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| ■ 内訌事件前史 功山寺決起 | ||
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元治元年(1864)恭順派政権は諸隊に解散を命じた。11月25日奇兵隊総管赤根武人は参謀時山直八
(戊辰北越朝日山で戦死)をともない萩に赴いた。藩政府首脳と禁門の変時の七政務員助命と諸隊存続を
取り付けていた。 九州に亡命していた高杉晋作は密かに帰藩し武力蜂起を唱えた。 12月15日、 呼応者力士隊伊藤俊輔、遊撃隊石川小五郎らと藩出先機関新地会所襲撃。 功山寺(下関市・長府)から下関新地会所まで陸路約10Km | |
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元治元年(1864)7月23日、幕府から出された長州征伐の勅許を与えた。藩政府で失脚した高杉晋作は脱藩九州に
走った。 現状だと彼の出番はなかった。 結局イチかバチかの決起に走ったと筆者は思う。 彼が創った奇兵隊は
晋作の決起に反対し参加していない。
元治2年4月7日 慶応に改元。 元治は実質1年しかなかった。 元治元年に発生した主たる事件 * 3月、水戸天狗党挙兵 * 6月5日(1864年7月8日)、池田屋事件 * 7月19日(1864年8月20日)禁門の変 * 8月5日(1864年9月5日)四国連合艦隊下関砲撃事件 |
| 内訌事件(藩内権力闘争) | ||
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慶応元年(1865)〜慶応2年(1866)10月までの切腹、自決、斬罪、暗殺まで含め15名。
第二奇兵隊倉敷事件勃発時殺害された楢崎剛十郎はここに含めた。 前出、恭順派(萩軍)、正義派(諸隊)の確執と東光寺党(鎮静会議員)の動きについて 権現原暗殺事件で概略を記した。まず恭順派の12名は慶応元年(1865)2月14日政権中枢を罷免され四面楚歌の状態を打開せんとして 海路萩を脱出岩国の吉川家を頼ろうとし城下を抜けた。 | |
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隣国石州青原で捕らえられ萩に護送された。
東光寺党(鎮静会議員)は正義派(諸隊)からみて政敵にあたる恭順派の処断を強く求めてはいなかったが、
こと脱出に及んで流れがかわり恭順派と吏員は全員更迭された。 椋梨藤太(61)は死罪、
中川宇右衛門(61)は切腹。小倉五右衛門(50)・岡本吉之進(49)は自決。 そして正義派(諸隊)が政権を掌握する。
タイトル括弧で藩内権力闘争としたのはそのためである。 この中で東光寺党(鎮静会議員)を基盤として結成されたのが干城隊である。 士庶混淆の諸隊に対し侍のプライドを守ろうとした隊であった。 大村益次郎による 軍制改革(慶応元年5月27日〜)にあたって干城隊もその中に組み入れられた。 彼らの深層心理には外国艦隊との下関攘夷戦で失墜した強い武士の復権を目指していた。 やがて布達された伝家の鎧兜、火縄銃を売り払い鉄炮を買え(価格18〜20両程度)という指令に曲折はあるももの 従っている。 これらから派生した諸隊について機会があれば別項に譲る。 内訌の死者に加えた者に第三代奇兵隊総管であった赤祢武人。第二奇兵隊の楢崎剛十郎。 毛利一門大野毛利家(周防平生)井出孫太郎を含む。 長州藩にあって藩主の主導権の下に幕末を突き進んだのではなく暴力(軍事力、銃口)が その後の藩の進路を決めた。 そして対外的方針は「武備恭順」。 攘夷はかなぐり捨てた。 処刑さりた倉敷・浅尾暴動事件の 農兵は刑死する直前まで「攘夷」を捨ててはいなかったぞもし。 この関係で死者15人。 |
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ちなみに干城隊の心得の冒頭を記す 「干城は武士の職掌にして藩屏は我らの天職なり、忠節信義至当を得さるハ我らの失職にして、文武其道を得さるは武士の恥辱とす、其罪皆我等に帰するのミならす、遂に先祖を羞かしむるに至る」 馬関攘夷戦で逃げまどった大組(長州侍階級は上から、一門、準一門、寄組、大組)の連中はこれを聞いたとき恥ずかしかったに違いない。 これを藩主敬親・元徳の前で誓った。 注) 干城隊が再興なったのは慶応元年(1865)3月8日のことである。 佐世八十郎(前原一成・隊中頭取)、山内梅三郎(総督)。 前述干城隊心得発布は慶応元年(1865)5月25日である。 |
