見 廻 組 と 京 都 守 護 職 配 下 新 選 組
1.見廻役 総社浅尾藩主蒔田廣孝 就任時16才
 同じ見廻役であった松平(康正)因幡守の飯笹陣屋は、天保13年、旗本の松平康盛が6,000石を拝領して築いた陣屋である。 飯笹の集落を見下ろす比高15mほどの台地の先端部にあるが、 陣屋の跡はすっかり畑地になってしまって、明確な遺構らしきものはない。 そこには一軒の民家があり、 屋号は「陣屋荘」といい、この地が陣屋の跡であったことを示しているくらいである。  元治元年(1864)4月、幕府は「京都見廻役」と「京都見廻組」を創設した。かの有名な新選組の「池田屋事件(1864/06/05)」の起きる 2カ月前であ。京都の治安を維持する新しい幕府組織である。「見廻役」には岡山県総社市を知行地 とする蒔田相模守廣孝(在任期間 1864/04/26〜1867/06/06) と交代寄合松平(康正)因幡守(後、出雲守) 康正が任命された。格式は「大番頭(武官)次席」でその配下が「見廻組」で旗本や御家人で構成 されたと伝えられているがはっきりとはわからない。それぞれが200名を率いることになっていた。 すなわち相模守組と出雲守組に分かれていたように小野家文書(注1)にみえる。相模守組の中で組員のリーダーが 与頭(くみがしら)であった。
 後年坂本龍馬暗殺の有力下手人の一人とされた見廻組、佐々木只三郎は会津藩士佐々木源八の三男で親戚筋にあたる幕府旗本佐々木家の養子となった。記録からみる 只三郎は相模守組である。
  「大番頭(武官最高ポスト、譜代大名若しくは最上級の旗本)
  「大番頭(武官)次席」 大番頭を社長とすれば執行取締役に相当する。だけど社長になる道は閉ざされている。
   廣孝着任当時は16才。家格制度での着任である。
  「見廻組員(当初は家臣で構成。随時旗本の次男・三男で武士出身者を加える)」 上位に絶対昇任することのない社員。
 京都見廻役(京都警察長官)の就任年齢が16才である。伊達宗城(37)、山内容堂(46)、島津久光(47)など多士済々の京都政局の渦中、16才で京都警察官僚のトップだぞ。 いくら当時早熟だったといっても、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の跋扈(ばっこ)する京都でちょっと若過ぎるんとちゃうか?。 その上たったの1万石。 いっちよまえに禁門の変のときやぁー蛤御門を守っていたぞなもし。   蒔田廣孝の墓はこちら
--- 閑話休題 ---
明治41年(1908)蒔田廣孝が総社町長となったとき、高梁川の清流を町の中心部に引き、緑と清流の 町づくりをしたかった。と人に語ったという。  以上 総社市史より
注1) 小野家は蒔田領大谷村。(旧岡山県金光町、現浅口市)  
2.京都の警察機構
 幕末京都の治安維持のため「守護職」を置いた。守護職も新しい職名で本来市中警察権は「所司代(譜代の職務)」とその指揮下に「町奉行」があった。
守護職 文久2年(1862)7月末、将軍上洛に備え「京都守護職」設置を決める。ここで貧乏くじを引かされたのがご存知
 会津藩主「松平容保」8月着任。
京都 守護職在任表                                             石高:万石
名 前領 地石高 在 任 期 間備  考
松平容保岩代会津28.0 文久2年(1862)閏8月1日〜元治元年(1864)2月15日美濃高須藩から養子
松平慶永越前福井32.0 元治元年(1864)2月15日〜元治元年(1864)4月7日田安家から養子(春額)
松平容保岩代会津28.0 元治元年(1864)4月7日〜慶応3年(1867)12月9日 
 新規設置で
 幕末、京都情勢不穏(反佐幕派の暗躍)により、 文久2年(1862)7月末に設置された。京都所司代、大坂城代、近国大名を指揮する権限を持ち、 職員は藩士を用い、やがて設けられた京都見廻役や新選組もこの管轄下(注2)にあった。役料5万石。 職務権限の広さと深さで現代なら息がつまりそうである。 本部職員は会津藩士であったから会津藩はそれこそ大変な任務を背負わされた。 そのことで財政逼迫し賃金カット60%だったという。
 守護職配下の新選組と見廻役配下の見廻組は反幕過激派対策特別班であり、一般犯罪と区別した。またパトロール範囲を調節せざるを得なかった。 見廻組は御所や二条城の官庁街、新選組は祇園から 三条や四条の歓楽街で攘夷派志士が多く出没し、テロ犯罪が多発する危険な場所を担当させた。 と史書に類するものに記載されているが見廻組のパトロール道順は現存するが 新選組のパトロール道順は未見である。
注2) 総社角田家文書に蒔田相模守による「浅尾騒動始末届書控」で慶応二年四月一五日(願書提出は一四日)に事件整理のため 帰藩(岡山県総社市)したが、その暇願は文案からして在京幕閣に提出されたように読める。守護職配下が新選組で幕閣配下が見廻役(組)だったかも知れない。
京都 見廻役                                      石高単位:万石
名 前領地石高在 任 期 間備   考
蒔田廣孝備中 浅尾1.0 元治元年(1864)4月26日〜慶応2年(1866)6月6日陣屋第二奇兵隊襲撃焼失
松平康盛下総 飯笹0.6 文久2年(1862)8月24日〜文久3年(1863)6月11日旗本

