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この頁の出典は主として 「山形県史 巻四 (S48/5/16 発行 山形県内務部/編)」 である。 各藩の銃砲数は全て南坊平造 論文 「明治維新全国諸藩の鉄砲戦力」に依拠する。 補完:防長回天史 奥羽越列藩同盟は、京都守護職で会津藩主の松平容保(かたもり)の処分問 題と、江戸薩摩藩邸を焼き討ちした庄内藩の追討令に端を発し、東北・北陸の 31藩が同盟を結んだものである。 |
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慶応3年(1867)4月下旬東北列藩同盟は公儀府と軍事局を設置した。 東北地方に別の政体を確立したのである。
一国二政府の形態となった。 諸外国は両政府に戦争には局外中立を宣言した。
当然統一国家を創ろうとしていた西南雄藩との全面戦争は避けられなくなった。
だが、東北政府指導者層に、 一、戦争が銃弾大量使用の消耗戦の時代に入っていた。 一、ロジスティクが万全か。 一、財政的裏付けがあるか。 一、汽船の時代に入っていた。 有効的活用が視野に入っていたであろうか。 これらが、認識されていたのであろうか? 否、全くといってよいほど認識されていなかったであろう。 新政府(西軍)の記録から。 北越に戦火が拡大した後、 西軍の補給について 慶応4(1868)6月1日、錫懐丸(しゃっかい、加賀) 兵器弾薬を搭載し柏崎港に到着 〃 5日、環瀛丸(かんえい、筑前) 弾薬80万発 大砲4門 同砲弾千数百発。 後装銃弾3万発。 その他器具、糧食を満載し柏崎着。 財政的裏付けについて 仙台藩御用達しの日野屋中井新三郎は破産寸前に追い詰められ、戦い終わって藩の借金は200万両に 達したという。米沢藩は、越後下関渡辺家に戦費を調達させた。 また、庄内藩も本間家に戦費を調達させている。 長期戦になれば、まず東北、北越、奥羽諸藩が財政的に音をあげたであろう。 長岡藩戦費償還の目途がたたず廃藩置県をまたずに 版籍奉還を行っている。 戦える実力も能力も財政力もなく新政府(西軍)に戦いを挑んだ。 敗戦は自明の理である。 戦いに先立つ 閏4月20日、鎮撫総督府世良参謀殺害の報が公儀府に伝わるや、愉快、愉快と並み居る 老臣が喝采したと史書は伝える。 これから起こるであろう自藩の惨憺たる敗戦を想起していたであろうか。 |
慶応4年(1868) 6月〜9月の北越
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敵前上陸 新潟太夫浜への上陸作戦(1868/07/25) はこちら 慶応4年7月29日(1868/07/29)新潟攻防戦における確認できる長州戦死者 ■ 7月29日、信濃川を渉り新潟で死 干城隊(八組士) 馬屋原助太郎(20) ■ 7月29日、信濃川を渉り新潟で死 干城隊(遠近付) 佐伯卯之助(26) ■ 8月21日、7月29日 新潟に傷つき新発田病院に死 干城隊(八組士左衛門養子) 岡村正次郎(18) ■ 8月23日、7月29日 新潟に傷つき死 干城隊(八組士半兵衛嫡子) 小野藤馬(29) 信濃川渡河作戦で長州干城隊は関屋の対岸、制圧任務であった。 主隊は薩摩外城隊、 その側に同藩砲兵隊。長州の隣り平島対岸は牽制隊で宮崎高鍋藩。 高鍋藩出身がかの有名な上杉鷹山(米沢第9代藩主、財政赤字解消に邁進)を出した。 鷹山伝国の辞は 一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すべき物にはこれ無く候 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候 一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候 右三条御遺念有るまじく候事 統帥権が議会より上のようになった一時期があった。 鷹山伝国の辞は吹き飛び国土は焦土と化した。 この日の戦闘で長州兵四人の死者が確認できる。 |
