戊辰前史 長州藩の軍制改革と教育 第二奇兵隊の悲劇
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| 徳川500万石・旗本八万騎よく聞くフレーズである。 文久3年(1863)2月 将軍家茂上洛警備には 八万騎もいる幕臣でなく、市中の浪士(浪士組後の新選組)があたらねばならなかった。 幕府は潤沢な資金で当時の最新式武器の調達を行い、 西洋式軍事力増強に努めようとしたが、中堅士官教育に失敗している。 慶応2(1866)6月第二次幕長戦争で連戦連敗。 武器だけ揃えても人材不足でどうにもならなかった。 八万騎は消しゴムで消したように消えていた。 |
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武士は武官である。 260余年この国に戦争はなかった。 よって武官が堕落し文官くずれに成り下がっていた。 現在社会のように
統治者が庶民の暮らし向きや、インフラ整備などに資本を回す必要はなかった。 道路の先の主要河川に橋さえなかった。
領主は在地責任者を意のままに使い公租貢納を取り立てればよかった。 そして武士社会に二つの階級があった。
徒士と侍である。 先祖の勲功により固定的な家格と給与があった。 徒士は努力で侍になり得なかった。 また百姓も努力で侍になれる社会では全く無かった。
各階級には鉄のたががはめられたようになっていた。 生活を便利にする機械文明の改善は
一切禁止され改善など望むべくもなかった。 よってこれをなそうとする技術者を目指す者は誰もいなかった。
唯一風穴が開いていたのが医学であった。
医者と宗教家は住む世界が違う存在であるという社会の認識であった。 区界である。
一般庶民とは違う世界に住む生き物的存在であった。
よって、庶民の中で財力のある子弟は西欧医学(蘭学)をめざし、猛烈に勉強した。 幕末
錚々たる医学者(医家)を排出したのはそのためである。 医学を目指す者以外に人間としての
上昇機運そのものが存在しなかった。 苦学し学力をたかめたとて階級無変動で、苦学する一定期間の生計を保てる
財力は一般庶民にはなかった。 奨学制度など望むべくもなかった。
ないないづくしが幕藩体制であり社会のありようであった。 文政3年(1823)期、物価騰貴が発生しつつあった。 後の老中板倉勝静を出した 備中松山藩(高梁藩)の庶民に出された触れに 「平常は雑穀を食せ。 また諸役人が村へ出向いた時の賄いは質素にせよ。 違背ある場合処罰する。」 とある。 すなわち百姓の側に立った格好をしているが賄った側のみ罰するという。 賄賂を要求する 役人にどう抵抗しろというのだろうか。 また、物価安定策として賃金引き下げ凍結令をだしている。 だが商人にたいする物価引き下げ令を発令していない。 商人と藩の関係はすでに債務者と債権者の立場になてしまい、諸税徴税も規制も行えなかった。 抵抗するすべを持たない日雇いや買食い層に皺寄せ(しわよせ) を行った。 出典:高梁市史 P431〜 編 高梁市史編纂委員会 S.54/12/25 |
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天保(1830)に入ると全国的に凶作が続き公租担当の百姓の階層分解が顕著になった。
ひいてはこの影響が諸藩の下層武士の貧窮に帰結した。
やがて戊辰戦争(1868 - 1869)に積極的に関わっていく山形米沢藩にこんな記録がある。 文久2年(1862)11月25日、上杉斉憲、麻疹(はしか)流行且ツ物価騰貴セルヲ以テ、 藩士ノ貧窮者ニ恵恤(けいじゅつ、哀れんで恵みを施すこと)ス。 飯の食えない武士が発生している。 さらに慶応3年(1867)上杉斉憲、7月米価騰貴 糴米(てきまい)不足藩士困難ヲ慮リ(おもんばかり)、場ヲ上米蔵並ニ南町ニ置キ、時価糶米(ちょう・せり)ヲ計ラシム。 すなわち、米蔵の前と南町で米の相場(せり)をたてさせた。 藩士を養えない状態が出来した。 |
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【戊辰前史−T 洋学推進】 | |
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■ 嘉永5年(1852)松平容保会津藩を継ぐ。
■ 嘉永6年(1853)陰暦6月3日(07/08)、ペリーが黒船4隻を率いて江戸湾浦賀沖出現。 海防への関心が西洋兵学吸収の機運を高め洋学を教育政策上の基本とする。 | |
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■ 安政2年(1855)第一次研修生10名、幕府長崎海軍伝習所に派遣。 | |
