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| 長州軍 石州口の死者 |
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| 戦闘での傷者は戦死者の3倍程度あるといわれているので、小倉口では動員兵力の4割400人 程度の戦死傷者が発生したものと考えられる。一方、大村指揮の石州口では実数13名である。 |
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益田市横田から現在の国道9号線はメーンでなく、
石見横田から多田峠を越え益田へと街道は延びる。ここに関門があった。 最初の組織的戦闘の始まる6日前、長州藩の密偵の
情報は刻々と前線本部へ届いている。 慶応2年6月11日付、「益田大田屋此日宿陣に相成 候人数、大田屋出店方え繰上け相成、明後13日三百人程大田屋方え弐ノ手宿陣に今四ツ時に 御引移り之事」 |
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「一、福山様三好御出立にて益田え御出張之飛脚来り」 「一、紀州様浜田え御入込 四千人程勢にて御出張」 「一、大本陣 万福寺 軍目付本陣 土田市三郎 一ノ手本陣 土田益次郎 二ノ手本陣 右田常左衛門 三ノ手 未ダ相決し不申」 以下、浜田藩が高津(益田)到着。 松江藩高津(益田)到着 6月12日、「幕府軍目付高津浦へ上下八人 軍監察として到着」などなど情報は筒抜けであった。 軍監察の着用陣羽織の色、紋まで報告されている。 長州は歴史に顕れない濃密な情報網を持っていたことがわかる。 ---- 参照:「大村益次郎史料(H12/3/10、内田伸編)」 --- |
| 最初の戦いは6月16日横田街道(石州街道)扇原関門(多田)で開始された。 この関門を岸静江国治(30)以下6名が農兵火縄銃隊を率いて守っていた。 岸は部下を福山藩に派遣。援兵を要請している。 戦意薄き福山は派兵を受け付けなかった。 岸は部下全員を待避させ鑓を片手に街道の真ん中に 「我命ある限り貴軍を阻止せん」として一歩も引かず長州兵と対峙した。 長州兵は岸との間を開け、銃撃を命じた。 岸は身に数発の銃弾を受け、地を叩くが如く前に倒れたと伝えられている。 | 扇原関門 岸静江国治戦死之地碑![]() |
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岸により進軍が少し遅れた。長州軍は多田村にとどまった。
浜田藩は岸に藩境守衛を命じたのか、単に監視せよと命じたのか、斥候だったのか定かではない。 長州隊の益田への進軍は西は現国道191号方向並びに柿本神社と南現国道9号線方面に限定される。 当然各方面に斥候が派遣されたと考えるのが順当であろう。 岸静江が死して名を残すことになったのはその生き様であった。 蛮勇にみえるその行為の底に 「唯今がその時、その時が唯今なり」 の名を惜しんだ彼の姿に任務を全うする者の凛とした雄々しさが我々に切なさとともになぜか爽やかな感動を与える。 長州軍も岸に最大の敬意を表しその死を惜しんだ。 戊辰戦争が始まった慶応3年(1867)6月16日木梨精一郎指揮の常州方面軍の上陸に際し、 勿来(なこそ)関付近の隘口を守備していた、仙台藩大江久左衛門指揮の兵五十。 1発の弾丸を発射することなく逃れさったとあり。 どうしても石州口岸静江と勿来関大江久左衛門と較べてしまう。 |
![]() | 当時萬福寺は浜田兵が守備していた。この寺南面は益田川である。 現在も井堰(いで、河堤)が築堤されているが大村の作戦図にもこの河堤が記載されている。 この河堤対岸あたりに代官所があった。 対岸より長州が撃ち込んだと伝えられる銃弾痕が本殿の柱に2発残っている。 現在は木栓で養生されている。 ノギスで直径を測ったら16.2mmあった。 |
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倉敷の第二奇兵隊
遺棄銃弾径は筆者の計測で16.5mmであったので確実に発射銃が違う。
大村資料でピストルについて乙の玉、丙の玉があり口径が違うことがわかっている。 当時、大村が各種武器の発注担当者であったが彼の残された断簡ではミネーとかミネーケベル、またフロイセンなどの記述がある。 弾丸とおぼしきものに鉛拾匁(37.5g)玉 三拾ウ。 鉛六匁(22.5g)玉 百五拾ウ の記述。 更に拾匁筒などとあり確実に口径の違う小銃が存在する。 更に360発入り銃弾箱と350発入り銃弾箱があった。 拾匁玉で360発で13.5Kg。 一会戦に各人30発携行させた。 よって兵士1,000人だと一会戦弾丸重量は1.125トンである。 補給も大変であった。 本堂の柱の銃弾痕高さ1.7m。 GL(グランドレベル)からだと2.7m。 とんだ外れ弾である。 代官所の裏、すなわち益田川面に畠があった。 大村の作戦図でここから萬福寺への射撃となったことが知られている。 このとんでもない外れ弾があったことで銃種の判別材料を提供してくれた。 蘭製ミニエー銃口径 16.6mm 米製ミニエー銃口径 14.5mm 英製ミニエー銃口径 14.66mm (エンフィールド銃) |
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岸静江国治ら石州口、鳥羽・伏見の戦いで殉難した藩士の殉難碑は作州津山(現津山市久米町桑下)に
ある。 岸静江が筆頭である。 益田の戦いで幕府軍は戦意喪失。雪崩を打って敗退した。 やがて
浜田城は自焼し降伏を表明。生き残った藩主・藩士は飛地であった作州鶴田に逃れ一藩を築いた。 慶応2年6月、第二次長州戦争石州口。長州軍の猛攻に耐えられず浜田藩主一同は海路漁船で脱出を図ったが漂流。たまたま通りかかった八雲丸二番に救助される。(1866/07/18) |
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藩主松平武聰(たけあきら、25)は、慶応3年(1867)3月26日、
大庄屋福原元太郎邸に入り、藩名を鶴田(たずた)藩と改めた。
藩士やその家族はそれぞれ近在の民家に寄寓し慣れない生活を始めた。作州移住後の生活は6万1千石の大名が8千3百石となり経済的に苦しい生活を強いられたことであろう。
慶応4年(1868)6月以降鶴田藩領となっていた久米北条郡桑下村内のこの地に新御殿は建設されることになった。 この御殿は小丘にあり西御殿と呼ばれている。 東御殿もあったそうだが現在そこは福祉施設が建設されている。 藩主武聰がこの新御殿に移ったのは年号も改まった明治4年(1871)6月のことであった。 しかしながら同月版籍奉還、翌7月14日廃藩置県の詔書が出され鶴田藩は消滅した。 翌8月23日武聡はこの地を離れ東京に旅立ち二度とこの地を 踏むことはなかった。 武聰がここに起居したのはわずか3ケ月であった。 参考までに、倉敷村児島屋植田武右衛門は、この鶴田藩に3万5千両の金を融通している。借金返済が滞り、明治に入って訴訟を起こされている。 この件、出典倉子城遺聞第一集(井上賢一)頁12 |
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