徳山(現周南市)の史跡及び画像    第二奇兵隊の悲劇
出光興産徳山製油所蔵 徳山東部の風景

〔マツノ書店発行「徳山の風景」掲載〕
徳山藩士屋敷割図 天保12年(1841)頃
マツノ書店発行『徳山藩御家中屋敷絵図』
徳山市街図

【カシミールで作成】
益田右衛門介賜死位置表示座標
 N 34゚03'28.1"  E 131゚48'41.8"
現在益田賜死碑は画像の位置にあるが古図「惣持院」は画像の二番町交叉点右上あたりと考えられる。 惣持院も澄泉寺は共に明治4年に廃寺となった。
周南市文化会館がかつての徳山藩陣屋であった。同じく岩国で賜死させられた福原越後は徳山藩主の兄である。禁門の変の責任者の処断を支藩である徳山の地で行ったが幕府への 斬った首の持参は宗藩検断藤井関次郎が高森まで持参した。
国司信濃賜死位置座標
 N 34゚03'07.7"  E 131゚48'42.7"
信濃は航海遠略策の責任を取らされ自尽した長井雅楽の検視役を務めた。 長井の自尽は無様と伝えられ、信濃の自尽は見事な御最期と伝えられている。 割腹の短刀は臣佐々木祥一郎が採邑万倉から持ち来たったと伝えられている。
信濃はまず腹を左から真一文字に切り裂き、短刀を持ちかえ、右首から突き刺し、突き抜けた短刀の先に左手を添え気管を断ち切った。 白刃一閃、首は胴から離れた。一方自尽に立ち会った佐々木祥一郎は奇兵隊に属し、北越戦争を戦い抜き、理不尽な除隊宣告に諸隊叛乱に与し、明治三年三月二日吉敷郡柊長者原の刑場の露と消えた。

当サイトの写真その他記事内容等をご自身のサイトに掲載する場合管理者の了解を取って下さい。
第二奇兵隊取材班
E-mail   お問合せ、ご質問はこちらへ
ADDRESS Kudamatu City S.K.P
Version 1.00 (C)Copyright 1999/2001

JOY Searcher    Yahoo!JAPAN    総目次に戻る