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■ 第二次幕長戦争が起きた政治的駆け引き |
| 第一次幕長戦争(禁門の変)の政治決着は藩兵を指揮した三家老の切腹で決着が付いたと諸藩は理解していた。 そうした中で長州藩内部の政治対立の結果三家老をして切腹せしめた恭順派(重商派)は内訌戦で敗北し 正義派(重農派)の政権となってしまった。だか彼らは決して倒幕が本旨と表明したこともなく、対外的には 「恭順」の姿勢を保っていた。 ところが一橋慶喜と会津容保は長州藩の内政問題を政治・軍事問題化 し、征伐を主張した。 当初諸藩は一会両者の進める政策に距離をおいたものの、 政治的力関係のなかでずるずると戦争に荷担してしまった。 ところがこうした容保の行動にまず国元の 宿老が異議を唱えた。 すなわち諸藩の大方は恭順の長州を討伐する大義名分に事欠いて、このままだと 長州の怨みを一身に蒙ることに危機感を表明したのであった。 ところが孝明天皇との政治取引で開国条約 勅許を引き出し、軍事面の第二次征長戦に弾みがついてしまった。 幕府の長州処分案を受諾しない場合 に戦争するというものであった。 これが慶応2年(1866)1月の段階であった。 詰問全権大使小笠原長行 が下阪し広島に向かった。 |
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長州ははじめから処分案を受諾する意思を毫も持っていなかった。 そして遂に6月7日、幕艦の砲撃で
戦いは始まった。 仕掛けられた戦いを長州は受けて立った。 四方向3,500名の兵(予備1,000名)が全敵10万人に負けなかった。 そしてこの一揆多発藩 の長州にあって一揆はかげをひそめた。考えられる理由。 おなじそこら辺の息子(庶民)が 武器を執って国境で攻め来る外敵(幕軍)に対峙している。すなわち戦争の緊迫感と一体感が醸し出されたのであろう。 さらに、久賀や安下庄では幕兵と松山兵が侵攻占拠し追い立てられてしまった。軍対軍の戦いでなく 外敵対庶民の戦いの要素を含んだところが大きかったと思える。 当面の不平不満のはけ口が一揆でなく 領内に攻め来る幕軍に向かった。 差別し続けられた被差別部落民までも銃をとって幕軍に立ち向かった。 また、藩庁も第二次幕長戦に臨んで長防士民合議書(宍戸備後助起草、戦争目的を説明) を全戸数に配布。万全な臨戦体制で臨んだ。封建体制の中にあって 戦争目的を百姓にまで文書で配布した政府は初めてであろう。 第二次幕長戦争死者261人 |
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続き 石州口の戦いはこちら 大村益次郎の戦略 長州藩の軍制改革 (軍事力) この戦争、軍制などはこちらで 世良修蔵の無念さはこちら 石州口の戦死者と万福寺の銃弾痕・鶴田藩(浜田藩) |
| 大村益次郎を責任者(用所役軍政専務)とした軍制改革の購入価格や各種銃器(ピストル)を 誰がどの程度の価格で買い取ったかなどの断簡を整理した 「大村益次郎史料 内田伸/編 H12.03/10 マツノ書店」 が刊行された。 興味ある方は一読をお奨めする。 |
| 大村益次郎が購入した銃器の価格 | |||||
| 銃種 | 挺数 | 洋銀 | 洋銀/挺 | 両/挺 | 1両 |
| 長ミニエー | 160 | 3,360 | 21 | 13.125 | |
| 短ミニエー | 60 | 1,440 | 24 | 15.000 | |
| ミニエー弾 | 50発 | ||||
| カラベイン | 49 | 2,450 | 50 | 31.250 | |
| 大型拳銃 | 33 | 20.625 | |||
| 小型拳銃 | 25 | 15.625 | |||
| マツノ書店刊 大村益次郎史料 内田伸/偏 2003.3.10発行 | |||||
![]() 画像下はトライゼライフルである。プロイセン製のボルトアクション。この銃も1,500購入 している。 |
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