|
|
| 江戸藩邸没収事件前史 |
|
文久三年(1863)8月18日の政変は、御所内の尊攘激派と長州藩を京都から追放する政変劇でる。
この政変による尊王攘夷派の政治的敗北後、翌元治元年(1864)一橋、会津、越前、土佐、宇和島、薩摩による参与会議が置かれた。形の上では、政権内部の最左翼勢力を追放した一時的安定期であるとみることができるだろう。しかし、実際には参与会議内部における一橋慶喜と島津久光の間の開港をめぐる政策的対立は深く、孝明天皇の強い開国反対の表明もあいまって、会議は二か月ほどで消滅したとされ、三月以後、元治元年はいわゆる「一会桑」(一橋慶喜禁裏守衛総督、松平容保京都守護職、松平定敬京都所司代)政権の時期へと移行していく。
もはや、長州の京都における政治的進出は絶望的状態となった。
長州では、攘夷急先鋒の久坂玄瑞や来島又兵衛らは鬱屈した緊張状態にあった。そうした中で、翌元治元年(1864)6月5日新選組による池田屋事件が発生する。吉田稔麿は遭難し、桂小五郎は難を逃れた。その状況が長州に伝わるや、一藩狂乱状況が出現し、大挙挙兵上京する。これにより発生したのがいわゆる、禁門の変(蛤御門の変・元治元年7月19日)。 一敗地にまみれた長州に対する制裁の一環が長州江戸藩邸没収事件である。 |
| 失われた記憶 長州江戸藩邸没収事件死者の墓所(追悼碑) |
![]() ![]() |
世田谷松陰神社烈士の墓域内に48人の名を連刻した追悼碑が建っている。
碑面に何を追悼し、また彼らが何によって死んだものかわからないまま今日に至った。
松陰神社もわからないまま、祭りだけは行われてきた。 防長回天史で長州江戸藩邸没収事件の犠牲者51人に及ぶとあるが葬った場所は不明となっていた。 記録で伝叟院に葬となっているが、 院そのものが、関東大震災と先の太平洋戦争と二度に及び損壊を受け諸記録が亡失してしまったのだ。 実は、長州桜田藩邸(上屋敷)は日比谷公園の一角にあった。そして、 近くの愛宕山(NHK放送博物館の場所)の東面に清岸院・伝叟院・青松寺など五寺がまとまった地域がある。 明治20年の東京実測図で道路に面し清岸院・伝叟院となっているが、 現在清岸院は青松寺の裏手高台に移動している。 |
![]() 清岸院 |
![]() 青松寺 | ![]() 伝叟院 愛宕2丁目3番4号 |
|
江戸藩邸で、文久2年(1862)8月29日自刃した来原良蔵も当初はこの地の青松寺に葬られている。
中谷正亮も文久2年閏8月8日に病死しているが
彼は清岸院に葬られた。 先述したように災禍と寺域の変動とで伝叟院の位置も若干変更され、
その関係もあってか事件関係者の墓所が記憶から失われてしまった。
更に、明治15年現世田谷区に松陰神社が建立されたとき、来原、中谷らの 改葬では墓面にその姓名を記したことで記憶の亡失問題発生しなかったが、 48人連刻の墓碑(追悼碑)には何の表記もなく 人々の記憶から完全に失われてしまった。 2000年8月に発刊された「幕末維新江戸東京史跡事典(新人物往来社)」でも幕府との戦争などで 死亡した藩士たちの追悼碑なのだろう。としている。 |
![]() |
没収事件の犠牲者が頭から離れなかった筆者は、伝叟院・高岸孝道師との書簡のやり取りの中で、師は
持ち前の好奇心と行動力と地の利を活かし、史料や資料の収集をなさって下さった。 そのなかで松陰神社の一角に
意味不明の48人の姓名と没年を連刻した追悼碑があることを発見して頂いた。
'06年12月17日、空路羽田に入りその足で松陰神社に向かった。 没収事件犠牲者の名を碑面に発見し 感動が止まらなくなった。 |
| 45人。若干名没年の違いがあるももの全員が手持ちの資料と合致。間違いなく 事件関係者の追悼碑であることが判明した。 |
|
長州藩は東京都千代田区内に上屋敷(桜田・日比谷公園北部)、下屋敷(龍土・麻布)、中屋敷(砂村・現江東区内)を所有していた。世田谷区若林に