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慶応4年9月4日東北北越諸藩が新政府軍(西軍)とまだ戦っている中で米沢藩は降伏。 米沢藩が土佐藩の申し入れを受入れる経緯について。 「木滑要人(きなめり、かなめ、政愿) 日記八月一九日、晴」 「上方数十藩之大兵押下、奥羽軍気日ニ縮リ、最早、今日ニ至リ候而者(ては)、 萬々可切開見込も無之」 句読点、括弧内筆者 戦争をやってみて始めて気が付いたが、相手の装備に圧倒され手も足も出なかった。 ここまで負けてしまうと現状を打開する手段がない。 米沢藩戦って初めて彼我軍事力の懸絶しありしを知る。 愚かというべし。 米沢藩は自らの決断の先にある惨禍を想像すべきであった。 --- 山形県史 巻四 頁920 (S48/5/16 発行 山形県内務部/編) --- 記録に残る米沢藩の軍事行動抜粋 慶応4年(1868)5月10日奉行色部長門を総督に命じ、中老若林作兵衛、参謀甘粕備後、 大隊頭大井田修平らに兵600余人を配し越後に派遣した。 藩主上杉斉憲も6月3日米沢城を出てほぼ現在のJR米坂線沿いに陸路約70Kmを踏破し 越後下関に6日着陣した。本陣は現在新潟県関川村下関904番地渡辺三左衛門 宅であった。 |
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新政府軍は軍艦、輸送船あわせて6隻。新潟太夫浜に兵1200で以て7月25日朝上陸を敢行した。 軍港と化した新潟港奪還である。
新潟は同盟軍の武器弾薬揚陸の重要港湾となっていた。 この日長岡城は米沢千坂高雅、河井継之助らにによる奪還作戦が成功したが、
一方では新発田藩が新政府軍に帰順。庄内と長岡(羽越、山形・新潟)間にくさびを打ち込んだ形勢となってしまった。
この上陸戦(07/25)でたまたま通りかかった 庄内藩中老石原倉右衛門(27)が射殺された。 当時の仕来りで仕方ないが、駕籠と供回りを連れていた。目立ちすぎたのである。 |
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遺体からエドワルド・スネル宛て武器注文書(7月24日)が発見されている。
その一部を記すと
シャープス銃 600挺 米国製ミニエー銃(エンフィールド) 300挺 同短ミニエー銃 70挺 ピストル 10挺 弾薬60万発 火薬5樽などである。
注文主は庄内藩 本間友三郎である。
幕末どの藩も財政が破綻しており米沢藩も例外ではなく、戦費を本陣とした渡辺家に調達さ せている。 米沢は すでに10万両にも及ぶ債務を負っており債務者が債権者宅を本陣とする悲喜劇が繰りひろげられた。 庄内本間家はWW2後の農地改革法で整理されたが当渡辺家は山林が改革法の対象外だったために 現況を留めることになった。 幸いというべきか。 この渡辺家の富をみるとき公租に喘ぎ 凋落した百姓の涙を思う。 今ふうに云えば、銭なく軍備なく戦争の主導的役割を担った米沢藩の政治的判断を疑う。 --- 山形県史 巻四 頁903 (S48/5/16 発行 山形県内務部/編) --- | |