総社角田家(蒔田の領地)に蒔田相模守等へ京都見廻役任命状がある。その全文を紹介する。
蒔田相模守
松平(康正)因幡守 (後出雲守 松平康正 [1931〜1904] 下総国飯笹領主、交代寄合
現:千葉県 香取郡多古町飯笹 成田国際空港の近く
見廻役任命状
今度、京都見廻役被仰付候ニ付而者、銘々江組之者二百人宛被成御預、与頭(くみがしら)二人宛 同勤方二人宛被附属候、右人躰者追々可被仰付、尤、其方共并組共家内召連、彼地江引越候積心得候

幕府の軍事組織、武官次席に2人が就任した。各役に200人の隊員であるが、追々人躰は 仰せつけるが当面は家中の者を隊員とし、京都へ引っ越しせよ。という内容である。

 見廻組の巡邏(パトロール)道順
大宮通下り→杉原通東江入→油小路下り→五条東江→五条橋渡→宮川町上り→ 祇園前□(より)橋寮、弁当、 →夫□(それより)祇園前上り→桜馬場通り西江→縄手通り上り→二条新地→ 夫□(それより)二条橋渡り→二条通り西江→ 新町通り下り→三条通西江→大宮路      漢字無し 判読不能文字
慶応二年五月付け「京都見廻組与頭心得方之儀につき御内慮伺書控」書中に松平出雲守組与頭(くみがしら)勤方大野 亀三郎云々あり。よってこの頃には因幡守から出雲守に代わっていたと思える。 これにより相模守組と出雲守組の実働部隊の存在が窺われる。   出典:総社市史 近世資料編 角田家文書

注)史書にみえる松平康正について 東京大学史料編纂所の「維新史料綱要・復古記(綱文)データベース」
安政元年(1854)10月21日・幕府、篠山藩主青山忠良・淀藩主稲葉正邦「長門守」・膳所藩主本多康融「隠岐守」 ・高槻藩主永井直輝「遠江守」・丹波亀山藩主松平信篤「豊前守」及所司代脇坂安宅・ 伏見奉行内藤正縄「豊後守」・ 使番松平康正「久之丞・後出雲守」の皇居炎上の際に於ける消防尽力の労を賞す。