抱屋敷もあった。 没収は7月26日に決行されたが、更にこれら家屋の破却まで行った。8月7日、
廷内に残された蓄え金や米穀を新シ橋の籾蔵へ移送し、翌8日から町火消しらによって解体作業を行った。
連日、早朝から作業が行われ8月26日に全ての破却が完了している。 藩邸内にあった文物書籍は
越中島で焚棄し木材は風呂屋に下された。 実際の破却は8日から実施されたが翌9日朝より風雨激しく、上屋敷(桜田)の鎮守稲荷祠の取り壊しにかかる頃、俄に風雨激しくなり諸人みな恐怖したと伝えられている。 |
|
|
![]() |
| 神社内烈士墓域内 向かって右端の一段高い墓が事件関係者刻名墓 中央吉田松陰墓 刻名は三段。一段16人。 姓名と没年。 刻名順の基準は解らない。 |
| 元治元年長州江戸藩邸没収事件(死者の内、松陰神社墓石記名者) |
| 碑 上段 | No | 元号 | 年・月・日 | 月・日 | 預け先等 | 所属 | 姓名 | 年齢 | 1 | 無記載 | 中谷正亮 | 2 | 〃 | 脇屋卯三郎 | 3 | 〃 | 津山 萬 |
![]() |
注)上表、三人の内中谷正亮は没収事件と無関係である。 ←左は、中谷正亮の墓。 脇屋卯三郎 豊浦郡清末商人。元治元年10月19日伝馬町に自裁。幕府旗本ともある。 津山 萬は鳥取藩士の須山万十千と同一人物か。没収事件に批判的で元治元年11月8日伝馬町で斬刑に処された。 享年23。 |
| 墓石は全て年号元治としてある。 慶応は「慶喜」に応ずるとして長州では使わない例多し。 墓石には上表3人と下表45人 計48人が刻名されている。 上、中、下各段16人 但し、中谷は全く無関係。脇谷、津山については事件関連者で真の事件関係者は刻名中次の45人である。 |
| 碑 上段 | No | 元号 | 年・月・日 | 月・日 | 預け先等 | 所属 | 姓名 | 年齢 | 1 | 慶応2年 | 1866.01.20 | 01.20 | 不明 | 八組士 右筆役 | 神田源八 | 50 | 2 | 慶応元年 | 1865.06.05 | 06.05 | 水野出羽守 | 遠近付用法検使 | 安間恒充 | 46 | 3 | 〃 | 1865.06.03 | 06.03 | 戸田淡路守 | 無給通士 本締役 | 吉田七兵衛 | 27 | 4 | 〃 | 1865.07.03 | 07.03 | 山口長治郎 | 徒士留守居筆者役 | 山田清太郎 | 25 | 5 | 〃 | 1865.05.14 | 05.14 | 戸田淡路守 | 来栖源兵衛組 | 尾上作兵衛 | 6 | 元治元年 | 1864.09.06 | 09.06 | 大田惣次郎 | 仲取方手子 | 杉 権之進 | 7 | 慶応元年 | 1865.09.19 | 09.19 | 戸田淡路守 | 藤田小源太組 | 布谷左兵衛 | 8 | 〃 | 1865.01.11 | 01.11 | 大田惣次郎 | 御銀方手子 | 塩見与惣 | 9 | 〃 | 1865.10.01 | 10.01 | 戸田淡路守 | 小方孫七郎組 | 伊藤久平 | 10 | 慶応2年 | 1866.05.21 | 05.21 | 〃 | 中村竹次郎組 | 吉田松之進 | 11 | 慶応元年 | 1865.08.07 | 08.07 | 水野出羽守 | 木原半蔵組 | 中津彌十郎 | 12 | 〃 | 1865.10.21 | 10.21 | 津軽越中守 | 藤田小源太組 | 有田吉兵衛 | 13 | 〃 | 1865.01.10 | 01.10 | 大田惣次郎 | 勘定方小遣 | 今井市郎 |
