の 支障が発生し航空機には使用出来なかった。 バカどもはこんなことも知らなかった。専門外で 知らなかったと思えるが、知らないことは教えてもらえばわかることである。 一方生産現場では航空機製造熟練工の徴兵により、航空機を非熟練工員(女学校生等の動員) が組み立てたことにより、飛行機の格好をしているだけの物体となり、飛ばせばまず墜落してしまった。 ガソリンも貴重品となりアルコール混合ガソリン(ガソリン20%)エンジンの改装も試みられた。
筆者このとき4才。いま思い出しても涙が出る。あるとき母が饅頭(チョー貴重品)もどきくれた。一口噛むと 藁クズをこねたものだった。 よほど鮮烈だったのかその場の情景を四才の心に刻みつけた。 3才までの栄養状態が 命の長さを決めるという。 厚生統計で昭和16年生まれが計算生存年が最短である。

【小磯内閣】
総理大臣 小磯国昭 (陸軍大将)
内務大臣 大達茂雄
外務大臣 重光 葵
大蔵大臣 石渡荘太郎
司法大臣 松阪広政
文部大臣 二宮治重
農商大臣 島田俊雄 (翼賛議員)
運輸通信大臣 前田米蔵 (翼賛議員)
軍需大臣 藤原銀次郎 (吉田 茂)
陸軍大臣 杉山 元
海軍大臣 米内光政 (副総理格)
大東亜大臣 重光 葵
厚生大臣 広瀬久忠
国務大臣 町田忠治 (翼賛議員)
国務大臣・企画院総裁  児玉秀雄
国務大臣・情報局総裁  緒方竹虎
国務大臣 小林躋造  (元海軍大将)

この中に松根油で飛行機が飛ぶと信じたバカがいる。 このエリートとされた連中は 自国の現状も知らず政治を行っていたことに怒りを通り越した大きな失望を感じる。  幕末若き幕閣阿部正弘は主権国家崩壊の危機に直面したが、 キチント日本全体の現状分析を行ったぞ。 やいそこのバカども
A級戦犯となった重光 葵は 拘置所内のA級戦犯たちがところ構わず「タンや唾」を吐いたり、「立ち小便」するなど 見るに堪えなかった。とその日記に書いてるゾ!。 彼らはいま靖国神社の祭神ダゾ!!。  国民を馬鹿にするな靖国神社め。 彼らは昭和の殉難者とした見解こそ馬鹿げている。 吉田松陰と一緒にするな。  戦勝連合国の一方的裁判だト・・。 じゃ原点にたち帰りもう一度日本人で彼らを裁判をしょうじゃないか。



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第二奇兵隊取材班
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