脚注)この皇居炎上は同年4月6日の火災を指すものと思われる。

  松平康正について
ほとんど事績が知られていない。以下千葉県多古町史による。
下総国多古藩松平氏を租とし初代康元、10代目が康正。8代目康盛のとき飯笹に陣屋を 築造(天保13年)。康正の幼名は勝千代?で文久3年(1863)8月大御番頭より大目付となる。 この頃は因幡守。元治元年(1864)4月交代寄合から京都見廻役となり出雲守を称した。 8代目康盛は10万石の格式をもって飯笹陣屋に入り、以降明治維新まで代々この地を 知行地とした。旗本であったが格式上参勤交代を行った。村民はその格式ゆえ夫役(ふえき) に苦しんだとある。最後の殿様?は、康國  文久3年(1863)4月11日生れ。昭和20年(1945) 82才で死去。読売新聞主筆などを務めた。 早稲田大学名誉教授。
この飯笹村は本間・松平・幕領の相給地(この場合3分割)で幕府倉敷代官所櫻井久之介の前任者大竹左馬太郎の 次の任地はこの飯笹村。
康正の見廻役解任は、慶応2年(1866)4月14日である。維新史料綱要 巻六(東京大学史料編纂所蔵版)では解任理由は 一切書かれていない。  よって見廻役は蒔田広孝のみとなる。はからずも この日、立石らによる陣屋襲撃の報に接し帰藩願書を提出し許可された。
京都守衛総督 政治の中心が京都となり、家茂、慶喜と続いて在京したことで守護職より上の役職が必要となってしまった。よって慶喜が就任する。
京都守護職会津藩と財政(1)膨大な赤字はこの方のページに超詳しい。
所司代 文久2年(1862)5月時点では酒井忠義。後任は大阪城代本庄(松平)宗秀。さらにその後任は長岡藩主の牧野忠恭。
 この頃の人事は2転3転し目まぐるしい。人気がないとか勝手な言い種で変更されている。結局人材不足なのであろう。
 そして、桑名11万石の松平定敬。いわずと知れた容保の実弟。この役職を無事勤め上げるとまず老中になれた。
幕末 京都所司代在任表                                       石高:万石
名 前領 地石高 在 任 期 間備  考
松平宗秀丹波宮津7.0文久2年(1862)6月30日〜文久2年(1862)8月24日 第二次幕長戦争副総督
牧野忠恭越後長岡7.4文久2年(1862)8月24日〜文久3年(1863)6月11日 北越戦争会津に逃亡
稲葉正邦山城 淀10.2文久3年(1863)6月11日〜元治元年(1864)4月11日 8.18政変を指揮
松平定敬伊勢桑名11.0元治元年(1864)4月11日〜慶応3年(1867)12月9日 美濃高須藩から養子
 京都の警備、天皇家、公家の監察、連絡、京都町奉行、奈良奉行、伏見奉行の統括、 京都周辺幕府領の訴訟処理、西国外様大名の監察などを行っていた。定員は1名で、譜代大名より任命された。
町奉行 文久2年(1862)8月永井尚志(なおゆき)が京都町奉行に就任。第一次長州戦争時には長州詰問使(長州御用掛)
 となる。当時の毛利藩重商派(俗論)政権は三家老四参謀、七政務員を殺害し、この三家老の首の実検を永井が広島で
 行った。この時の彼の長州に対する処分が寛大であった。ということで更迭された。だが、やがて重農派(正義)政権が誕
 生すると、またまた長州詰問使を任命された。よほど幕府も人材不足だったようである。
 閑話休題 幕府側(首席 永井尚志)と長州側(首席 井原主計)が広島で会談を行ったが、その責任の重さに耐えきれず藩
 の訓令を待つことなく井原主計は帰藩してしまった。武士にとって誠に不名誉なことで切腹させられたと思うでしょう。違い
 ます彼は禁錮を受けただけです。そして慶応2年(1866)12月19日51才で病死しました。
3.安政の大獄  報復としての天誅(テロ)京・大坂
井伊が大老に就任するや倒幕派の弾圧を開始する。最初の血祭りは橋本左内、 吉田松陰らである。 安政6年(1859)まで続けられた弾圧は朝廷内部や諸大名諸藩士にまで及んだ。 そして翌万延元年(1860)3月3日その報復として大老暗殺「桜田門外の変」が起きる。 これがテロの引金となった。井伊が断行した開国に対し「攘夷」という殺人がまず外国人になされた。
文久2(1863)年4月土佐藩参政の吉田東洋が同藩勤皇党によって暗殺され、5月には薩摩藩士同士が 京都寺田屋で斬り合う「寺田屋事件」が発生。そして第二次東禅寺事件も起きてしまう。 そして次に個人を標的にしたテロが発生した。
文久2年(1863)7月20日島田左近がその最初の犠牲者であった。島田は井伊直弼の懐刀 として知られる長野主膳とともに、安政の大獄や、皇女和宮の降嫁に尽力した人物であった。 そして文久年間島田を含む梟首斬奸事件42件42人。 生き晒し2件3人。が発生。

