戊辰戦争 最終到達点 会津若松めざすは藩主松平容保の首一つ
この時代、戦略を理解出来たのは西軍大村益次郎と幕軍大鳥圭介以外は誰も いなかったのではなかろうか。 北越戦線の話はさておく。 まず攻防戦は白河城から始まった。主担は会津藩である。副担 は仙台藩といってよいだろう。閏4月20日以降初期東北列藩同盟の成立から白河城攻防戦が 始まった。まず最初の戦端は閏4月25日に開始された。
 何通りか考えられる。また二本松からの進撃ルートも やはり何通りか考えられたが、新政府軍は脇街道で手薄な母成峠を衝いた。 8月21日、母成峠の戦いで同盟軍を破り、40km余りを急進して 8月23日には若松城下に突入した。新政府軍の電撃的な侵攻の前に、 各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、 予備兵力であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。このとき、 西郷頼母邸では籠城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃し、 城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊士中二番隊の隊士は飯盛山で自刃した。
■ 会津若松への進撃ルート
1.日光口ルート
上野戦争で敗れた幕府大鳥圭介軍約1300名は会津西街道ルートで会津若松に入った。
2.茨城街道。国道294号線ルート
勢至堂峠(海抜750m)を通り猪苗代湖西岸を進み強清水で現在の磐越西線に至る。
3.二本松街道ルート
磐越西線ルートで猪苗代町に至る。
4.越後街道ルート
北越戦線に投入された部隊は概ねこのルートで会津若松に入った。
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■ 日光口の戦い
 会津地方南方の日光街道沿いでは、大鳥圭介率いる旧幕府軍伝習歩兵隊と会津藩家老の 山川大蔵とが防衛に当たっていた。閏4月21日と5月6日の今市攻略戦では今市の攻略に 失敗したが、その後は一進一退の戦いを続けていた。だが二本松が陥落すると 母成峠の防御に伝習歩兵隊を抽出し、新政府軍が若松城下に突入するに至って、 山川大蔵は戦線を放棄して若松城へ駆けつけた。山川大蔵は、 会津地方の伝統芸能である彼岸獅子のいでたちをすることで新政府軍の目を欺き、 包囲下の若松城への入城に成功したと伝えられる。
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慶応4年(1868)5月15日、折からの雨をついて上野彰義隊殲滅線が開始された。 彰義隊潰滅。   各藩手持ち蒸気艦船の 調整をすませた新政府軍は、徐々に結節点会津城下への路をたどった。 常州の諸藩は蹴散らされ その包囲網は刻一刻と会津城下へと迫った。  その頃北越戦線は膠着。
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第二奇兵隊取材班
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