| 碑 中段 | No | 元号 | 年・月・日 | 月・日 | 預け先等 | 所属 | 姓名 | 年齢 | 14 | 慶応元年 | 1865.04.02 | 04.02 | 大田惣次郎 | 北村卯之助組 | 横田勝兵衛 | 15 | 〃 | 1865.04.29 | 04.29 | 〃 | 三浦新次郎組 | 藤村駒吉 | 41 | 16 | 〃 | 1865.05.02 | 閏 | 05.02 | 〃 | 御蔵本付 | 林 重蔵 | 17 | 〃 | 1865.05.25 | 05.25 | 〃 | 蔵掛市之進組代勤 | 大田孫蔵 | 18 | 〃 | 1865.06.04 | 06.04 | 〃 | 中間 | 浜田平吉 | 51 | 19 | 〃 | 1865.05.24 | 05.24 | 〃 | 蔵掛市之進組代勤 | 友谷八郎 | 56 | 20 | 〃 | 1865.05.27 | 05.27 | 〃 | 不明 | 邨 清五郎 | 21 | 〃 | 1865.05.20 | 閏 | 05.20 | 〃 | 蔵本付 | 吉富勘作 | 22 | 〃 | 1866.05.23 | 閏 | 05.23 | 〃 | 山本帰一組代勤 | 中島伊左衛門 | 23 | 〃 | 1865.06.03 | 06.03 | 〃 | 蔵掛市之進組代勤 | 野上仙蔵 | 24 | 〃 | 1865.07.09 | 07.09 | 水野出羽守 | 村田武兵衛組 | 牧西仙之丞 | 25 | 〃 | 1865.07.09 | 07.09 | 戸田淡路守 | 山本帰一組代勤 | 藤田平兵衛 | 26 | 〃 | 1865.07.17 | 07.17 | 水野出羽守 | 山本帰一組代勤 | 松本百助 | 27 | 〃 | 1865.07.26 | 07.26 | 津軽越中守 | 地方組代勤 | 隅 友次郎 | 28 | 〃 | 1865.07.29 | 07.29 | 戸田淡路守 | 村田武兵衛組 | 田中儀兵衛 | 29 | 〃 | 1865.08.02 | 08.02 | 〃 | 村田武兵衛組 | 中村半兵衛 |
| 碑 下段 | No | 元号 | 年・月・日 | 月・日 | 預け先等 | 所属 | 姓名 | 年齢 | 30 | 慶応元年 | 1865.08.03 | 08.03 | 戸田淡路守 | 新六尺(足軽) | 伊藤源吉(郎) | 31 | 〃 | 1865.08.03 | 08.03 | 被捕 後死 | 村田武兵衛組 | 石丸愛蔵 | 32 | 〃 | 1865.08.04 | 08.04 | 津軽越中守 | 蔵掛市之進組代勤 | 松田勝蔵 | 47 | 33 | 〃 | 1865.08.10 | 08.10 | 水野出羽守 | 村田武兵衛組 | 明石彌兵衛 | 56 | 34 | 〃 | 1865.08.18 | 08.18 | 津軽越中守 | 村田武兵衛組 | 佐伯新八 | 35 | 〃 | 1865.08.25 | 08.25 | 戸田淡路守 | 蔵掛市之進組代勤 | 松本喜惣太(次) | 36 | 〃 | 1865.10.17 | 10.17 | 〃 | 地方代勤 | 井原五郎 | 37 | 〃 | 1865.11.17 | 11.17 | 水野出羽守 | 藤田小源太組 | 世良熊蔵 | 38 | 元治元年 | 1864.04.05 | 04.05 | 不明 | 不明 | 内村半次郎 | 39 | 〃 | 1864.08.04 | 08.04 | 大田惣次郎 | 細工人直吉弟 | 内田連次 | 40 | 慶応元年 | 1865.01.09 | 01.09 | 〃 | 新六尺(足軽) | 藤吉 | 41 | 元治元年 | 1864.08.04 | 08.04 | 〃 | 又者 | 与助 | 42 | 慶応元年 | 1865.08.29 | 08.29 | 戸田淡路守 | 佐々木権四郎組 | 藤十郎 | 43 | 元治元年 | 1864.10.09 | 10.09 | 大田惣次郎 | 村田武兵衛組 | 川村佐吉 | 44 | 〃 | 1864.11.01 | 10.11 | 〃 | 山本帰一組代勤 | 松原新兵衛 | 45 | 不明 | 徳山藩預病死 | 遠藤太市郎臣 | 原田九市 |
| 松陰神社単独墓 |
| No | 元号 | 年・月・日 | 月・日 | 預け先等 | 所属 | 姓名 | 年齢 | |