翌元治元年(1864)2月18日水口藩家老岡田直次郎を最初とし18人。他地域で殺害され大坂に 運ばれた事例は山口県田布施町で発生した 加徳丸事件の大谷仲之進。
慶応(1865)年間は西原邦之助(京都見廻役、1865/04/02)を最初とし14件17人。  以上文久から慶応初期まで合計77人が斬殺された。 以上は京都大坂に限った場合である。  池田屋事件が起きるまでに56人が被害に遭っている。  なお、この集計に池田屋の被害者は含まれていない。

  【出典;幕末天誅斬奸録 菊池 明著】

 安政の大獄(これも体制側のテロ)のリアクションの大きさを痛感する。 テロに倒れた総数は96人とも伝えられている。 通商拡大のしわよせは、下士層や下層民の生活を根底から 破壊した。攘夷!攘夷! 攘夷が実現すれば少しマシな生活に戻れると庶民は思っていた。  そして心ある青年層を政治的にしてしまった。  あの新選組さえ攘夷の集団だったのだから。

5.池田屋での長州藩関係者
 池田屋事件について、不逞浪士(各藩混成)たちが八月十八日の政変で長州藩の勢力が 京都から一掃されて長州が政治的に窮地に立っている状態を回復さすために 祇園祭りの前、風の強い日を狙って京都御所に火を放ち、 その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、徳川慶喜、会津の松平容保ら佐幕派大名を暗殺、 孝明天皇を長州へ連れ去る計画を練っていた。とされている。そしてこの会合に 諸藩の大物活動家がおおぜい居た、となっているが長州藩に限ってみるとさしたる大物は誰もいない。そこで
1.長州藩人以外の者が長州藩の政治的立場を有利にするために身命を賭すとは思えない。
2.京都市内の広範な地域に分散している要人を数十人の不逞浪士連合隊が襲撃し目的が達成できるか?
3.池田屋事件で殺害された長州藩関係者の中に藩政参画者はいない。単なるヒットマン程度である。 これらの人物で何ができたであろうか。
4.天皇を奪取し長州へ連れ去るには、まず陸路で西国街道か鳥羽街道を摂海(大阪湾)まで出なければならない。 元治のこの段階では桂川、宇治川合流点の淀藩などが彼らを見逃すとは思えない。
5.新選組に逮捕及び殺害された人数で放火くらいは出来るだろうけど、放火で体制が変革できる とも思えない。
6.そしてここが重要だが、逮捕した古高の尋問を土方一人で行った。とされていること。すなわち土方 以外は誰も証言内容を聞いていない。

