幕末動乱における長州藩死者数並びに長州藩諸事変に関わった他藩人死者

文久3年8月、幕吏中根一之丞一行遭難 6人

慶応4年1月、鳥羽・伏見の戦い
所属:日付1/31/41/51/61/10 計
遊撃73   10
振武 161210
奇兵1 71 9
整武 4   4
第二 2   2
日新(岩国)   1 1
膺懲   1 1
夫卒 1   1
医師   1 1
 計811135239
  記録に残る隊別戦死者である。 振武隊は南園隊と義昌隊が合併。 整武隊は御楯隊と鴻城隊の合併。  北越戦時、第二奇兵隊と膺懲隊が合併し健武隊となった。 1月10日、振武隊の犠牲者は大坂城の事故である。
贈位者は振武隊1人。遊撃隊2人。膺懲隊1人。

この戦いで諸藩士、土佐藩後藤深造(26)、久留米藩宮田半四郎(33)が 戦いで亡くなった。宮田は1月3日伏見で傷つき3月10日 三田尻(山口県防府市)で死亡している。
幕末、戦いに臨んだ個々の青年たちの志はそれぞれ何だったのだろうか?。

長州、薩摩、土佐藩部隊と幕府軍、会津藩、桑名藩兵が鳥羽・伏見で兵火を交えた。当然新選組も戦いに加わり 痛打を浴びた。 幕府側は淀城で体制を整えようとしたが城門は固く閉ざされ大坂城に退く。 敗報に将軍慶喜は 1月8日、松平容保、定敬を引きつれ大坂湾に遊弋していた開陽丸で逃亡。 慶喜一行は10日夕浦賀に着港。  11日に品川に到着。 品川沖で一晩過ごし翌12日幕府海軍局となった浜御殿(現浜離宮庭園)に入った。
浜御殿で海軍奉行木村芥舟(摂津守)や勝海舟に後事を託しサッサと江戸城に向かっている。

戊辰戦争(北越・東北) 函館戦争(五稜郭の戦い)を含む
伝えられる戊辰戦争(含む北海道戦役・別名函館戦争)の死者3,588人。  その内、長州関係 467人
 戦没者比率 13.02%
    なを会津鶴ケ城陥落までの確認出来る長州藩関係者戦死者 389人
文久3年(1863)6月に産声をあげた長州奇兵隊は明治2年(1869) 5月18日の函館五稜郭の開城で 戈(ほこ)を収めた。  この栄光の歴史の長州諸隊は明治3年(1870)2月  帰還隊士処遇問題で大規模な反乱を起こした。  そして闘死及び斬首された者は141名の多きに達する。  そこには軍功を正当に評価されず単なる消耗品とみなされた兵士の怨念が渦巻いていた ことであろう。 栄光の奇兵隊は血にまみれてその7年の歴史に幕をおろした。
会津城下での戦いはこちら    東北諸藩の軍事力(武装・装備)    東北諸藩 米沢・仙台藩の戊辰戦争


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第二奇兵隊取材班
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