常識を疑う。東北諸藩 米沢・仙台藩の戊辰戦争 その2  大局的見地なし!

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この頁の出典は主として 「山形県史 巻四 (S48/5/16 発行 山形県内務部/編)」 である。
各藩の銃砲数は全て南坊平造 論文 「明治維新全国諸藩の鉄砲戦力」に依拠する。


慶応4年(1868) 6月〜9月の北越
敵前上陸 新潟太夫浜への上陸作戦 列藩軍事同盟組織 仙台・米沢家臣数  仙台藩装備
長州藩の鉄砲戦力
T前装単発ミニエー 17,607
U後装単発レカルツ 3,702
シャスポー66
スナイドル1,313
その他  100
V 連発スペンサー607
ヘンリー638
合 計24,033
 スペンサー7連発 ヘンリー13/16連発
 ミニエー銃数は既知後装銃総数からの差引数
8月23日、米沢藩の使者木滑要人(政愿)、堀尾重興は仙台に赴いた。 米沢が降伏するという内容である。仙台もあっさりと 降伏を受け入れた。
そして8月29日仙台藩の使者は肥後細川軍に降伏の申入れを行った。  世良を斬ってわずか4ケ月救会を掲げ米仙の恫喝的態度によってなった奥羽越列藩同盟は 自らの軍事力の非力さを知り内部崩壊を始めた。
仙台・米沢は救会という小局に拘り 当初の目論見はことごとくはずれ、 いたずらに兵を銃弾の前に曝し、国家(藩)に惨禍をもたらした。
仙台、米沢の意向は白石に参集していた諸藩に連絡・相談されることもなかった。
注)《南坊平造論文 軍事史学会誌》 表によって若干銃数が違うので要注意。

歴史的事実について
@閏4月11日〜21日
仙台・米沢藩主導で救会を目的とした嘆願同盟を模索していた。 仙藩主戦派瀬上主膳・姉歯武之進らに よる鎮撫総督府参謀世良修蔵の斬殺事件が発生し同盟に至った。
A閏4月22日〜5月2日
奥羽諸藩の嘆願同盟内で会津・仙台藩主戦派が勢いを得。やがて攻守同盟へと変貌する。
B5月3日〜5月17日
5月3日仙台松の井会議 建白盟約署名
5月4日須賀川軍議、長岡藩列藩同盟加盟
鎮撫総督府九条総督を推戴し奥羽列藩同盟の体裁が整った。 仙・米藩主導で他奥羽諸藩が加盟した。 後、北越諸藩が加盟し奥羽越列藩同盟となった。
5月15日 米沢甘粕備後日記 舶来ミニー銃二千挺、元込七連発二五〇挺、その外弾薬雷管等越後下関渡辺邸に着す。   新式銃器を手に入れてもそれが戦力となり得るのは、それなりの時間と訓練が必要である。 米沢遅きに失した。

C5月18日〜7月17日
仙台藩にあった九条総督が仙台の手から離れた。 列藩各藩は仙台藩へ不信感を持ち、疑心暗鬼となり、状況に応じ各藩とも 今後の進退の模索が始まる。
6月24日棚倉城陥落。
6月25日守山藩降伏。 6月28日泉城陥落。
6月29日湯長谷(ゆはせ)藩降伏。
7月6日最初から同盟に加わらなかった秋田藩が庄内藩征討軍を進発させた。  が、逆に同盟軍に攻め入られ藩内各地焦土となる。
7月13日津軽藩同盟脱退を決意。藩内布達。
7月13日磐城平藩が降伏。逃げの安藤このときも逃げた。

D7月18日〜9月12日
上野寛永寺輪王寺公現法親王とその側近(覚王院義観)を加えた 軍事組織の体裁が整った。 白石に公議府、福島に軍事局が置かれた。
7月27日三春藩戦闘を交えず降伏。 29日二本松藩再起不能なまでに完敗。
この段階で仙台藩兵や米沢藩の軍事的実力のなさが知られ影響力を失った。
8月19日土佐藩による米沢降伏勧告文送達。 26日降伏を藩内決定。  会津藩小野権之丞。 米沢藩に徹底抗戦を要請。 米沢藩拒否。やがて降伏。
9月12日福島軍司局撤退。
無責任な東北諸藩 (仙台・米沢藩) にその後の日本を重ねてしまう。 太平洋戦争で常に 楽観的目論見を行い国家と国民を破滅の縁に導いた。 彼らは尊大な態度を示したと史書は伝える。

