長州藩恭順事件及び徳山内訌事件

恭順事件(禁門の変)
文久3年4月(1863)■ 徳川幕府、5月10日を攘夷期限と朝廷に上奏
  〃 5月(1863)■ 上奏を受けて長州下関にて外国船舶を砲撃(11日)
  〃 6月(1863)■ 長州、船舶砲撃に対し報復砲撃を受ける(1日)
元治元年6月(1864)■ 新選組による池田屋事件、吉田栄太郎(稔麿)討死(5日)
  〃 7月(1864)■ 禁門の変、長州軍敗退(19日)、政権椋梨ら重商派(俗論)誕生
  〃 8月(1864)■ 四國艦隊、文久3年の報復として下関砲台占領
  〃 〃 (1864)■ 幕府、禁門攻撃に対し第一次長州戦争発令

禁門の変の戦後処理内閣として、椋梨藤太に象徴される恭順派(俗論)政権が誕生した。 尊攘激派(久坂義助、来嶋又兵衛)による行動が長州藩をして破滅の淵に立たせたのである。 この内外の難局(外艦による下関砲撃、第一次長州戦争発令)を乗り切る方策として、 変に係わった軍事責任者の処断以外に誰が考えても、 取るべき有効な施策はなかったであろう。もしこの施策を反動、 亡国と云うならば、どのような対案があるであろうか。 軍事力は壊滅し装備は劣悪旧式であり三家老、四参謀らには申し訳ないが (申し訳では当人たちには誠にあい済まないけれど) これ以外の選択肢は考え難い。
三家老、四参謀切腹、名門清水清太郎(22、萩自邸)が賜死。 また、高杉決起の報復として七政務員が斬首された。 その中に軍制改革を精力的に進めていた山田亦介、松島剛蔵も含まれている。 なお、それに先立つ9月26日周布政之助(43、湯田自邸)の自決を含む。   その椋梨藤太(61)も慶応元年(1865)閏5月30日刑場の露と消えた。  三家老に自決を命じてから半年の命であった。
ちなみに、三家老、四参謀、七政務員の名を記す。
【三家老】
元治元年(1864)11月11日徳山(周南市)惣持院 (賜死) 益田右衛門介親施(ちかのぶ、32)
徳山(周南市)澄泉寺 (賜死) 国司信濃親相(ちかすけ、24)
元治元年(1864)11月12日 岩国竜護寺 (賜死) 福原越後元|(もとたけ、50)
 惣持院、澄泉寺 いずれも明治4年(1871)廃寺 惣持院・澄泉寺の古図はこちら
【四参謀】
元治元年(1864)11月12日 萩野山獄 (斬) 中村九郎(37)・佐久間佐兵衛(32)・宍戸九郎兵衛(左馬介)(61)
・竹内正兵衛(46)
【七政務員】
元治元年(1864)12月19日 萩野山獄 (斬) 楢崎弥八郎(28)・山田亦介(56)・大和国之助(30)
・前田孫右衛門(47)・松島剛蔵(40)・毛利登人(44)・渡辺内蔵太(29)
政務員は高杉晋作による下関新地会所攻撃に対する報復処刑であった。 続いて 元治元年(1864)12月25日萩自邸 (賜死) 寄組清水美作嫡子清水清太郎(22)   後清水美作は第二奇兵隊総督就任
長州藩の対外的、対内的混乱のなかで 旧来の門閥を含めた政治家たちが良くも悪くも一掃された。  藩政は慣例、前例を踏襲する ものであったが、外国折衝、国内政争(中央政界)への進出等などで宿老(門閥) などの石頭らの出番もなく発言力が全壊した。 そうした中で桂小五郎などに代表される 斬新な頭脳と思考力の持主が台頭してきた。
この関係の死者16人
徳山藩内訌事件
京都大学付属図書館蔵:徳山七士碑拓本  徳山藩は毛利(萩)藩の支藩の一つである。 本藩萩藩同様に政争が繰り返され保守派の富山源次郎が政権を掌握した。 ここにもご多分に漏れず親藩の政権交代における影響が現れた。 そして改革派とみなされた7人が殺害された。 その7名とは、、 児玉次郎彦(23)・江村彦之進(33)・河田佳蔵(23)・井上唯一(23)・本城 清(41)・ 浅見安之丞(33)・信田作太夫(41)の7人をさす。 まるでテレビドラマのような様相を呈した。 藩主は第9代・毛利元蕃(Motomitsu ・1816/07/25〜1884/07/22) 藩主兄は福原越後(家老、元治元年(1864)11月12日 禁門の変の責により賜死)である。 藩主の寵愛を受けた幾崎という女性を見つけ出し再び君側に侍らせて 富山源次郎は藩主の信任を得たといわれている。 歴史は女によって創られた。  この富山(宗藩保守派と気脈を通ず)政権打倒を企図したとみられた 徳山7士と呼ばれる人たちである。  彼らは富山源次郎一派の暗殺などをたくらむがことごとく失敗した。  まず、8月9日の夜、河田佳蔵(23)は同志と源次郎の居宅を襲撃。源次郎は 一撃を浴びたものの虎口を脱した。
計画が杜撰だったのだろう。逆に富山派は打って出た。 まず、児玉次郎彦(23)と江村彦之進(33)を暗殺(元治元年・1864/8/12)。  次に河田佳蔵(23)、井上唯一(23)らを捕らえ 斬(1864/10/24)に処した。 ここまでは眼には眼をである。 そして、本城 清(41)、浅見安之丞(33)、信田作太夫(41)らを 獄につないだ。  翌、慶応元年(1865)1月14日流刑が決まったと 新宮の浜(現;出光興産徳山製油所付近) に連れだし縊殺(絞殺)した。  姑息で陰険な殺し方である。 徳山藩の藩論が回復したのは、 本藩の宍戸備前(家老)と前原彦太郎(一誠)が 徳山藩主に強硬に詰め寄り、山崎隊注1(徳山藩)の軍事力を背景に 政権の交代を実現したからである。  徳山7士の石碑は、現在、児玉源太郎を祭る児玉神社にある。 徳山保守派はやがて「押隠居」や「遠慮」が命じられている。 本藩の保守派の面々が斬刑であったことと比較すれば、「寛刑」である。  ちなみに本城と江村は兄弟である。  なを、勝てば官軍の例にもれず彼ら7人は維新後全員贈位された。
本城清は江村の出である。彼は諱を素堂(1825〜1865)と云い儒学者であった。 やがて、 藩主世子元功(もとこと)の近侍となった。よって富山派にねらわれたのであろう。   詳細は徳山市史上巻(S59/01)を参照されたい。
注1 山崎隊
慶応元年(1865)4月徳山藩士民有志により編成。隊名の由来は新南陽山崎神社による。当初150人。後増加し230人となる。
慶応元年10月14日一度奇兵隊総管を務めた滝弥太郎へ徳山山崎隊総管仰付。
慶応2年(1966)2月2日集義隊(徳山藩)・荻野隊(本藩)と合併。指揮は徳山藩第10藩主 毛利元功(Motoisa) 続いて2月18日楢崎八十槌へ合併3隊の総管を仰付た。 2月21日富田政所善祟(宗)寺(浄土宗)に転陣。  但しそれぞれの隊名はしばらく残っていた。
6月28日集義隊・義昌隊・山崎隊を合併し斉武軍と唱えた。と伝えられている。
戊辰戦争では秋田・函館で戦っている。

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第二奇兵隊取材班
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