第二奇兵隊の悲劇 長州の軍制改革 戊辰前史に至る人物編

「海軍操練所(伝習所)第一期生」八十六人(各藩委託の若い藩士130余名)が到着したのは、 安政二年(1855)十月下旬だった。 操練所(伝習所)総督は永井尚志(Nagai Naomune・第二次幕長戦争詰問使)、その補佐ともなる「艦長候補」は三人いた。そのうち永持亨次郎(ながもち・こうじろう)は、 新たな職務を命じられて、途中で江戸へ呼び戻されるが、 矢田堀景蔵と勝麟太郎(海舟)は、伝習生を取りまとめる学生長も兼務した。
【来原良蔵】

世田谷松陰神社墓 (注-2)
来原良蔵は安政5年(1858)12月御手当方内用掛となり、長崎へ出張して長崎海軍伝習に参加。 安政6年(1859)年9月明倫館助教兼兵学科総督(注-1)となり、 山田亦介と軍制改革に尽した。また、長州藩の西洋式銃陣操練に当たり、 保守派(旧来の銃砲、弓、鑓、兵術家)の妨害にあいつつ、 軍制規則制定、教練の実行などに功績を挙げた。
 また西洋銃陣の改革のため万延元年(1860)5月帰萩し、9月御手当御内用掛として明倫館助教を兼ねた。
 文久2(1862)年正月徳地宰判の民情を視察、2月公武周旋のため熊本と鹿児島へ出張、 3月上京して留まり、長井雅楽(航海援略説)を除くため奔走した。  同年8月江戸に行って横浜の外国公使館の襲撃を謀ったが失敗、 藩世子に過激をいさめられ、また幕府より長井雅楽の航海遠略策に賛同したと批判される。
よって、長州江戸藩邸(桜田)の自室で憤死(08/29)。  享年34。
余談だが、後の初代総理大臣となる伊藤博文は、 安政4年(1857)来原良蔵の配下となり、彼の薦めにより、吉田松陰の松下村塾に入塾する。 伊藤の転機は来原良蔵によりもたらされた。
遺体は、最初芝の青松寺(現:港区愛宕2丁目)に葬られたが、明治15年(1882)現:世田谷区若林の松陰神社境内に 改葬された。妻和田春子も同所。
(注-1)
長州藩の首相であった周布政之助は安政5年(1858)8月以降来原良蔵を筆頭に長崎オランダ教師団操練所(伝習所)へ陸軍二十二人,海軍十三人の中級家臣団を直伝習生徒として派遣した。 彼らは藩内和流の兵法家など保守派の抵抗を除きつつ、ついには藩をして西洋銃陣を採用せしめた。 万延2年(1861)2月、それまでの和銃を廃止し西洋銃に切り替えられた。 長州藩の軍政改革はまず中堅家臣団の教育意識改革があってなしえたといっても過言ではない。
(注-2)
世田谷松陰神社境内に第四大隊の招魂碑がある。第四大隊の出現は慶応元年(1865)10月5日の軍制改革により千石以上の家臣団の禄高に応じて兵賦を課した。これにより十五大隊が編成された。南大隊十二隊。北大隊三隊である。  この第四大隊は佐世仁蔵(3997石)三小隊,村上亀之助(2393石) 二小隊,村上河内(1655石) 一小隊である。
主たる給領地は
佐世仁蔵 上関宰判 田布施麻郷・小郡江崎・前大津槙村・先大津黄波戸
村上亀之助 大島宰判 屋代 伊保田・油宇等  両村上の石高は安政2年分限帳に基づく。
村上河内 大島宰判 和田・小泊等

北第四大隊〜北第六大隊の出現 はこちらを。
慶応3年(1867)2月17日で南十四,十五大隊,北第五,北第六大隊は解隊されている。(山口県史史料編幕末維新6 頁684上段)

【山田亦介】
 元治元年(1864)禁門の変によって幕府へ謝罪のため益田右衛門介(11/11)・ 国司信濃(11/11)・福原越後(11/12)の三家老賜死。  恭順(俗論・重商)派が藩政権を握ったため萩野山獄に入れられ、 12月16日高杉晋作決起の報が萩に伝わるや 19日松島剛蔵以下6人と共に斬殺(12/19)。  享年56。 墓、萩市東光寺

【松島剛蔵】
 長崎伝習生の一人。 後、航海術を修め長州藩海軍総督となる。元治元年(1864)禁門の変後 藩政権を手中にした恭順(俗論・重商)派により同年12月19日萩野山獄に斬られた。  亦介・剛蔵を含む7名の政務員助命嘆願に奇兵隊総管であった赤根武人は必死の折衝を行っていた。  高杉晋作による功山寺決起により赤根の努力は水泡に帰した。 ガチガチの攘夷派。  下関海峡では見境なく外国艦船を砲撃した。  享年40。 墓、萩市東光寺

【長崎海軍操練所(伝習所)】
 安政2年(1855)に徳川幕府が海軍士官養成のため長崎に設立した教育機関。 幕臣や雄藩藩士から選抜して、オランダ人教師によって 西洋技術・航海術・蘭学・諸科学などを学ばせた。  第1期生は幕府出身者37名と他藩123名 (薩摩藩、鹿児島16名・肥後藩、熊本5名・筑前藩、福岡28名・長州藩、山口10名 ・肥前藩、佐賀47名・津藩、三重12名・備後藩、福山4名・掛川藩、静岡1名) に及んだ。  西欧化の権現佐賀藩の意気込みは47名に及ぶ生徒を送り込んだ。
永井尚志(なおゆき・総監理)の発議だと伝えられているが、幕臣を除く諸藩士は同一の教室で学んだ。
幕府はオランダから咸臨、朝陽。佐賀藩は電流丸を購入。   これら3艦は姉妹艦(625t、推進:スクリュー)
長崎県庁が長崎海軍操練所(伝習所)である。
なお、安政6年(1859)2月、経費が嵩みすぎるという理由で長崎操練所は廃止され、同年7月江戸築地南小田原町の講武所内で再開された。

【リッダー・ホイセン・フォン・カッテンダイケ】
(Willem Johan Cornelis Ridder Huijssen van Kattendijke、1816年 - 1866年)
 着任時オランダ海軍中尉。政治家。カッテンディーケとも表記される。 安政4年(1857)9月21日、幕末に徳川幕府が発注した軍艦ヤーパン号 (後の咸臨)を長崎に回航し、幕府が開いた長崎海軍操練所(伝習所)の 第一次教官ペルス・ライケンの後任として第二次教官となる。  勝海舟などの幕臣に精力的に航海術・砲術・測量術などの近代海軍の教育を行う。 安政6年(1859)2月長崎海軍操練所(伝習所)は閉鎖となり帰国。  1861年オランダ海軍大臣となり、一時は外務大臣も兼任した。
 勝海舟は成績が悪かったのか最後までここにとどまった。  勝の長崎での住居はJR長崎駅よりほぼ北東 坂を登って 徒歩4分程度の本蓮寺入口に「勝海舟寓居の地」の石碑がある。 俗に長崎市は坂バカ、墓バカ、祭りバカと 称されるように坂は地形的にしかたないにしても墓は馬鹿に多く目につく。
なお、海軍操練所(伝習所)は安政2年(1855)秋、和蘭(オランダ)より派遣されたペルス・ライケン中佐 以下の海軍軍人が教師団である。実習練習船は同国より贈呈された観光(スムービング)でなされた。

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第二奇兵隊取材班
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