公議府・軍事局設立当初の彼ら(奥羽列藩同盟)の目論見は 米沢藩に大きく期待!
白河方面
 白河を絶対防衛線とする。 当面会津藩を主担とし仙台藩主力を派遣。二本松藩は挙藩体制とし米沢藩も支援する。他の諸藩も白河に兵を派遣。 会津藩は余勢を駆って日光、宇都宮を占拠し関東に攻め上る。
庄内方面
 薩長兵を米沢藩が実力で排除、必要があれば攻撃を敢行。
越後方面
 北越は米沢藩に長岡、庄内で薩長軍を迎え撃ち奥羽諸藩も支援する。さらに関東に攻め上る。
全国諸藩の鉄砲戦力 (南坊平造論文)
列藩同盟軍事局組織


北越・東北佐幕派の装備はこちら
  三方面とも米沢藩は軍事的大きな役割を担っている。確かに15万石は大藩である。 相当な軍事力を保持していると誰もが思ったはずである。だが実態は誠にお粗末極まりない。  先込め銃がたったの900挺、大砲のおんぼろがわずか18門。
列藩同盟成立に関わった仙台、米沢は自己の軍事力さえ把握していなかったのか?。

先述したように
@閏4月11日〜21日
仙台・米沢藩主導で救会を目的とした嘆願同盟を模索していた。 仙藩主戦派瀬上主膳・姉歯武之進らに よる鎮撫総督府参謀世良修蔵の斬殺事件が発生し嘆願同盟に至った。
仙台藩 大砲及び後装銃総数
名 称 数量 銃 名 数量
10斤以下カノン砲 8 スナイドル銃 215
臼砲 20〜36 duim40 スタール銃98
榴弾砲 14 シャスポー銃 85
雷銃 22 砲兵銃28
   ピストル 6
  その他の銃 1
84 433
1斤=600g  1duim(ドムイ)=0.393inch
世良殺害について、すでに記述した内容ではあるが煩雑をいとわず記すと、 この殺害が東北戦争の契機となった。 閏4月20日白石城に 世良殺害の報が伝わるや居合わせた仙台藩主席但木土佐、軍務統頭坂英力ら 並み居る者たちは万歳を叫び「愉快」「愉快」の声で沸き立ったという。  新政府の使節を殺害した後の対応など考慮にも入れていなかったことが伺える。 左表の仙台藩の装備で今後どのように戦うのか思考の外であった。  殺害に至る最たるものは世良の東北人への態度が尊大であった。に尽きる。
すなわち、相手に触発されヒステリックに反応したに過ぎない。 殺すという意思は仙台上層部に稟議ずみである。 上層部にしても、 殺したあとはどうするか全く考えずに「出たとこ勝負」であった。  どのようにしたら会津が救えるか 考えてもいなかったと思える。 ちょうどよいことに上野戦争(彰義隊)で逃れてきた 輪王寺宮いる。 よっしゃ格好つけたれ。 これがどう見ても「列藩同盟軍事局」である。  剥を付けるために幕府老中経験者の板倉勝静(備中松山)や小笠原長行(唐津)を据えた。  小笠原長行は先の第二次幕長戦争小倉口の戦いで肥後熊本軍が奮戦しているさなか方面軍司令官でありながら逃亡している。

スナイドル銃機関部
岩堂憲人/著 世界鉄炮史より
 なぜそのような人物が同盟軍事局参謀 が務まるのか摩訶不思議である。  勝つための方法論や意図さえみえない。 暴れ回る武力さえない。 どう贔屓目にみても 東北諸藩を道連れに心中を図る意図が見えない。 出たとこ勝負だから、 米沢がもう戦争出来ません。降参しますと云えば、あっソーと仙台は簡単に降参に応じている。 
 この図式太平洋戦争の某国の思考にものすごく似ていると思うのは筆者だけか。
東北戦争後仙台62万6千石は28万石にまで減石され多くの家臣は四散した。 組織力としての 仙台藩は二度と出現することはなかった。
宮城白石列藩会議で当藩(米沢)に ろくな鉄砲がありません。また数も極わずかです。となぜ云わなかったのだろうか??。  武士の面子で云えなかったと思うけど。 上杉鷹山による大借金地獄を抜け出した米沢藩 に最新式装備や軍制改革など望むべくもなかった。
米沢藩3方面に軍隊を均等に派遣したとしたら各戦線に 前装ミニエー銃300挺。丸弾の大砲6門。それで手持ち(予備)が無くなる。 結果東北・北越戦争で300余人の戦死者を出した。
藩主一同逃げまくった福島藩の戦死者はたったの5人。

