|
|
|
日本史の中で短期間に記録に残るこれだけの人間を斬ったのは
倉敷・浅尾事件であろう。 参加隊士の処刑は斬首であった。刀はよく斬れたのか。
答えは否。 隊士の首はそのほとんどを藤井関次郎一人が斬った。数十人の御仕置道具(刀)が
不足したと記録にある。 慶応2年5月3日、午前中に3人。午後14人。計17人のうち15人を
関次郎が斬った。 --- 記録から --- 一札銀百目 研師 芳川国蔵 右此度、第二奇兵隊暴動人御仕置被仰付候付、上ノ関 其外被差出候処、数拾人之御仕置道具不足ニ付、自 分刀持参御問を合せ、尚現場ニおゐて諸事御問欠無之 様、精々遂心配業筋心掛宜候付、為御褒美通被遣之候事、 行間から数人を斬ったところで日本刀が使い物にならなくなった。(御仕置道具不足) すなわち刀は思うほどの耐久性と強度を持っていない。 据え斬りでそうなのだから 乱戦で甲冑着用者同志が刀を振り回しても直ぐさま使用不能になることであろう。 文字通り刀折れ矢尽きとなる。 本事件で研師芳川国蔵は自分が所有する刀を何本も提供し、斬首の現場で不具合が発生したらすぐ対応した。よって藩政府から 札銀百目を事件後貰っている。 |
| 1.刀と戦闘 |
|
戦国時代の戦争(戦闘)で飛び道具は卑怯でもなんでもなかった。日本刀は折れやすく、
曲がり易く鍔ぜり合いの激闘に耐えられるものではなかった。
日本刀は束を両手で持つ構造になっている。自分でそのスタイルを取ってみたらすぐお分かりだが集団による乱戦に使える代物ではない。片手で振り回したら どうなるであろうか。よほどの腕力と筋力と体力がなければ相手に致命傷を与えることは不可能 に思える。 日本刀は戦闘武具としては失格なのである。 映画壬生義士伝を覚えておられるだろうか抜き身をひっさげ単身切り込んだ 吉村貫一郎の刀の刃先はぼろぼろとなり かつ曲つた状態で南部藩邸に転がり込んだ。映画表現でなくあれが現実であった。 よって戦国時代刀を振りかざした 白兵突撃など最初から行おうとする専制君主はだれもいなかった。重い甲冑を付け刀を 振り回したら10分で息が切れたであろう。また、能力のない主君は見捨てられる存在だったのである。 戦場では死傷がつきものである。誰でも死にたくはない。 よって飛び道具が戦場の主役であった。刀対刀の闘争は基本的に1対多数にはならない。一人を取り巻くことは出来るだろうが 腕と刀の長さの範囲内に入ることは危険極まりない。 また1対1だからどちらかが確実に死傷する。すなわち必然死傷が5分の割合で発生する。 イチかバチかの命の賭け事を好んでする者はいない。 あほらしくてそんな闘争はやっていられない。人は偶然死には寛容だが必然死傷には非寛容である。現代社会は車社会といわれている。 毎年1万人を超える厚生統計死が記録されている。確実に誰かが死んでいることになる。なぜ我々はそれを容認しているのであろうか? それは偶然死だからである。俺だけはその内には入らないと思っているいるから車社会を容認している。 戦国合戦で騎馬武者が刀を振り回している情況を思い浮かべるが、 まずそのような場面は無かった。第一馬の首が邪魔になり振り回せないのである。 戦国時代の戦闘も最初から近接戦は行わなかった。近接戦があったとしても鑓(槍以下この字を使わず鑓とする)対刀であった。 鑓は基本的に刺突武器である。振り回すことも可能だが 刀を持った相手を数人で取り囲み刺突すれば相互連携で味方の損傷は大幅に軽減されるはずである。 だが基本的に刺突武器でなく打撃武器であった。 |
| 2.戦場での攻撃武器は? |
|
戦場で飛び道具は卑怯でも何でもなかった。戦場の出番は、鉄炮(鉄砲以下この字を使わず鉄炮とする)射撃、弓矢攻撃、石などの石礫投擲、鑓襖攻撃であった。
鑓を除いて全て飛び道具の範疇に入る。 敵に更なる痛打(打撃)を与えることを 「二の矢を放つ」 といった。飛び道具が卑怯な武具ならこんな言葉生まれるはずもない。 戦闘で弓は15間(27m)、火縄銃30間(54m)の有効射程を誇った。 幕末ともなれば さらに飛び道具の独壇場になる。 幕末ミニエー銃の有効射程は100間(180m)に伸延した。 |
![]() |
左図は「謎とき日本合戦史:鈴木眞哉著」の受傷部位別である。飛び道具の受傷が72%。刀傷は4.8%にしか過ぎない。