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戦線に送られた将士がみたものは [酒井世紀]録 八月二三日条 「敵兵精鋭なること他日と異なり、且其数又甚た多きか如し、是れ必新ニ 来たれと聞へし西国の兵と覚へたり、味方は一人減すれば之を補う道無し 暁ニ達する迄斯の如く打立てられには萬に一ツも勝利有る可からす、今に 及んで九死一生の計を立て、少人数を以て敵の本営に忍ひ入り、其不意を 襲はんには、或は勝つ事も有りぬ可し、」 云々とある。 指揮官たちは彼我戦力と補給に絶望的隔絶を知る。正攻法による戦いでは 万に一つも勝てないことを知った。 九死一生あるとすれば少人数による 夜間刀槍による突入以外無しとし実行した。 局部的消耗戦を行ったのである。 生物学的にみて死が必然となる局所戦に勝たんがための肉薄突撃が 繰り返されたなら、 間違いなく士気の阻喪を来す。 戦線全体に厭戦気分が横溢するであろう。 このような選択肢しかない状態を招来した藩首脳部は何を考えたであろうか?。 |
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技術音痴 当時の東北諸藩はまるでテクノロジー音痴であった。 新政府軍と戦って、施条銃の優秀さを知る。 あわててスネルより新式銃を新潟港より輸入する。 それは6月に入ってからである。 当時の日本では 戦時捕虜の概念が存在しなかった。 負傷し第一線に残置され、敵方に発見されたらまず首を取られた。 所持している鉄砲(持っている兵は少なかった) が旧式で戦いにならない現実の中で、生き残りたいという動物的反応を 行った。 すなわち戦場逃亡である。 一般的にテクノロジー無視の指導部は精神主義に陥る。 極論すると精神力は鉄砲の弾に勝り(必勝の信念) 戦いで死ぬことを命じた。 旧日本軍について 欧米に派遣されていた武官より連発銃の優秀さの報告が昭和10年(1935)頃はわかってきた。 早速 製造に向けての検討会が 開催されたが、その結論は「100発1中の連発銃より、1発必中の単発銃」がよい。とい信じられない 結論に達している。 太平洋戦域で連合軍と戦った日本兵は連発銃に射すくめられ戦闘にならない ことを知った。 早速試作量産が検討されたが工作機械精度の技術的問題の壁に突き当たり量産出来なかった。 こんな物つくるより、一挺で多く旧式銃を造るべしとなってしまった。 合理性は生産設備の 壁に突き当たり、必然的に精神主義に陥った。 ボルトアクション銃で戦わされた兵こそ憐れであった。 電波探知機(レーダー) これも同様の経過をたどった。 艦隊の行動は秘中の秘でなければならない。 こちらから 電波を発するなど「闇夜にカンテラ」馬鹿な開発であると一蹴した。 ガダルカナル島 攻防戦でレーダーの必要性を 重大認識したが高周波真空管が製造できない壁にぶち当たった。 陽極と陰極の間を極限まで狭く しないとノイズが発生するが、最後まで波長50Cmの壁が破れなかった。 西欧は 戦時中次々と技術革新を行い波長10Cm以下。PPIスコープ(全周囲スコープ)を開発した。 レーダーのような極超短波の受信機も開発できなかっので米軍の探索レーダーに照射されていることも分からなかった。 電波の探照灯に照らされ本来商船隊を護衛する護衛艦が次々に雷撃されて海没した。 魚雷の航跡発見を目視 にたよらざるをえない艦艇は夜間攻撃になすすべもなかった。しかたがないので海軍は見張りは心眼でもってせよと商船隊に 啓蒙した。 レーダーによる象徴的米潜水艦の攻撃 昭和18年(1943)2月8日、22時伊豆諸島沖を航行していた客船龍田丸(16,975t)が米潜ターポン(Tarpon)の魚雷攻撃を 受けて約20分で沈没した。乗員・軍人軍属1,481人全員死亡。 当時海上は風速20m以上の大時化で 護衛駆逐艦「山雲」は2回の爆発音を聞いて反転。龍田丸に近づき発光信号で「イカニセルヤ」と問信。 龍田丸は右舷回頭し船首を立てて真っ暗な海に沈んだ。 時化によって救助もままならず翌日から航空機も含め 1週間沈没海域を捜索するも「浮遊物ノ片鱗ヲモ拾得スルニ至ラズ」沈没の原因も不明のままであった。 犯人が判明したのは戦後である。 ターポンはSJレーダー(超短波レーダー)を搭載し、大時化の漆黒の闇の中で 魚雷4本を発射。