東北、北越諸藩 米沢・仙台・平藩の戊辰戦争 その3

まず、前ページ その1  その2 からお読み下さい。
この頁の出典は主として 「山形県史 巻四 (S48/5/16 発行 山形県内務部/編)」 である。
各藩の銃砲数は全て南坊平造 論文 「明治維新全国諸藩の鉄砲戦力」に依拠する。
ランチェスターの法則
 スペンサー銃機関部
大村益次郎の時代この法則が知られていたわけではないが、彼は歩・砲連携作戦(例;上野戦争)を行った。また、散兵攻撃隊形とし砲撃による 損耗を避け、遮蔽物を巧みに利用した射撃法とさせた。   ちなみに、磐城平城攻撃で攻撃側 1,500人。防御側 2,000人とも伝えられておりそれでも、1日で陥落した。  ランチェスターの法則にあてはめたとき、同盟側の武器効率、技量比は1:0.09程度で総合戦力は攻撃側の1割以下の 能力となる。
 
戦争に勝利するために当時も今でも
@兵員の数
A兵員の質 指揮系統、指揮能力。兵士の練度と目的意識、士気の継続。
B動員体制 実情に合った戦術と重要攻勢点への大量動員。
C兵器の数
D兵器の質
E予算
最低この程度の現状分析を行わなければならない。仙台・ 米沢藩首脳はこれらの要因を冷静に分析し政治的判断を行わなければならなかった。 人命を損ない 国をいたずらに疲弊する無益な戦いは回避すべきであり、当時の仙台、米沢藩に 新政府軍(薩長)と干戈を交える喫緊の問題は存在しなかった。
長州藩は、安政以来国内外に多くの血を流しながら 教訓や戦訓から学んでいた。 洋学を藩学とし、 幕府海軍伝習所開設となるや 多くの藩士を派遣した。 庶民の人材登雇も積極的に進め、武士のみであった軍事力にも 庶民の参入を許していた。 銃砲は常に最新式へと切り替え、慶応元年家臣団に 伝家の甲冑を売り払えとまで指示した。 

戦史研究HPより ランチェスター理論の部分掲載  (戦史研究)に詳しい
弱者の戦い方(第一法則)
1.局地戦を選ぶ。  2.接近戦にもちこむ。  3.一騎討ちの型にする。   4.兵力の分散を避け、1点集中主義をとる。  5.相手を油断させるための陽動作戦をとる。

強者の戦い方(第二法則)
1.なるべく確率戦にもちこむ。  2.一騎討ちを避け、総合戦を展開する。  3.接近戦を避け、遠隔的戦闘にもちこむ。 4.圧倒的な兵力によって短期決戦を狙う。  5.敵を分散させるための誘導作戦をとる。
ランチェスターの法則及び計算は「戦史研究」この方のHPで
ランチェスターの法則 ランチェスターのN2法則 ランチェスターの法則損耗計算
ランチェスターの法則投入兵力可変時用
茨城県北部 諸藩位置図
現:いわき市 各城砦位置関係図
12〜3Kmの範囲に三藩があった。その後西軍は小名浜を兵站基地とした。
兵員の頭数だけそろえたってどうにもならない。  抜刀して切り込んだの、勇戦しただの、部分局面はあったであろうが 近代戦は局部戦闘に勝っても戦争に勝つことにはならない。
新発田藩 進撃軍構成
薩摩 100人 長州 100人(奇兵五番隊、報国隊) 芸州 230人 大砲一門長州大砲隊(第一砲分隊)
奇兵五番隊司令 (野村三千蔵) この支隊は新発田に入城 (陸路20Km) し、後、三日市、黒川、村上方面に向かった。
新潟港 攻撃隊構成
薩摩 100人 長州 100人(干城七番・八番中隊) 高鍋(秋月)90人 大砲三門芸州大砲隊(二門説あり)
出撃前7月22日の攻撃部署割はこの体制であったが、主計、輜重担当の福知山、芸州兵も 阿賀野川渡河作戦に加わっている。
橋頭堡確保及び予備隊
徴兵 150人 明石 50人

主計、輜重隊
福知山 50人
7月22日柏崎の本営で各藩指揮官会議
上の配置の決定をみている。ただし、防長回天史でも 頁によって少し錯綜している。 回天史の章建てに新潟港と越後口があることによるか?。


