八.一八(8.18)政変と七卿の都落ち


〔八月十九日も翌廿日も雨だった〕
文久3年8月19日京都河原町長州藩邸に駆け込んだ七卿は京を脱出、七卿とは、三条實美、東久世道禧、三条西季、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、澤宣嘉の七人の公卿。  長州方の手引きにより、夜来の雨を衝いて京都を脱出し、 八月二十二日午後四時頃兵庫を出航した一番船に三条実美。二番船に三条西季知・壬生基修・四条隆謌・ 錦小路頼徳。三番船に東久世通禧・沢 宣嘉が乗り込んだ。
 
三隻とも山口県防府市三田尻港へ直行するはずだったが海路山口県に入った頃から海は大時化となり三番船はかろうじて8月26日三田尻に着船したが、 一,二番船以下は下松市笠戸島に避港。翌日徳山東浜崎(現:周南市)に着いた。 そして陸路防府市三田尻に向かった。 現在、五(七)卿上陸地の近くに記念碑がある。
七卿を兵庫まで警護した責任者は益田右衛門介である。彼は、文久3(1863)年3月国元留守居役となり、7月上京して攘夷親征を建議すると、朝廷はこれを容れて大和行幸の勅を発したが、佐幕派の阻止によって8月18日の政変となり、長州藩は堺町御門の警衛を解任され、三条実美ら七卿を伴って兵庫に下った。 右衛門介はその地で七卿と別れ、京都の動静を探るため僅かな供回りと久坂玄瑞・佐々木男也(おなり)を伴って浪華に引き返す。
長州は潤沢な資金を使って公卿を抱き込み、朝政(孝明天皇)を恣にせんとしていた。天皇も極端なほどの夷人嫌い。長州も攘夷勢力が藩政の主導権を握っていたのである。都脱出せざるを得なかった公卿は端的な表現だと買収されていたのである。
八月十九日、小雨から大雨となる。。卯の刻(06:00)頃、七卿らは益田右衛門介の警護で京都大仏発した。廿日は前日より風雨も強くなった。台風の時期にあたり、熱帯性低気圧が接近していたのかも知れない。 廿一日朝雨、西宮で楠公墳墓に詣でる。三更(真夜中頃)諸卿乗船。この日風を得ず乗船したまま一泊した。廿二日須磨、明石を過ぎる。廿三日備後牛窓。廿四日午後備後鞆の浦。廿五日午刻備後国三原,糸崎などに上陸。 廿六日昨夜来風不順。海激涛大なる。防州室津港入港。上陸し一商家に入り休息。結髪入湯す。室津人家やや多く茅・葦破戸。午後室津港を出る。廿七日巳刻(10:00)頃徳山接岸。毛利淡路守で昼食。卿ら駕籠を賜り、夕飯は福川駅。食事後そのまま三田尻御茶屋着。
 五卿上陸の碑
七卿のその後
一旦三田尻の招賢閣(御茶屋・防府市お茶屋町10番21号)に入る。その護衛のため結成間もない奇兵隊が三田尻に転陣を命ぜられ九月二十五日に三田尻正福寺(山口県防府市お茶屋町7−26)に着した。
この地で、天誅組に続かんとして10月2日夜四つ(22:00)、澤宣嘉を盟主として奇兵隊総管河上弥一、白石廉作、伊藤百合五郎、長野熊之允、和田小伝二、小田村信之進、下瀬熊之進、井関英太郎・筑前平野次郎(国臣)などと脱走生野に奔った。こと志かなわず弥一、廉作ら自決。すなわち生野の変。 残るは六卿。
元治元年3月27日、六卿長府に入る。奇兵隊より木谷修蔵、能美兵蔵伺候。木谷は阿弥陀寺町までご案内。到着は夜五つ(20:00)頃。翌28日壇ノ浦台場など視察。
4月24日、錦小路頼徳吐血発病床に伏す。翌25日逝去す。遺体は山口へ。五卿となる。 元治元年11月17日夕、約二ヶ月間長府功山寺を宿舎とする。当時すでに政権は俗論派となっていた。
五卿が潜居した功山寺書院の間。
広さ:一の間 2.5間×2.5間 10帖
    二の間 2.5間×2.5間 10帖
    三の間 2.5間×1.0間  5帖
益田右衛門介(ますだ うえもんすけ)
 天保四年(1833)九月二日−元治元年(1864)十一月十一日
 長門国萩堀内。幕末の長州(萩)藩の家老。萩藩家老、須佐領主。
元治元(1864)年7月手兵を率いて上京した。 ついに禁門の変となり、一敗地にまみれ帰国して採邑地須佐に引取ったが、 政権を恭順派に握られ、八月福原、国司両家老と共に徳山藩へ御預けとなり、 惣持院(徳山市〔周南市〕毛利マンションの一角)に幽閉され、第一次長州征討に際し、幕府への謝罪のために三家老の一人として切腹させられた。年32。


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第二奇兵隊取材班
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