当時の日本では、このような気象・海象の状況で魚雷攻撃を行うことは不可能であった。 「闇夜にカンテラ」は馬鹿なこでなく、攻撃にも防御にも必須アイテムであった。 そして敗戦後、アメリカのレーダーに負けたとほざいた。 自身で本気で開発しなかったくせに!!。 昭和18年(1943)に入ると米軍は新兵器を続々と戦場に投入した。魚雷の起爆装置に問題があり 早発(命中前爆発)を知るや改善に着手。早発問題は50%程度に改善された。一方日本では 昭和17年(1942)6〜7月にかけてインド洋で交通破壊戦に参加した伊16潜や伊18潜は 魚雷の自爆に苦しみ、報告の中で「発射成績は極めて不良、現有魚雷にては襲撃の効果なし」と指摘した。 また、九一式改二航空魚雷も早発報告がなされ、仮称二式爆発尖(惰性体式爆発尖)も 艦製本部主導で試作改良が試みられたが、早発自爆は遂に敗戦まで改善されなかった。 米軍は昭和18年以降、 電池魚雷や魚雷用トルペックス火薬。夜間潜望鏡、機雷探知用FMソナー、 無音水深測深儀、敵味方識別装置(IFF)、マイクロ波SJレーダー(対艦・対空)、 前方投射式爆雷発射機など次々と新兵器を戦場に投入した。 大本営は敵艦撃沈のニュースを 流し続けたが、撃沈したはずの同じ艦が何隻もあることに気付いた。 撃沈したつもりが撃沈されていないという疑問である。 そこで、海軍省は進水させたが 艤装が出来ない空母阿蘇を標的艦として昭和20年(1945)5月中旬、妹尾知之前光海軍工廠長を 委員長とし、特攻機用に開発した陸海軍自慢の大型爆弾で空母阿蘇を空爆。 阿蘇は1〜2゜ほど傾むいたがビクともしなかった。6月下旬爆弾を更に強力なものに改良し爆撃。 効果は前回より少しましで5゜ほど傾いたが沈没にはほど遠い状態だった。3回目を7月下旬に行う予定のところに米艦載機(グラマン) の爆撃のまえにいとも簡単に沈んでしまった。実験艦がなくなってテスト続行が不可能となった。 実験の経過から自分たちが所持している爆弾は威力不十分な欠陥ともいえる代物の爆弾であることを知った。 一機一艦とほざきながら人命を軽視し、粗悪爆弾を抱えて特攻死を命じた若者への責任は誰が取ったのか? 日本人は誰もその責任を取らなかった。 --- 出典:「回想の賦・光海軍工廠」 発行/光廠会 S59/10/31 --- 日本の爆弾=米軍の爆弾。日本の戦車=米軍の戦車。の性能は等しいと思いこみ、新規で柔軟な 発想ができない体質を持っていた。 戦争後期、熟練工員も兵に徴用され、 固定照門の歩兵銃(三八式歩兵銃)しか造れない情況に陥った。 以上みたように、硬直した思考に支配され、レーダーのように欠点(電波発射)をカバーする 方法を考えようともしなかった。 また、製造・製作工程の無駄を現場具申しても士官は事大主義で、軍部に一工員がもの申すのかと恫喝する態度さえ示した。 (出典:光海軍工廠 P233 発行光工廠会) 日本軍のテク音痴こちら 撃沈された船舶数はこちら 硬直思考は上から下まで蔓延していた。 戦争末期人間魚雷が開発されたが、対するドイツや米軍は音響追尾魚雷(マーク24)を実戦に投入した。 日本は音響追尾を生きた人間の眼にやらせようとした。 だが、回天の潜望鏡は倍率6倍のクソボロだった。 現在の玩具の双眼鏡でも倍率8倍程度ある。 水中で三次元的運動を行う物体を時速50Kmの高速力で、 命中する仮想点に向けて一定深度で運転させるには一人の操縦では限界があった。 方位だけでなく距離と深度と目標の進行方向と進行速度の評定は重要で超人的な練度でのみ命中は可能であった。 ときに、戦記もので日本軍が開発した酸素魚雷は画期的で世界の最先端の兵器であったという記載がある。 魚雷の内燃機の燃料に酸素を使うことで水中航走で雷跡がほとんど見えないだけの代物であった。夜間なら当然雷跡が 視認できるはずもなく、米軍は昼間雷撃は電気推進魚雷。夜間は通常魚雷と使い分けた。その分搭載量に限りがあるが 雷跡視認の問題は簡単に解決した。魚雷のエンジンの優秀さが武器としての魚雷が優秀とはならない。 折角標的に向かって発射した魚雷が早発すれば元も子もない。また、それを運用する潜水艦か騒音発生器状であれば戦域に到着すら覚束ない。 兵器体系は1点豪華のみで優秀という評価は全く無意味。 |