戦国時代鉄砲が戦場に出現し鉄砲の所持は足軽(一般的に百姓)であった。攻撃の第一撃は一般的に鉄砲足軽の射撃、 弓足軽の矢放射、鑓足軽の進撃。そして侍の出番であった。侍には従者が従った。侍が白刃を振りかざして原野での全面衝突など 偶然遭遇以外ありえなかった。侍は負傷し動けない傷兵の首を切って歩いた。(謎とき日本合戦史・鈴木眞哉著)
米沢藩もこんなものであろう。戊辰に参戦し戦場の実態を知った途端藩としての戦意喪失。降伏した。
仙台藩
士族戸数4,262戸・男13,776人、卒族戸数3,050戸・男子6,607人、鉄砲 6,260挺
10名のうち3名しか鉄砲がゆきわたらない。 銃撃戦になったら7名は戦闘にあぶれて傍観する以外に方法はない。 否、単なる銃弾の標的にしか過ぎない。
■ 知られている火縄銃の有効射程 100m程度
◆ 知られている輸入銃器の最大射程
 エンフィールド(英・前装式施条銃) 1,300m
 スナイドル(英・後装式金属薬莢) 1,400m
 シャスポー(仏・ボルトアクション式) 1,200m
 スペンサー(米・連発銃) 900m
 三ツバンドミニエー(各国・国別により諸元差異) 820m 南坊論文。後装銃数が名称別銃数と集計銃数で100挺の違いがある。要注意。
米沢藩
士族戸数3,425戸・男7,565人 卒族戸数3,308戸・男11,980人、 銃器960挺(拳銃60挺も含め)   たったこれだけの銃器で米沢藩どのようにして戦闘集団を形成したのであろうか?   米沢上杉15万石 仙台伊達62万6千石、薩長なにするものぞ、大藩意識の冗官にしか過ぎない。

閏4月20日世良修蔵を福島阿武隈河畔で斬ったことで、仙台・米沢藩主導で奥羽列藩同盟結成へと 動いた。かたちばかりの東北政府を目指し新政府に反旗を翻した。 新政府と戦うことを選択したのである。
大局(統一国家)を見ず小局(救会津)にこだわった。  自国の軍事力の実態さえ把握せず、小局ばかりを語り現場の状況の細部さえ知らず、前線に向かった兵士の 3分の1にしか鉄炮がわたらず、更にその鉄炮さえ二世代前の和銃や前装銃であった。
 東北諸藩にとって現実は厳しいものであった。 厳しければ厳しいほど現実を直視し選択肢と 政策を決めなければならない。 敵を知り己を知る知恵と知識さえ持ち合わせていなかった。  新政府(西軍)から会津攻めを指令されたときに彼らは「この田植え時期の大切なときに」 そんなこと(会津攻め) はやれませんなどバカなことをほざいた。
ヘンリー銃   13連発

 彼らは会津藩の処分撤回という 小局のみに拘泥した。 仙台藩にいたっては陶器製の大砲弾を作らせた。  そして小局を語り自藩の現状認識さえ行わなかった戦争指導者たちの楽観的目論見は ことごとく外れた。 米沢藩はまだ同盟諸軍が戦っているさなかの9月4日には早々と降伏したのである。
   スペンサー銃 撃発前状態
救会(会津を救う)の意思は新政府軍の火器の前に消し飛んでしまった。  冷静に現実を直視しする対応を全くしなかった。
当時の侍の社会が戦に臨めば身を鴻毛の軽きにおく認識が一般的であったにせよ、 戦いとなれば東北幾十万の民が戦火に泣き、賦役に苦しむことを政治に携わる者は 常に念頭に置くべきであった。 面子に拘り、大局を見ず兵に蛮勇を求めた。  世良の東北人に対する態度が尊大だというだけで戦いを挑んだ。 この両藩幕府や会津への 情誼など感じる必要はなかった。
その1 その3


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