戦国時代の戦場ではもっぱら飛び道具が使われた。飛び道具が戦場で卑怯な武器でもなんでもなかったのである。
何も好きこのんで1対1の刀戦は行わなかった。 幕末、鳥羽・伏見の戦い時、新選組は白刃を振りかざして薩長に襲いかかった。 少なくとも彼らは腕力(剣術)に 自信があったし戦闘(戦場)に飛び道具は卑怯と思い相手も卑怯な道具を使うはずもない。 そう思い込んでいたからこそ迷わず銃弾の前に身を投げ出したのである。 | |
| 無謀なことと分かっていたら銃弾に身を曝さなかったはずだ。 以降残存隊士たちはこんな馬鹿な消耗戦を行うことはなかった。 なにも新選組の隊士だけがそう思っていたのではない。第二次長州戦争に動員された 全国諸藩 も大同小異である。 新選組はこの戦訓から以降銃器携帯に踏み切る。卑怯と思われても簡単に死ぬよりよりましなのである。 会津藩の戦いは こちら。 |
| 3.鉄炮恐ろし 島原の乱 その後の歴史を変えた |
|
幕閣に衝撃が走った。大坂冬の陣(1614)の記憶が世に残っている寛永14年(1637)10月、数10人の浪人を加えた天草・島原の
百姓らが廃城であった原城に立て籠もった。籠城側 戦闘員1万4千人、非戦闘員1万3千人。
一方攻撃側は九州諸藩の兵を含め12万5千8百人。軍夫まで含めると最大26万人に達したという。
徳川幕府が揺籃期を過ぎ安定化に向かおうとした矢先にこの乱は発生した。 守城側は火縄銃を持ち込んでいた。攻撃側の数次にわたる攻撃を毎回跳ね返した。百姓 の放つ銃弾に手も足もでなかったのである。彼らは4ヶ月持ちこたえた。 そして食料、銃弾・火薬が枯渇したことで敗北した。 この一揆勢が更に多量の武器弾薬・食料を持ち込んでいたら 落城は先の先になったことであろう。銃撃戦が本格的組織的に使われた希有の例となった。 攻城側の戦死者1,900余名。 屍に屍が重なったという。 籠城はキリシタンの百姓だと伝えられているが真実ではない。苛政が生きる希望を失わせ絶望的な戦いに挺身したに過ぎない。 それを鉄炮が補強した。城郭に籠もる相手ほど攻めにくいことはない。最低でも三倍の兵力を必要とすると専門家はいうが この乱はその比ではない。 鉄炮の威力や凄まじである。 |
| 4.飛び道具は卑怯なり |
|
この乱後幕府は林羅山(1583〜1657)など御用学者を総動員し「飛び道具は卑怯なり」のキャッチフレーズを
考えだし武士と鉄炮の切り離しを図った。
「鉄炮は足軽の技でいやしくも武士の手にするものではない」 と喧伝し 「刀は武士の魂」と吹きまくった。
貞享4年(1687)、幕府は諸国鉄砲改めを命じた。
これを受けた各藩でも在方の鉄炮の規制を強め有害鳥獣駆除用(猟師鉄砲)で少数の保持しか許さなかった。
それさえ個人保持は許さず在方の責任者に預けさせた。また別に威し鉄砲(空砲発射の音だけ鉄砲)を許した。 |
![]() |
| 上表は「幕末瀬戸内農村における鉄砲売買の実態と特質」阿部英樹論文(中京大学経済学論叢13号)である。 |
|
18カ村2,534軒に実弾付き鉄炮は4挺しか存在しなかった。それほど鉄炮規制は徹底していた。
また別ページでも記述したように機械文明の発展を禁止した。 全てである。 天文12年(1543)最初の火縄銃が伝えられた。以来300余年も一切の改良改善もなく 続いた国は日本のみである。 各藩間の闘争も禁じたので侍が武官から文官に変身したのである。 刀を捨てた侍たち はこちら 保守性を堅持しさえさえすれば生活は保証された。 よって生活を便利に豊かにする必要性を全く感じなかった。 全人口の7〜8%の人口の武士が農民から収奪を続けられさえすれば子々孫々に至る まで生活が保証がされたのである。 よって強権を持ち続けるための最大の障害は 庶民たちの銃器による武装であった。 「入り鉄炮に出女」、すなわち江戸に鉄炮が入ることを極度に恐れ、人質の妻女が江戸 から脱出するのことに神経をとがらせた。 よって銃器保持と改善を一切禁止し、武士の銃離れを促進し「打捨て権」を付与した。 無礼という主観的判断での殺人を容認した。 一方刀はそれほどの打撃力を持っていなかったので庶民といえども旅行に護身用の脇差しは 許していた。 みごとなまでに幕府のこの目論見は成功し幕藩体制は揺るぎのないものとなった。 