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会津藩は軍事局に大きな期待を寄せた。 また寄せざるを得なかったのかも知れない。
過ぐる閏4月1日、仙台の家老坂英力・同但木土佐、米沢家老竹股美作、
参政木滑要人が仙台藩領苅田郡関宿に会し会津藩の窮状を救わんとした。
会津の使節梶原平馬、伊東左太夫、山田貞助らに
救会嘆願の骨子を示した。藩主父子の蟄居、減封、鳥羽・伏見の戦いの
指揮者処罰(誅殺)であった。 会津藩は最終的これを拒否した。
この会津藩代表と会談を行う旨、事前に総督府に届けてあった。 会津もこのあたりが手の打ち所であった。 戦後梶原平馬は行方不明となっているがこの時の判断が要因かも。 --- 山形県史 巻四 頁768〜769 (S48/5/16 発行 山形県内務部/編) --- 会津藩は自らの美学(徳川恩顧の家訓)でもって彼ら(東北諸藩)を道連れにした。といっても過言ではあるまい。 倒幕派は幕藩体制を否定したのであって徳川家を否定したのではない。 大政奉還の後、 徳川家は減石されたももの安堵されている。 第二次長州戦争前に長州討滅急先鋒だった会津藩は徳川家を守ることより 幕藩体制そのものを守っていた。 |
| 藩 名 | 石高 | 施条砲 | 大砲総数 | 後装銃数 | 前装銃数 | 小銃総数 | 一揆件数 |
| 米沢 | 15.0 | 0 | 18 | 60 | 900 | 960 | 0 |
| 山口 | 36.9 | 109 | 220 | 6,429 | 17,607 | 24,033 | 3 |
| 一揆件数は 嘉永4年(1851)〜慶応元年(1867) 軍事史学会誌 全国諸藩の鉄砲戦力(南坊平造論文より) 米沢後装銃は全てピストル | |||||||
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これに遡ること慶応4年(1868)5月10日、米沢藩は総督色部長門
(7月29日新潟町胸板を撃抜かれ即死)、中老若林作兵衛、
軍務参謀甘粕備後(継成)、大隊頭大井田修平に兵600を付けて越後に派遣している。
手持ち小銃は900挺。 庄内方面、白河方面にも派兵が必要である。
参軍将士の装備、武装は恐らく甲冑具足、和筒、弓矢、刀槍であったであろう。
もしそうだとすると対する新政府軍と比較すると二世代前以前の装備である。
話にならない戦いが戦場に出現したことであろう。 7月末に敗走、米沢に帰還。
米沢の小銃は記録では全てミニエー銃である。 --- 山形県史 巻四 頁851 (S48/5/16 発行 山形県内務部/編) --- |
| 宇田川武久編「鉄砲伝来の日本史」 P194 慶応4年(1868)5月10日横浜において購入した西洋火器が米国船ガガノカミ号で米沢領粟島についた。そして海老江より荷揚げされた。 米沢藩士山田八郎覚書としてスペンサー7連発元込銃 250挺。ミニエー二つバンド1,420挺。同三つバンド620挺。だったと書いている。合計2,290挺だ。 なお、同書はその前後の記述が歴史の事実と整合しない部分がある。よって米沢は短時日で合計 5,000挺もの銃器を入手したとしている。 米沢が新潟に派遣した兵員は600人であり。色部長門が米沢を発ったのが5月10日、 海老江に銃器が到着したのが5月10日。いずれにしても当時鉄砲は個人持ちであり、これらの銃器が新潟派遣兵士に渡ることはないであろう。また新式銃は持ったその瞬間から戦力にはならない。やはり訓練が必要である。 戊辰戦争後新政府に米沢藩が提出した銃器総数から、「鉄砲伝来の日本史」はあまりにも乖離している。 |
