|
|
|
幕府を含む諸藩は財政的に宿命的な矛盾を抱えていた。 1.米の石高制による農業税制であった。 そして米は基軸通貨であった。 この制度は、米価に諸物価が連動してはじめて成り立つ。だが豊作となると米価は下落し、諸物価は下がらな い経済問題に突き当たり、徒士層を含む下層民の生活に大打撃を与えた。 税収不足を補う方法として、初期検見制から定免制で増収を図ったことで本百姓の凋落に歯止めがかからな くなった。 水呑百姓化で生産意欲と生産性が低下した。 場合によっては妻や娘が売られた。 2.商業者に対する組織的体系的税制を持ち合わせていなかった。 各藩とも商流に関わる者に、運上・冥加などの営業税を課すなど財政改革を試みたが、担当役人と商人の 間で不正を生み成功しなかった。 大名家の家計も商人資本に依存したことで頭が上がらなくなった。 3.貨幣改鋳(悪貨)で差益を得る方法が常套的に使われた。 |
| 徒士層の生活実態 |
|
現在、元士族と呼ばれている武士に大別すると二通りあった。 1)侍。 裃、羽織・袴の着用許可。(知行取) 2)徒士。 役羽織藩から支給。基本的に侍(上級武士)に昇進できない層。(切米取) 岡山藩徒士(切米取、二十俵三人)岡 真一の自伝を紹介しよう。父は庄五郎といった。 「慈母亦夕薪炊ノ労ニ服シ、其余暇紡績以下の業ヲ執リ、夜以テ日ニ継ギ家計ヲ輔助スル終始一日ノ如ク」 という貧乏暇なしの生活であった。 息子真一は「七八才オノ比ヨリ園ニ澆(そそ)キテ菜ヲ養ヒ、又ハ米麦ヲ搗磨」 子供の頃から家庭菜園に汗を流し糊口しのいだ。さらに 夜には草履を編み、昼には焼釘を探して歩いた。草履は一足10文で売れ 「10足ヲ造リ得ルニハ殆ト五日ヲ費」 たと言う。この乏しい収入では 「平常飯ハ半ハ麦ヲ混シタルモノト概シテ野菜ハ豆腐ノ類ヲ用イ。魚類ハ一ケ月僅ニ四五回ヨリ外 口ニ上ラス。カラキ味噌汁ノ味ハ今尚記憶ニ存ス。当時朝晩ノ二餐茶漬飯ニ香ノ物ヲ用イルハ、中等已下一般ノ風習ナリキ」 食事は麦と米半々でそれも朝、夕2回の茶漬けで腹をふくらませた。 通常副食は漬け物とからい味噌汁。豆腐が少々でした。魚など 月に4〜5回位しか食べられませんでした。いま思い出しても味噌汁のからかったことが思い出されます。 これが下級武士の生活でした。と述懐している。 |
|
幕末関連の私のようなHPを作成すれば、どうしても現地調査や取材、口伝の聞き取りが不可欠である。なにしろ
文献に記載されていないことを調べる性質上しかたのないことである。 その過程で、うち(宅)はその昔士族でしたからと少しプライドを鼻にかけた言葉を聞く。それは大変だったですねーと 云いたいところをぐっとこらえて取材を続ける。 そこで彼ら武士の生活実態を侍層(知行取)ではなく圧倒的多数であった徒士層(切米取)について記録を渉猟する。すでに記述した部分もあるが 少しの煩雑を承知して下さい。 |
|
| |
|
伊達村候 1735-1794 伊予宇和島藩五代藩主 藩士長野久米治(九俵三人)は、「内分必死と及難渋、家内飢命之体」 (文政2年2月10日条)食べるものがありません一家が飢渇に苦しんで いますと藩庁に訴えた。さらに勤務の特別免除を願い出ている。おそらく体も衰弱し働けなかったものと思われる。 | |
|
伊達村寿 1794-1824 伊予宇和島藩六代藩主 宇和島藩士は微禄の家臣が多い藩であった。「全体、数年御用立等モ被仰付」とあり、簡単に云えば数年という体裁を取りながら給料のカットを行った。 このことが藩士の生活を圧迫し、「御家中困窮至極之内ニモ、小身ニ而人数之面々、間ニハ、内外艱難致由」 (宝暦14年4月2日条『村候公御代記録書抜 三』) 下級藩士の中には、一日の食事3回を2回にしても食べていけません。あとは餓死を待つばかりです。というほど困窮を極めた。 | |