7月28日の上陸後の軍議での部署は
■ 軍艦夜八ツ時(午前3時頃)ヨリ放(砲)撃、陸軍同八ツ時繰出シ未明渡河合図黒旗
■ 第一先鋒 徴兵右一小隊(田村喜兵衛) 同薩州一小隊(村田勇右衛門、後の村田銃開発者)
同長州一小隊(山中梅次郎) 浜手より市中を衝く。
■ 大砲二門 長州 中筋を進む。
■ 長州一小隊(岡部富太郎) 徴兵左半小隊 (一分隊、二分隊、南條熊之丞) 高鍋半小隊 山の手を進む。
■ 徴兵左半小隊 (三分隊、四分隊、柴 捨蔵) 高鍋半小隊 関屋襲撃 この隊が実際は平島に渡河。坂井あたりまで進攻してしまった。
■ 新潟海岸砲台制圧任務 新発田藩。

米沢 戊辰事情概略
「短兵接戦ニ至ル全権総督色部長門自ヲ劇戦シテ没ス我兵大ニ潰ユ死二十六人傷十七人」

仙台藩記
仙藩僅二小隊半ノ兵ヲ散布シ川ヲ隔テ防戦二十五日ヨリ二十九日迄五日間日々苦戦二十九日 米沢藩持口懈惰(かいだ、戦に役立たず)其虚ヲ見込官軍衝突烈戦衆寡難支終ニ全軍瓦解シ 会津国境八十里引退。
(仙台)ら兵隊も少なく、米沢藩は戦いで全く役立たず、そこを官軍が衝いてきたので、衆寡敵せず 退却のやむなきに至った。と自己の責任を回避した。

若松記
米藩人数250人程、仙藩人数150人程とある。 会津藩守衛前面に、 敵兵(新政府軍)300川ヲ渡リ来リテ衝ク白山前ノ少数兵支フヘキニ非ス援ヲ 米藩ニ求ムルモ米藩之者共追々何方ヘカ引上候由。
会津の防衛正面に300人も上陸した。よって、支えきれず米沢に救援を求めたが どこかに逃げ去って所在がつかめなかった。と批判している。 
石原倉右衛門(庄内藩)
太夫浜に上陸した長州偵察隊に遭遇。新潟港から庄内に駕籠で帰藩中阿賀野川東岸松浜で射殺された。供の二人の内一人は逃げ去ったが 残りの一人は殺害されている。 戊辰役の後、各藩戦争責任者の訴追が行われたが庄内は倉右衛門とし米沢は色部長門とした。 死したこの両名に全責任をおっ被せている。

終盤戊辰戦争の推移
8月に入って、庄内藩のみ秋田佐竹領で奮戦していた。だが新潟港陥落後列藩同盟各藩の敗勢は 濃厚であった。仙台藩は、東辺相馬藩境駒ケ嶺で新政府軍を食い止めたのが限界であった。 会津若松城は8月23日以降、悲惨な籠城戦に入っていた。
そして、9月4日、仙台藩とともに列藩同盟の盟主を務めた米沢藩は降伏。15日には仙台藩も降伏。 仙台藩の降伏で抗戦意識の萎えた会津藩も籠城から1カ月経った9月23日、開城降伏。翌24日、 秋田領に攻め込んでいた盛岡藩も孤立を知って降伏。そして9月26日、23戦全勝の庄内藩も 秋田領から兵を引き新政府に降伏を申し入れた。 同胞相打つ戊辰戦役も同盟結成から四カ月で崩壊した。 残るは、蝦夷函館の榎本軍のみ。
庄内藩の戦費調達
列藩同盟で唯一奮闘した庄内藩の戦費は本間家が支えた。大地主であり米問屋であった本間家は 庄内藩の財務大臣として財政を支えた。一説によると文久3年(1863)から慶応4年(1868)まで6年間で、 20万両(現代感覚で60億円か?)に達したと伝えられている。
この潤沢な資金で、商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入した。 7月25日阿賀野川東岸太夫浜上陸作戦時、街道を通りかかった石原倉右衛門の懐には銃器購入契約書があった。
この本間家の広大な土地は第二次農地改革法の前に潰えた。   阿賀野川太夫浜への上陸はこちら


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