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■ 安政5年(1858)5月、日米通商条約締結をめぐって激動する政局のなかで藩政改革要綱 を決定した。軍制改革、人材登用、 民政改革の政策を推進した。同年7月、山田亦介を総責任者とし来原良蔵(後、兵学科総督) ら総勢35名に及ぶ第二次研修生を長崎海軍伝習所(蘭、カッテンダイケ)に派遣。 長州藩西洋学所を設立。 | |
| ■ 安政5年(1858)11月、西洋学所の改革と整備を推進。 | |
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■ 安政6年(1859)6月、西洋学所建設工事の落成式が行われ長崎伝習生の帰国となった。 同年8月、西洋学所を博習堂などに改称。西洋兵学の研究・教育機関として 独立。この教師団は全員長崎伝習生らであった。 ■ 安政6年(1859)10月27日吉田松陰の刑死。 | |
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■ 万延元年(1860)、洋式軍艦の購入と建艦なにびに西洋銃陣の採用を決定。 旧来の和式兵術家の讒訴(ざんそ)を退けた。 すなわち旧来の兵(武)術家(銃砲、弓、鑓、刀)を否定した。 ■ 同年(1860)3月桜田門外の変で大老井伊直弼が水戸藩浪士に殺害された。 老中諸侯が尾張・紀伊両藩による水戸藩討伐を主張する。だが会津藩松平容保は 家臣秋月悌次郎らに幕府・水戸藩の周旋に当たらしめてこれを回避する。 ■ 文久2年(1862)会津藩松平容保 井伊暗殺後に朝廷や薩摩藩の後援で将軍後継となった一橋慶喜(徳川慶喜)、 政事総裁職となった福井藩主松平慶永らが 文久の幕政改革を開始すると、新設の幕政参与となる。 | |
| 【戊辰前史−U 軍事改革と教育】 | |
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■ 元治元年(1864)2月、それまでの兵学寮を兵学校とし同年4月、村田蔵六(大村益次郎)
を洋式陸軍士官養成総責任者とし、飛躍的発展を成し遂げた。
そして三兵塾(実技)と三兵科塾(理論)に分けた。 ■ 元治元年(1864)4月、会津容保京都守護職就任。 ■ 同年6月5日池田屋事件。 ■ 同年7月19日禁門の変(きんもんのへん) 会津藩、長州藩勢力排除に動いた。 |
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■ 慶応元年(1865)1月に大村益次郎(村田蔵六)は用務役軍政専務となり 彼をして軍事改革の中心者とし、藩政の中枢に名を連ねた。 桂小五郎(首相)、広沢真臣(国務大臣)らと改革を推進。彼に近代軍事力の創設全般を委ねた。 藩庁は金を出すが軍事に関して口(批判と注文)を一切出さなかったし出させなかった。 異論が発生するとこの件は「大村先生」に聞いてから結論をだしましょう。と言ったと伝えられている。 武備恭順。 幕府に恭順するよう見せかけ一方で斬新な軍事力と装備を拡充させようとしていた。 幕府が攻めて来れば受けて立つのみ。 藩内全戸に方針を明示した。 慶応2年6月7日幕府との戦争が始まるや 一揆多発藩の長州にあって一揆はかげをひそめた。 一方幕府方は長州攻撃に参加した各藩とも一揆に苦しめられ日本の歴史が始まって以来 最高の件数を示した。 |
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| 大村益次郎記述の断簡多数が残ってる。その中を整理したのが左表である。 トーマスグラバー は日本人の体格に合わせてか原材料や工作も楽な短ミニエー銃を高く売りつけている。 |
| 右表は南坊平造論文(明治維新全国諸藩の鉄砲戦力)を整理した。ミニエー銃種の詳細についてはわかっていない。またレカルツなる銃についても製造国や諸元が不明である。なお、大正3年(1914)陸軍砲工学校が教材として小銃弾丸一覧を編集したが、銃の外観など不明である。 |
![]() 【SMITH & WESSON 2 ARMY 32】 |
ミネール本込筒4挺118両の記述もあり元込銃(後装銃)なのか1挺29.5両である。 購入した銃器の代金15挺分270両を小山勘左衛門から受け取っている。そうなると1挺 18両だ。 別の頁に弐拾両 三文字屋 拾八両 前原彦太郎(一誠)とあり、18〜20両で販売している。 |
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戦場で使う武器は自分持ち。戦国以来の伝統のままである。