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色部長門(いろべ、ながと)久長の戦死の状況について双方の記録 同年同月(1868/07)二十九日、新潟港陥ル、上杉(米沢藩)氏ノ総督色部久長之ニ死ス、 越後ノ諸軍潰敗シ八十里越ヨリ会津ニ入ル。 米沢の記録 [越後御出勢日記] 新政府軍約200人が防御線に進出しその一部50人程度に 撃ちかけられ内藤廉太郎打死、足軽石井兵七打死。少し射撃が散発的になった隙に 抜刀吶喊。まず色部長門が胸板を撃抜かれ即死。御用人(浦戸儀左衛門)が駆けつけ長門の首と たぶさ(ちょんまげのもとどり部) を斬り取ったときに御用人も打ち倒された。 切り取った首は茄子畑に埋めた。 そして五十嵐源治郎が久長のもとどりと佩刀を持ち帰った。 |
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新潟港は慶応4年(1868)5月に入ると米沢・仙台・会津・庄内の共同で管理され米沢藩色部長門を総督とした。一部桑名の残兵が加わっている。
この段階で新潟港は新政府軍の管理を離れ東北政府ともいえる
同盟諸藩の武器補給港となってしまった。死の商人ヘンリー・スネル、エドワルド・スネルは
長岡藩河井継之助に最新式の武器を供給している。 米国南北戦争での銃砲を大量に日本に持ち込んだ。
新潟港は商業港でなく軍港の感を呈した。 東北・北越戦争(戊辰戦争)で画期となる二つの上陸作戦が行われたが 7月25日に行われた新政府軍の新潟太夫浜(新潟空港対岸付近)上陸作戦成功は北越・東北諸藩にとって 最大の危機であった。 奥羽越列藩同盟はこの港を死守すべきであったが如何せんその武力が お粗末極まりなく、各藩兵連携調整に齟齬が生じている。 もう一つの上陸作戦は6月16日平潟港上陸である。 |
| 米沢の記録[大瀧新蔵(忠恕)手記] | ||
新潟港攻撃概念図![]() |
上陸軍構成はこちら 進攻担当部署
同盟軍は平島ならびに関屋に展開し防御線を構築していた。久長自身元込銃を手にし、 まず砲撃戦となった。このとき久長に従っていた兵の過半数を失った。 久長抜刀し突撃。久長、浦戸儀左衛門も戦死。 そこで新蔵は散乱している会桑以下諸藩兵(会津、桑名、庄内)の兵器を担いで逃げだした。 そこに戦線からやはり逃げてきた庄内藩石原多聞にバッタリと出合い、 多聞は新蔵に奥羽越諸藩は米沢藩を信頼し総督に推挙しその指揮に従っていたが 戦いが始まったとみるや同盟諸藩に撤退を告げず、我等を戦線に放置し顧みざるは何ぞや。 | |
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と厳しく叱責されている。 迎撃戦で米沢は一挙にトップクラスを失ったが
戦場での独断撤退はやはり責められるべきであろう。 新蔵は甘粕備後らと
8月3日八十里越えで会津藩境に達した。 --- 山形県史 巻四 頁905〜906 (S48/5/16 発行 山形県内務部/編) --- 会津戊辰史では 新潟防衛部隊は会津、桑名、米沢を含めても六小隊だったとある。 兵員数 小隊30人で180人。50人で300人となる。 一方長州側の記録では 戦闘の始まる前に奥平謙輔(干城隊、萩の乱に敗れて斬首)が信濃川を渡河し敵情偵察を行った。 彼は現兵力での制圧は可能と報告している。 すなわち、出撃前7月27日の新潟攻撃兵員は 薩摩 100人 長州 100人(干城七番・八番中隊) 高鍋 90人 大砲三門(二門説あり)芸州大砲隊 であった。 新潟攻撃は太夫浜の上陸戦闘兵員の3分の1である。 | ||