| 46 | 元治元年 | 1864.07.26 | 7.26 | 藩邸没収に憤激自殺 | 阿部治兵衛 | 綿貫直秀(治良助) | 29 |
![]() |
| 墓所不明人 |
| No | 元号 | 年・月・日 | 月・日 | 預け先等 | 所属 | 姓名 | 年齢 | |
| 47 | 元治元年 | 〃 | 大田惣次郎 | 村田武兵衛組 | 半蔵 | |||
| 48 | 〃 | 〃 | 不明 | 間半蔵中間 | 熊槌 | |||
| 49 | 〃 | 〃 | 不明 | 村田武兵衛組 | 松蔵 | |||
| 50 | 慶応元年 | 1865.10.12 | 10.12 | 戸田淡路守 | 今田忠左衛門組 | 幾之進 | ||
| 51 | 〃 | 1865.12.10 | 12.10 | 水野出羽守 | 山本帰一組代勤 | 岡本作兵衛 |
| 防長回天史の死者に含まれていない可能性者 |
| No | 元号 | 年・月・日 | 月・日 | 預け先等 | 所属 | 姓名 | 年齢 | |
| 52 | 不明 | 不明 | 逆井渡に被捕 | 不明 | 小兵衛 |
|
注)上の52人の死者の内、小兵衛(死亡月日不明)なる者が武州逆井渡にて捕まっている。 かれの消息は不明。かつ墓所も不明である。
よって各預り先の死者及び自殺の綿貫直秀を含め51人が死亡。
武州逆井渡 現在の江東区を流れていた川の渡渉点に逆井渡があったようだ。 |
拘禁先 水野出羽守は沼津藩 水野出羽守/五万石と思える。同じく 戸田淡路守は大垣新田藩 戸田淡路守/1万石であろう。 津軽越中守は弘前藩 津軽越中守/十万石か。その他維新史料綱要 巻六で確認できる藩邸員預け先は 慶応2年(1866)4月25日、幕府、 鳥取・ 高知・ 宇和島・ 府中・ 沼津・ 黒石・ 新見・ 館林・
安中・ 大洲・ 日出・ 佐野諸藩及び 大垣支藩・ 名古屋藩附家老竹越正奮に命じ、萩藩支藩江戸藩邸員を海路
広島に護送し、老中小笠原長行に引き渡す命令を出している。
世に知られていない事件だけにその概略を記す。禁門の変により禁裏に発砲したと言う理由で賊となった長州は各出先機関邸が没収された。長崎・大阪・京都藩邸などが没収される。 京都藩邸員は米沢藩の中老大滝新蔵の配慮により脱出できたが江戸藩邸没収の経緯は次のようなものだった。 幕府老中出羽山形主水野和泉守(忠精・ただきよ)は7月26日未明、 長州藩邸家老代理の波多野藤兵衛並びに留守居遠藤市太郎を召喚し藩邸没収を伝えた。 以後、庄内藩及び杵築藩の指示に従うことを厳命。翌27日諸藩の兵藩邸門外に群集し砲数十門を装置。 幕兵二大隊、山家藩(やまがはん)・宇和島藩の兵近隣雲州藩邸に陣し非常に備えさせた。 桜田邸の一角には孫藩清末藩父子も在していたが彼らには謹慎が命ぜられた。 長州支藩(長府・徳山)全てと吉川家江戸屋敷も没収の憂き目にあっている。 拘禁された人数について回天史で118人(自殺者を含む)としているが、 波多野藤兵衛の解放願書(慶応元年4月16日付)を出羽山形藩家臣金澤某に提出したが その書中拘禁者は116人とし、すでにその時点での死者四十三人に及ぶとしている。 遠藤市太郎によると士格以上は十七八。以下軽率百余人としている。女は三人。 森重百合蔵妻・林清蔵女・石川源七母。回天史も概要を伝えるが細部は不明多し。 どうも士格者は旧陸軍所に拘束された模様である。 時移り慶応2年(1866)夏。 広島に老中小笠原長行が小倉戦線の軍司令官とし離任したので、その後任として本荘宗秀(注2 丹後・宮津藩主) が着任。彼は、拘禁していた長州藩主名代宍戸備後助と小田村素太郎を釈放している。 そうした一連の流れの中で、かねてより拘禁している在江戸藩邸員の釈放がなされたと考えられる。それは、長藩正義派の懐柔策であろう。
「幕閣蓋し思うと所あり同年六月密に波多野以下生存者全部を6月中旬海路広島に護送し本藩に交付せらる。
と回天史は記す。