などなど考えたとき、新選組の大事件ストーリーねつ造の疑惑が浮かぶ。すでに市中警察活動は血統正しい見廻役配下の 見廻組が活動を開始していた。そうした中で不逞浪士の 集まりである新選組は、政治的に存在が希薄になりつつあったと考えられる。そのような背景で 自己の存在感をアッピールするために攘夷派志士の何らかの会合があることを察知し、 ストーリーをねつ造したように思える。逮捕し自白したとされる古高が会合場所さえ知らず、 近藤、土方と2ルートに分けた理由が解らない。
新選組前身の浪士組募集は清河八郎の過激浪士を取締まるには、一まとめにしておけば監視の目が行き届くという発案に幕府 がのったものであり(将軍家茂の上洛警護)、そして後に1万石クラスの旗本大名を見廻役にし、 配下に組員(旗本の次男・三男で武士出身者)を配置した。みた目、血統正しい者たちが 幕府からみて反幕過激派対策警察任務に就いた。これが軌道に乗ると浪士集団の新選組はまったく必要なくなって来る。
歴史家の奈良本辰也は、新選組を「歴史の必然を示す 王道のなかから生まれたものではない。花であれば徒花(あだばな)だ」 と評しており、また作家の子母澤寛は、「歴史を書くつもりなどはない。 ただ新選組についての巷説漫談或いは史実を、極くこだわらない気持ちで纏めたに過ぎない。」 と語っている。今日まで様々な作家が新選組を取り上げ、隊士たちの個性豊かな人間像を作家の想像力で 作り上げ、国民的人気を集めているに過ぎない。これに惑わされて長州藩士の大物が殺害されたと勘違いしている。
新選組余話 こちら
 元治元年(1864)6月5日池田屋を襲撃した。世にいう池田屋事件である。 この事件で長州藩は激発し「禁門の変」に突き進む。
 池田屋事件関係で確認される山口県(長州藩)関係者は次のとおり。 この事件を契機に歴史は大展開を開始した。二転三転怒濤狂乱の時代となり 武力と暴力の応酬に突入した。
死亡年月日、歳
吉田稔麿 1864/06/05 24才 士雇清内嫡子 奇兵隊 負傷し対馬藩邸前で自決とも闘死とも伝えられている
広岡浪秀 1864/06/05 24才 大嶺八幡祠官若狭嫡子 闘死
杉山松介 1864/06/06 27才 士雇 奇兵隊 池田屋で負傷後虎口を脱し自藩邸で死
注1 士雇とはやっと武士身分になった呼称。稔麿の出自は足軽。足軽=百姓。広岡はチョー寒村のお宮の長男坊。
注2 広岡浪秀、一部の資料では広岡正恭となっている。「正恭」は諱(いみな)。正しくは広岡浪秀正恭。
注3  この会合に長州の桂小五郎も出席予定だったという文献もあるが、 当時身分間の規制が他藩より緩やかであった長州藩ではあるが桂ほどのキャリヤ政治家がノンキャリヤ以下の身分と同席するとは思えない。
身分の相違が意味するものはこちらをどうぞ
死亡年月日、歳
吉岡庄助 1864/06/05 31才 京藩邸作事方手子 京都近江屋 会津藩士と闘争 闘死
佐藤市郎 1864/07/20 41才 八組士 京藩邸吏 会津藩士に捕らえられ刑死
内山太郎右衛門 1864/07/20 22才 無給通士 奇兵隊 6月7日見廻組に捕らえられ刑死
山田虎之助 1864/08/20 23才 新兵衛組中村某の子 奇兵隊 会津藩士に捕らえられ刑死
佐伯稜威雄 1865/06/04 42才 鈴屋八幡祠官佐伯某養子 闘争後捕らえられ刑死
注4 吉岡庄助(彼の志は不明だが)は、池田屋邸内の死者ではないが、職業に貴賤はないという前提に立っても、 京藩邸作事方手子となっており、現代風にいえば作事は建築であり、手子とは作業員にしか過ぎない。 長州の人間であれば片っ端から捕らえ殺害した節がある。 参考 普請=土木工事
 この闘争の時、近江屋の女将「まさ」が巻き添えで死亡している。武士の「打捨権」で殺され損。何の補償もなかった。会津は京都守護職であり、殺傷届けを受付ける(本当に受付けるだけ)けど、殺傷届けを出す立場にない。 京都府高等裁判所判事兼高等検事正が殺人を犯したようなものである。  ご存じの方、教えて下さい。ここの近江屋 は坂本龍馬が暗殺されたあの近江屋と同じなのでしょうか?。
注5 長州側の被害者からして、大事件を起こせるメンバーとなると疑問である。あまりにも有名な事件にしては 人物的大物がいない。当時の階層最高位は八組士「佐藤市郎」である。他藩出身者を調べていないので何ともいえないが、事件そのものが新選組(幕府)の誇大宣伝工作の感を否めない。
注6 佐伯の死は(「防長維新関係者要覧」)翌年の慶応元年(1865)となっている。池田屋事件から一年後 となる。当時とすれば生かされ過ぎ。  事件の前日宮部鼎蔵の従者と中間体の者を逮捕との記録から、あるいは元治元年(1864)6月4日かも知れない。
池田屋事件関係死亡者 出典:防長維新関係者要覧による。
 