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大瀧新蔵 余話 戊辰戦争に先立つ5年前、文久3年(1863)世にいう八・一八政変時長州藩は御所堺町門の守衛を 解かれた。藩兵は関白鷹司輔X邸に撤退した。薩摩・会津藩は邸を包囲し一触即発の状態と なっていた。その際全面衝突を回避する使者として米沢藩大滝新蔵・佐藤孫兵衛が 使者となり鷹司邸に赴き長州藩家老 益田親施 【 徳山(周南市)惣持院で禁門の変の責により切腹 】 に面談。すなわち平和裡に撤退すれば、米沢の威信にかけ会・薩に指一本触れさせません。と確約。 七郷ともども京都から脱出を果たした。親施、新蔵に謝して曰く 【 尊藩公ノ厚意臣等死シテ敢テ忘レス、今後ノ事幸ニ 彌縫(弥縫、びほう・一時的にとりつくろう)ヲ賜ヘト、遂ニ兵ヲ撤シ妙法院ニ入ル 】 新蔵は 在京長州藩兵の命を救っている。ところが、新蔵さん同じ長州に今度は手痛いシッペ返しを受けてしまった。 | ![]() |
| 益田右衛門介親施は、長州藩の政権交代により、禁門の変の責を負わされ、元治元年(1864)11月11日 徳山(周南市)惣持院で切腹して果てた。 碑は賜死の近くに建つ。 この碑の場所は、徳山毛利藩主の末裔が経営するマンションが建っている。 惣持院は廃寺となり存在しない。 | |
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太政官日誌 [秋月長門守(種殷、たねとみ)高鍋藩、鈴木來助・武藤東四郎 8月1日付報告] 新潟上陸(岩船郡松ケ崎[太夫浜]に上陸)は 薩・長・芸・十二番徴兵(新政府軍直属) 高鍋藩兵(宮崎県)ならびに明石・福知山藩兵であった。 上陸後東岸より信濃川を渡河平島に向かう 途中で米沢藩兵二十人ばかりと交戦。その六名を打ち倒した。 米沢の士官は山口謹之輔である。 残った米沢兵は葦が繁っているところに 逃げ去った。そこで 長州兵と手分けして追撃探索を開始。 高鍋藩索敵線で突然米沢藩伏兵に射すくめられてしまった。 そこに長州兵が駆けつけやっと米沢兵を制圧。 その伏兵団に米沢軍の隊長と 見られる存在が認めたので軍曹新井陸之助が兵を指揮しこれにあたり打ち留めた。 「賊ヨリ其首ヲ斬去候付、死骸相改米沢重臣色部長門之確証ヲ得申候」とある。 さらに続けて新潟上陸戦は「今度之戦以外之都合ヲ得候者、全ク薩長等之尽力ニ 依リ候儀ト奉存候」とあり、長薩の装備兵器が新政府参軍諸藩より一段上だったことを うかがわせる。 砲撃戦(長州担当)で各藩防御点間の連絡線が分断されたのであろう。 新潟戦終盤は各藩独自の 判断での戦いとなり米沢藩司令部内も散兵間が分断され長久以下少数が 信濃河畔の葦原にが逃げ込んだとものと思える。その潜んでいるところに高鍋藩兵が接近。 逃げられないと悟った長久は 白刃突撃を敢行した状況が鈴木・武藤の報告に伺える。 報告書は自藩の武勲を 誇る書き方でなく事実を淡々と記している。 --- 山形県史 巻四 頁906〜907 (S48/5/16 発行 山形県内務部/編) --- 宮崎高鍋藩兵は平島に渡河。対戦する同盟軍が撤退するままに追撃。一里(4Km)以上も南下してしまった。 新潟港占領が目的だったので慌てて引き返し色部長門らの退却に不時遭遇。 木滑要人について 米沢藩中之間年寄・木滑要人(政愿)の日記。 木滑は藩政に関与し、仙台藩や会津藩など諸藩との折衝を行った。 米沢藩は重臣会議で、会津藩の謝罪を奥羽鎮撫総督に周旋し、 却下されれば「有志之列藩」と相談して「天下之公議」によって 解決することなどを決定した(四月十四日条)。 その後木滑は、会津藩謝罪嘆願をめぐる関宿での会談や、 それにつづく奥羽諸藩会議に、米沢藩代表の一人として参加している。 (米沢市上杉博物館蔵) |
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