またピストル一挺を谷梅之助(高杉晋作)購入の記録もある。 晋作は上海で拳銃2挺購入し1挺は坂本龍馬
に進呈したが通説であるが、大村史料で谷梅之助以下7名に販売し代金45両。3人分不足の記録がある。
案外このピストルを龍馬が貰ったのかも知れない。 ピストル乙ノ玉弐百、丙ノ玉五百 内聞多弐百とあり
二種類の口径の違う弾丸があったことも分かり、その弾は井上聞多に渡されている。
また、丙ノ玉6茎(ケースの意か)試射の記録もある。 掲載のピストルは SMITH & WESSON 2 ARMY 32 口径 米国製6連発で晋作が2挺上海で購入し 1挺を坂本龍馬に譲ったと伝えられている。龍馬は一度これを使った。 このピストルは 晋作の遺品の中にあり靖国神社に寄託されたがWW2敗戦で米占領軍に接収され、所在不明となっている。 また、倉敷から立石孫一郎と一緒に帰還し生き残りを賭ける折衝を同行して行っていた 引頭兵吉の自決もピストルであった。六連発と検死記録にある。 | |
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■ 装備:坂本龍馬の斡旋により、英貿易商グラバーよりミニエー銃(前装式施条銃)4,30 0挺、ゲベール銃(前装式滑空銃)3,000挺購入。購入銃製造国は不明だが、倉敷・浅 尾暴動事件の遺棄銃弾口径からミニエー銃はオランダ製か?。 倉敷市福田地区(中畝6−1−20)の渡辺さん方に保存さいる 銃弾直径16.5mm。 ![]() 山口市鋳銭司郷土館展示のミニエー銃 |
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倉敷遺棄銃弾は筆者が実際にノギスで直径を計測した。 大村神社展示のミニエー銃は
資料館開設にあたり大阪の古物商から購入した。 筆者が無理を云って口径を計測して頂いたが
経年のサビで口径は真円でなかったが概ね16.6mm程度であった。
伝えられているミニエー輸入銃の口径で該当する生産国はオランダである。 参照:古銃辞典 所壮吉/著 |
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■ 伝家の甲冑火縄銃を売却し、輸入銃を18両で購入すべし。と伝達。
ミニエー、ゲベール銃以外に「カール筒」代百五両引当や、 フロイセン千五百挺 二万三千両 閏月七日注文、三十日後持参之約束などの記述もある。 「カール筒」はカラベイン→カービン銃のことか?。 |
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■ 組織:大村益次郎の構想では 諸組=長州藩では大組と称される武士団がいた。 この諸組で大略5大隊。 御船手を含めると12組あった。 寄組に次ぐ家格である。 諸家=給領地を持つ寄組と呼ばれる最上級のステータス (必ずしも全員高禄ではない)を持っていた 武士団(基本的には62家,但し兵賦を科したの千石以上)がいた。 彼らで16隊(北3大隊,南13大隊)。 諸隊=奇兵隊のように各階級混成隊で5大隊。 農兵隊=5大隊。 これらを基幹歩兵とし別に散兵を置くことにしている。 浩武隊、御徒士隊、剣鑓塾、漢学寮に 属するものを干城隊とした。 東光寺党(鎮静会議員)を基盤として結成されたのが干城隊である。 最終的には、家臣団隊、農商兵隊とにし一門・寄組の陪臣を銃卒二個大隊。 足軽・中間を装条銃隊(彼らは元もと百姓)とし再編を行う一方農商兵隊の隊員定員を 1,600名とし訓練・教育を兵学校の管理下に置き私的な軍事訓練を否定した。 すでに存在した奇兵隊など諸隊も正兵として 藩軍事組織に組入れた。 これにより、長州にあって鉄砲を持たない侍は必要なくなってしまった。中核となる諸組の 士官教育は大村益次郎が直々に教育にあたった。 幕藩体制の存続・維持の大前提は武士階級の経済的な収奪権と武力行使権であった。 民衆の日常から刀を取り上げ鉄砲を切り離し殺生与奪の権で統治した。 だが長州にあって 庶民も武力行使の中核に位置付けられたのである。 その意味で幕藩体制は崩壊の過程を歩き出した。 |
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【周東町正蓮寺蔵に残されている遊撃軍行進図】 山口県東部周東町には第二次幕長戦争(1866/06/07) で小瀬川口(広島県境)で中核として戦った遊撃隊が駐屯していた。 服装は紺色軍服、襠(まち)高袴に陣羽織。指揮官は乗馬。行進先頭には年少の鼓手が 調子をとっている。 軍服制定はこちら | |