西欧が資本主義体制的膨張を続けなかったなら東洋の端っこである日本の体制は揺るぐことはなかったであろう。 嘉永6年(1853)、黒船来航の結果により下層武士階級の経済的困窮が惹起されなかったら 藩幕体制は今しばらく存続したことであろうことは容易に察しが付く。 幕府も侍に鉄炮を持たすことが出来なかった。 幕府は早い段階で軍制改革を行おうとした。文久3年(1863)2月歩兵屯所を開設した。 兵隊は石高に応じて旗本より提供させた。彼らの主君は旗本であり兵としての 連帯意識を醸し出すことが不可能であった。 だが一番の問題は士官が決定的に不足していた。 また、最後まで組織的士官教育が出来なかったし士官になろうとした者さえいなかった。すなわち 人間としての上昇志向そのものが存在しなかった。 詳しくは「幕府歩兵隊 野口武彦:著」を参照されたい。 --- 閑話休題--- 各藩とも正妻は江戸から離れることはなかった。嫁取りは近場で行ったことで藩同志の妻女は親戚関係と なってしまった。 参勤交代の制がくずれ帰藩となったとたんに妻女から大ブーイング。 彼女たちの故郷は江戸だったのだから。 浅尾藩主もしかり、旗本だったが石直しで大名になってしまった。 彼そのものの故郷は備中(総社市)でなく 江戸であった。 事変後処理を見届けるため備中浅尾に立ち寄った(帰藩にあらず)がすぐに引き返している。 |
| 5.武士は弱虫なり | ||
![]() |
攘夷戦の第一次報復として文久3年(1863)6月5日、フランス2艦左舷砲を使い下関の沿岸砲台を猛射。
やがて旗艦セミラミスから海兵250余名が前田村に上陸した。西欧列強の軍隊と史上
初めての地上戦が展開された。日頃威張り散らしている彼らが逃げまどう姿を庶民が目撃する。
沿岸砲台守備兵力は約千、自己戦力(武力)と列強軍事力の隔絶を知る。
前田砲台の地図での位置はこちら |
|
日頃大言壮語を吐き、刀は武士の魂などほざいたうえに威張り散らしていた。
彼らはさしたる武具を付けていない西洋人に対し近接戦に持ち込めば勝機ありと思っていた。
彼らに勝る勇気と日本刀の呪術に掛かっていた。 一旦戦端が開かれるや、
勇気などという資質は銃弾の前に吹き飛び醜態を曝した。 近接戦に持ち込む目論見など銃弾の前に
画餅と化した。 見苦しいまでにフランス兵の射程外に逃げさった。 第二次幕長戦争、広島口(小瀬川口)の彦根、高田藩兵。長州兵の放つミニエー銃の旋回弾は ピューンという飛翔音を発し耳元をかすめた。 その音を聞くなり戦意喪失二度と戦線に戻らなかった。 アウトレンジ。彦根の和筒は小便弾。更に相手に届かない。撃ちかける長州は遮蔽物利用や伏射である。 彦根は発砲の白煙でその所在を知るのみ。その場所に砲撃の集中打を浴びないために 次弾の発射は居場所を変えさせた。 それが小隊運動を行ってである。 軍記物の戦場とは訳が違った。 そして恐怖の極限状態が戦場に発生した。 彦根、榊原(高田)に心理的衝撃を与えたと考えられるもの、 維新団(被差別民)の兵団であった。人間とみなしていないさげすむ民の銃弾に打ち据えられた。 耐えられない 屈辱に違いなかった。 彼らは勇戦したと史書は伝える。 広島藩士は見た眼、堂々たる彦根の軍団が怯えたかのように敗走するさまを、「瞬念の間に両軍大敗」と記録した。 |
![]() |
|
当時長藩は大村益次郎を得ていたが和洋折衷の中途半端な状態であった。
益次郎らは西洋兵学教習所(博習堂)をつくり戦術論、兵站、砲術、戍営、航海、火薬学
など洋学基礎を教えつつあった。 弱い武士。その後の動きは速かった。翌々日7日
高杉晋作による庶民参加型の奇兵隊が誕生する。 軍事力を一挙に洋式化して行く。