幕府側の記録と防長回天史の記録では1カ月違う。幕府は慶応2年(1866)5月18日。 「拘禁セシ萩藩・
同支藩・同支族ノ江戸藩邸吏員・家族ヲ広島ニ護送ス。是日、広島藩ニ命ジテ、之ヲ各其本藩ニ引渡ム。
尋デ、数次コノ事アリ。広島藩、之ヲ萩藩ニ護送引渡ス。」 藩邸没収事件で毛利支藩徳山藩吏員も拘禁された。 拘禁先は関東譜代大名であった館林藩秋元家である。実は徳山毛利家と秋元家は縁戚関係がある。徳山毛利八代目広鎮の室は館林秋元久朝の妹棄也子。その子元蕃(もとみつ)が最後の藩主である。 この親戚関係を幕閣は利用し三藩(館林・安中・新見)を代表し徳山に報知せしめた。『秋元事績』からその概況を示す。 是ヨリ先九月徳山侯宗家ニ連座シテ、官位ヲ削ラレ江戸ノ邸宅ヲ奪ハル。在府ノ臣下ヲ分テ弊藩安中新見三溝二幽囚セラル。 且此旨ヲ徳山へ可達ノ幕命アリ。毛利氏姻戚ナルヲ以也於是弊藩使節二名、勝沼精之允信紀、普賢寺武平ヲ周防徳山二遣ル二藩ノ使命ヲ兼〆。 十一月徳山ニ至ル。毛利淡路謹ミテ命ヲ受ルニ調印ノ請書ヲ以テス。 旬日両使復命ス。后チ丙寅五月ニ至リ、幕幽囚ノ輩ヲ防エ放タル。 因テ船路芸州エ送ルヘキノ旨也。弊藩ニテハ安館精相通称門追及卒三名ヲ以テ廣嶋エ護送シ、 在芸ノ幕吏二達シテ皈ル。時二老中松平伯州格計指揮使トシテ廣嶋ニアリ。 三藩に拘禁されていた徳山藩士らは慶応二年五月館林藩によって海路広島まで送り届けている。 |
|
注) 第二次長州戦争の勃発は慶応2年6月7日、幕府軍艦による上関宰判室津及び大島宰判安下庄、油宇村などの艦砲射撃で始まった。 長州側史料として「毛利家乗 長府毛利家編(防長史料出版社・1975年)」に「慶応二年六月十日 江戸の囚人広島より帰る」とある。 |
水野忠精 (みずのただきよ/水野和泉守)
. 生没, 1832(天保3)-1884(明治17), 略歴, 江戸幕府老中、出羽山形藩主。 老中水野忠邦の長男。
老中在任期間 1862(文久2),3/15 ― 1866(慶応2),6/19
注1 脇屋卯三郎 記録では幕府旗本とある。文化14年(1817)生まれ。元豊浦郡清末商人ともある。 元治元年(1864)10月19日長州藩に内通の罪により伝馬町に自裁とある。歳四八。 松陰神社境内の追悼碑が建立された明治15年(1882)当時、追悼碑リストを作った人物らは卯三郎が江戸藩邸没収事件の犠牲者と思っていたのであろう。但し、防長回天史の死者51人には含まれていない。回天史編纂の末松博士は間違いなく除外している。 津山 萬 考 江戸藩邸没収事件に関連して元治元年(1864)11月8日 伝馬町において斬刑に処せられた鳥取藩士で須山萬十千の名がみえる。享年23。 追悼碑の没年なし書出から三人目の津山 萬なる人物と記録に残る須山萬十千は同一人物と思える。 のち、正五位を贈位されているので間違いないであろう。 この二人は広義で没収事件の犠牲者だろうが、追悼碑トップの中谷正亮がなぜ加えられたのであろうか。没年 文久2(1862)閏8月8日享年三十五 彼も贈位されている。 八組士市左衛門三男松三郎。 注2 本荘伯耆守宗秀 老中 元治元年(1864)8月18日〜慶応2年(1866)7月25日 京都府宮津市 宮津藩七万石 短期間ではあるが京都所司代も務めた。所司代任期 文久2年(1862)6月30日〜同年8月24日。 広島に拘束していた長州藩代表宍戸備後助・小田村素太郎らの独断釈放(慶応2年6月25日)を理由に解任された。 長州戦広島口総督徳川茂承(紀伊藩第14代藩主・もちつぐ 出自:伊予西条藩)も在広していたので 解放について話の一つくらいはしたであろう。 明治政府への銃砲報告 銃 ミニエー銃 600挺 カノン砲 41門 榴弾砲 1門 熊手砲 6門。 熊手砲と報告しているのは宮津藩以外には存在しない。 砲種不明。 |
![]()
|
第二奇兵隊取材班 E-mail お問合せ、ご質問はこちらへ ADDRESS Kudamatu City S.K.P Version 1.00 (C)Copyright 1999/2001 |