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■ 士官教育:兵員指揮実習などの実技訓練は三兵塾で、理論面は三兵科塾で教育された。 学歴社会が長州で始まった。 下級武士が長崎海軍伝習所で学んだ。彼らの影響で下級武士の学力上昇機運が生じた。また 大村益次郎による軍事教育機関で小規模軍事組織(小隊長)の指揮官教育が軌道に乗った。すなわち 長州にあって学歴社会が発生した。 更に限定はされたものの軍事の底辺を支える兵に庶民の参入を許した。 ここでも底辺の人間としての上昇機運が発生した。 鉄のたがを嵌めたような 固定的身分制度が崩壊しつつあった。 すなわち出世不可能であった社会に自己の努力と才能による突破口が開かれたのである。 他藩既成の軍事力は侍に随順する家来で構成されていた。 兵力は私的構成員を肥大化し軍団とした。また、侍の外出には家来同伴が絶対条件であった。 よって均質同等の士官教育など望むべくもなかった。幕府はその財力を背景にフランスから 最新軍事装備と軍事顧問団を招聘したが、旗本といわれる本来武官たちに 人間としての上昇機運(教育向上)を最後まで醸し出すことが不可能であった。 幕府兵は旗本の石高により徴募された。よって自己の雇用主は旗本であり幕府とはなり得なかった。 軍事力に必要な兵の連帯感が希薄となってしまった。 |
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これらにより、士官、兵員教育。最新鋭銃器の購入と所持銃器の統一。軍役・軍制刷新 を成し遂げた。すなわち人、物、組織。を新しい革袋に入れることに成功した。 思うに、太陽系の地球が長州藩(毛利)であった。生命が宿るに丁度良い距離(外様、地 勢的位置)に太陽が、また丁度良い大きさ(石高、歳入)を保持していた。 |
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そして地球に生命を育む水があったように長州における水は益次郎であった。魚は小
さいながらも二度に及ぶ長崎伝習生たちがいた。益次郎という水を得た小魚は彼により
大魚となって軍事に命が吹き込まれた。前述した一連の時系列的軍事的な長州藩を概観
したが、なぜ長州藩にあってこれらのことが可能だったのか。 封建藩主にありがちな藩主主導の政治力学が長州に存在しなかったことが大きく寄与 している。政治力が藩主中軸でなく家臣が政治を行った事による。藩内の血を流すほど の派閥抗争があったものの長崎伝習生にみられる先進的教育を藩士が受けられたことが 大きく作用している。大村益次郎を受け入れられる環境が外堀から出来上がっていた。 下関海峡戦で世録の武士軍団の敗戦が侍の信用(軍事的)を失わせ、庶士混淆の奇兵隊が 善戦し政治中枢部に新軍事力に自信を与えた。 だがこの新しい力みなぎる惑星は 武備恭順から倒幕に梶を切ったのは慶応元年5月(1865)からであった。 その後の日本とって幸運であったことは、長州が引き起こした禁門の変(1864/07) により長州内の過激派(攘夷)急先鋒者が戦死するか一敗地にまみれ発言力が粗相した。 更にこの変により幕府による征長戦が行われることになり、 これを回避するために先のこの戦争を主導した責任者の切腹、 処刑(三家老、四参謀、七政務員)が行われた。 これは長州藩内の有力政治家が一掃された ことを意味する。 それらが桂小五郎(首相)や広沢真臣(国務大臣)に代表される 柔軟な考えの持ち主が藩政を掌握することにつながった。 |
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【松平容保】 美濃高須藩から会津松平家に養子に入った松平容保は嘉永5年(1852)会津藩を継ぐ。 一方長州では容保が家督相続した翌年ペリー来航を受けて藩士教育は洋学とすることを決定している。 さらに、翌々年長崎に海軍伝習所が開設され幕臣以外にも門戸が開かれると聞くや 直ぐさま研修生を派遣した。 万延元年(1860)西洋銃陣を採用するとともに洋式艦船の購入と建造を行った。その過程で 当然ながら旧来の兵学家の抵抗があったがそれを退けながら帰国した長崎海軍伝習生を藩の 要職に就任させた。 その時点で会津容保はまだ政治の表舞台にはなく雌伏のときを過ごしている。 容保が政治の表舞台に踊り出たのは将軍継嗣問題で揺れた文久2年(1862)であった。 肩書きは幕政参与。 長州藩は「洋学推進」を着々と進め発展期に入ろうとしている時期と重なる。 米国艦隊に太平の眠りを覚まされた時期、全国諸藩は西洋学と軍制について全く同じスタートラインに 立っていたのである。 だが、著者が会津藩士の系になる「会津戊辰史」にも軍制改革と装備内容について記載がみえない。 |
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