馬関戦争(1863〜1864)において近代装備の西欧列強と戦った 長州は近代的兵制と装備でないと列強と戦えないことを知った。 一族郎党を引き連れ武器や装備を自己負担で近代戦闘に臨んでもまったく役 にたたないのである。西洋式兵制は武士の単身化を促進し個人の能力の時代に突入した。 大名家の軍事手段は各自の私物で構成されたが、 長州藩にあつては藩庫の一括管理となり鉄炮を携帯しない、また担がない戦闘員は無用となってしまった。 よって侍層が足軽の数百倍・数千倍の俸禄を食む理由が全く消滅してしまったのである。 そして、長州にあっては「飛び道具は卑怯なり」が消し飛んでしまった。鉄炮を持たない武士は無用の長物となってしまった。 長州にとって幸いだったのは他藩の武士が鉄炮を持とうとしなかったことである。鉄炮に興味も示さなかった。 文字通り 「飛び道具は卑怯なり」 であつた。 極めつけは慶応元年4月の段階で家臣団に伝家の甲冑、火縄銃を売り払えという指示を出している。 --- (回天史第五編第47章) --- 攘夷論者はアィデンティティとして日本刀の呪術にかかったが、全体からみれば少数派であった。 慶応3年(1867)から始まった戊辰戦争は文字通り飛び道具の戦いで、 誰もそれを使うことを卑怯と云わなかった。 日本刀が鉄砲に勝る利器という認識も持たなかった。 日露戦争も何とか解決した後、陸軍は、突然白兵主義を打ち出した。 古来我が国の戦闘方法は白兵主義であり、 白兵を操るのは、我が国民の特技だともいった。 国内だけの理論と行動だったら許せるが、西欧列強との戦闘にこれを展開した。 結果はご存知のとおりである。 |
| 6.長州の所持銃器 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
この銃口の前に幕兵、会津兵、新選組は立ち向かった。
単発前装銃でさえ刀槍だけの集団は全く歯が立たなかった。
ましてや集団間で日本刀を振りかざしての戦いなどどこにも存在しなかった。
所持している銃器の性能が戦闘局面に重大な影響を与えた。
幕末以前、日本戦争史の中で刀が歴史を塗り変えた事例は一度もなかった。
だが現在に至るまで日本刀は武具として完成され超一流の利器であるとの認識が一般的になっている。
信長以前も以降も日本刀が戦場の主役の座であつた。との誤った認識が通用しているのではなかろうか。
倉敷・浅尾事件の隊士の斬首も度々刀に不具合が発生し、 多くの刀を変更しなればばならなかったことさえ信じて貰えないであろう。 首を斬りまくった藤井関次郎、市川忠平、内田九一と研師芳川国蔵の手当が同一の銀百目である。 斬首役と研師の貢献度が同一と藩政府は当初みていたことになる。 40人ものぼる斬首を一人でこなした藤井関次郎に対し、あんたこりゃー少ないよと感じたのか後に札銀三百目を追加して支給している。 |
|
維新初期長州藩所持施条銃数及び名称は次の出典による。 軍事史学・通巻49号第13巻第1号 南坊平造論文 注)同論文、表により銃数の差異あり 世界鉄砲史(上・下) 岩堂憲人:著 国書刊行会 南坊論文での銃名を鉄砲史により推定している。 |
|
戊辰戦争中に 新政府軍の主軸となった薩長土肥+芸藩ならびにその他動員された諸藩藩主の誰一人 、本来なら戦場に藩重臣が幕僚を従えて軍事統率者として 指揮を執らなければならないが 、そのような事態は一切発生しなかった。彼らが軍事的にいかに無能かを白日のもとに曝した。 新式西洋銃を巧みに操り戦場の主役となったのは下級武士たちであった。 旧来の権威の失墜、 それがやがて版籍奉還(藩財政破綻)、廃藩置県へと続く流れをもたらすに到った。 ちなみに、長州藩には一門六家と二家老があった。一門 三丘宍戸家・右田毛利家・ 厚狭毛利家・吉敷毛利家・阿川毛利家・大野毛利家。 二家老 須佐益田家・宇部福原家である。 この六家・二家老内にはそれぞれ5〜600人の陪臣、足軽、中間、小者などを抱えていたという。 この六家、二家老が兵を率い、もしくは指揮官となって前線に立つことはなかった。 長州に あっても軍事統率者として失格であった。 向上心を失っている彼らは逆に蚊帳の外に置かれた。 そのような状態にもかかわらず、東北諸藩は逃げまくりの 唐津藩世子小笠原長行を軍事参謀に据えている。 無能さ押して知るべし。 |
|
刀について詳しく知りたい方 鈴木眞哉(すずきまさや)著:[刀と首取り(平凡社新書)] [謎とき日本合戦史(講談社現代新書)] |
| 当サイトの写真その他記事内容等をご自身のサイトに掲載する場合管理者の了解を取って下さい。 | |
![]()
|
第二奇兵隊取材班 E-mail お問合せ、ご質問はこちらへ ADDRESS Kudamatu City S.K.P Version 1.00 (C)Copyright 1999/2001 |