島田左近天誅の状況
  7月21日、妾宅の千歳橋四条上ル二丁あたりで襲われた。左近は行水中のところに刺客2人が闖入。裏から逃げ出そうしたが そこにも1人の刺客が待ち受けていた。 たちまち裸体のまま拉致された。 翌22日朝、河原町二条 下ル長州屋敷の傍らに首のない胴体があった。 首がないため何者の死体かわからぬまま検死を すませが、23日早朝四条河原上二丁あたりの河原に梟首された姿で発見された。
島田左近の暗殺を喜ぶ公家も多く、近衛忠房は「希代希代珍事、祝すべし、祝すべし」と書いた。  恐いもの見たさの野次馬で警備までついたという。

 【出典:京都岩倉実相院日記 講談社 2003/03/10発行】
 【画像出典:幕末天誅斬奸録 新人物往来社 2005/04/15発行】
 著者 菊池 明 (文久年間暗殺図録)
 
吉田稔麿
吉田稔麿は吉田松陰の隣家、安政3年(1856)十六歳で入門。松陰をして三無と云わせた。 稔麿は無逸。 無咎 増野徳民。 無窮 松浦亀太郎(松洞)。 また松門四天王の一人。 高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿である。 彼が生きていたら、また違った日本史がなったかも知れない。
無咎 増野徳民その後
文久2(1862)年久坂玄瑞ら同志とともに上京、藩老長井雅楽の開港論に反対して暗殺しようとしたが、 果さなかった。
やがて医師をめざし、慶応2年(1866)の第二次幕長戦争では芸州口(現和木町)へ軍医として活躍。
無窮 松浦亀太郎(松洞)その後
文久2(1862)年久坂玄瑞ら同志とともに上京、藩老長井雅楽の開港論に反対して暗殺しようとしたが、 果さなかった。しかし「一事寸功の見るべきものなく、いたずらに時の推移するを思い、何の面目か故郷の人に逢わん」と、 粟田宮(青蓮院宮尊融法親王)の正義を慕って粟田山中で切腹した。 享年26。
入江九一(杉蔵)その後
高杉晋作の奇兵隊創設に協力し、奇兵隊の参謀となった。元治元年(1864)7月、禁門の変では久坂玄瑞 らとともに天王山に布陣して奮戦したが、敗れて久坂・寺島は鷹司邸で自刃した。 後事を託された入江は何とか脱出を試みたが、敵の銃丸を受けて負傷、その場で自決。享年27。 九一の弟は野村靖。   松陰は、杉蔵・靖の志を愛した。


当サイトの写真その他記事内容等をご自身のサイトに掲載する場合管理者の了解を取って下さい。
第二奇兵隊取材班
E-mail  
ADDRESS Kudamatu City S.K.P
Version 1.00 (C)Copyright 1999/2001

JOY Searcher    Yahoo!JAPAN    戻る    総目次に戻る