|
伊達宗紀 1824-1844 伊予宇和島藩七代藩主 岩崎重郎左衛門(十俵四人)も、「内分困窮、家族及飢候体」と訴えており 「五カ年御下屋敷」への収容と「勤方一切御容赦」 (天保4年7月27日条)家族が飢えて死にそうです。 家族共々5年間藩邸(御下屋敷)に住ませて下さい。その上勤務も免除と願いでざるを得なくなっている。 | |
|
伊達宗城 1844-1858 伊予宇和島藩八代藩主 伊藤市野右衛門もその一人であった。家計が藩に管理され、 「可成省略可尽処、年来二相成、妻帯モ不致、不安二付、相応之者所望イタシ候而モ不苦哉」 (嘉永4年4月7日条)と許しを得るまで、妻帯できなかった。 | |
| 宇和島藩幕末に至る4代の藩主の家中の惨状の一部を見てきた。社員を飢えさせない経営をしなければ立派な経営者とは云えないが、最後の宗城さんなどは、 いわゆる幕末の四賢侯として著名だが、逃亡中の高野長英を匿い、イネ・シーボルトを保護し、大村益次郎を世に出す契機を作るなど、時代の先を見る目があった。(某HP記述) とあるが家中の改善を図った節は見あたらない。それ立派なこと・・・・・?。 |
|
百姓の農奴的生活と勤労意欲 1)天災飢饉の頻発 (1) 江戸期の凶作130回(うち大飢饉21回) → 時代が下るほど慢性的・周期的 寄生地主の下で農奴的生活を強いられ、生産意欲が減退した。 生産品の自由売買を禁じた。 勤労意欲も高収量生産意欲もなえていた。
・享保の大飢饉(1732、享保17) 西日本一帯にうんか害、作柄3分作、餓死者12,000人 ・天明の大飢饉(1782〜87、天明2〜7) 東北地方に冷害、津軽藩の餓死者130,000余人 ・天保の大飢饉(1833〜39、天保4〜10) 全国的に天候不順・冷害、全国平均で3〜4分作 ※百姓の租税率をどんどん引き上げた。これにも限度があり、暴動的一揆で対抗した。 長州藩など一揆に苦しめられた藩の筆頭である。 そこで藩は、 2)藩財政の破綻が切米取(徒士、かち)身分層以下に特にしわ寄せた。 借上…事実上の給料カット(主君が家臣の俸禄を借り上げるの意) ・藩主による知行減少(知行高が半減(半知)されることもあり。 京都守護職を任じられた会津藩は職務遂行に膨大な赤字を計上した。給料は60%カットだったという。 忠臣二君にまみえず。こんなタガをはめなかったらみんな逃げだしていた。幕末本当に逃げ出した。 窮乏への対策 (1) 先祖伝来の武具の売却・質入れ(享保期には一般化) (2) 借金(御家人などは札差 {支給された米を換金してくれる仲介人} などから) (3) 内職……草履編み、傘張り・提灯作り、金魚屋・植木屋、茶の湯の指南、高利貸・博徒の用心棒など 将棋の駒で有名な天童市での駒作りは下士層の内職がその始まりである。 (4) 武士株の売却……養子による身分売却と借金の肩代わり。 |
| あなたが、うちは元士族でしたからと聞くようなことがあったなら、軽く「知行取」それとも「切米取」と聞き返して下さい。 もし返事が重かったら、ご先祖さんは大変でしたねと慰めてあげて下さい。お願いします。 |
| 当サイトの写真その他記事内容等をご自身のサイトに掲載する場合管理者の了解を取って下さい。 | |
![]()
|
第二奇兵隊取材班![]() ADDRESS Kudamatu City S.K.P Version 1.00 (C)Copyright 1999/2001 |