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幕末動乱における長州藩死者数並びに長州藩諸事変に関わった他藩人死者
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生野の変・加徳丸事件 【生野の変での自決、戦死】 文久3年(1863)10月14日 奇兵隊総管であった河上弥一とその一統。 河上弥一・白石廉作ほか8名、維新後全員贈位された。 事件は、同年8月の天誅組の変と連動して、福岡藩卒(士)の平野国臣ら過激尊攘派志士達が、七卿落ち (8.18政変で長州へ) した公卿の沢宣嘉を総裁として挙兵する。 農民・郷士に決起を呼びかけ、12日には生野幕府代官所(兵庫県生野町、銀山) を襲撃して占拠に成功するが、まもなく諸藩兵らによって鎮圧された。 この変の崩壊により、草もう決起による体制変革は不可能と知らしめた。 および上関宰判で発生した加徳丸事件(薩摩綿商殺害、大谷仲之進)を正当化 するため久坂義助(玄瑞)により大坂南御堂(東本願寺難波別院)前にて無理矢理自決させられた義勇隊員3名を含む。 その他坪井九右衛門など5名。 死者 計18人。 |
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加徳丸事件とは 死んで貰うやつ二人選べ。やつらを大坂で殺せ! 暗躍久坂玄瑞 |
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背景に八.一八政変(1863/08/18 薩摩・会津連携)で長州は京都政界から追放された。また、
この時期物価は騰貴を続け、それらは薩摩藩による外夷との通商が高騰の主因であるとする風評ができていた。 ○文久3末から参預会議が立ち上がった。 一橋慶喜、松平慶永、松平容保、山内豊信、伊達宗城、島津久光。同床異夢の期間は文久三年十二月〜文久四年一月。 彼等は公武合体派であり、開国指向である。長州藩攘夷激派はとりあえずこの体制をぶち壊す必要に迫られていた。 攘夷派(久坂はその急先鋒)は薩摩が攘夷を唱えながら外夷と通商していること自体を怒り、 たまたま田布施別府に停泊していた薩摩商人雇船加徳丸(船主 別府村 水田仲治郎、船頭同村 松右衛門)を上関義勇隊員が襲撃(元治元年1月8日停泊)。 |
![]() | ![]() 現在の田布施町別府浦 |
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乗船していた薩摩商人大谷仲之進を殺害(1月12日、夕)。
積荷は船もろとも焼き捨てた。
さらに、薩摩の非を広報するために隊員3名(山本誠一郎・高橋利兵衛・田中八郎)と大谷の首(石灰漬けで運搬)を引っさげ大坂南御堂に斬奸状を掲げ無理矢理自決(1864/02/25)させた。
隊員水井精一郎(26)、山本誠一郎(32)。 二人自決の報せを聞いて高橋利兵衛(25)も3月10日室津西方寺で割腹し果てた。 加徳丸が大坂堺で薩摩商人の積荷を積載し出航した旨京都天忠浪士が報知したと別府浦庄屋谷村家文書に残されている。 南御堂での斬奸状と隊員自裁の演出は久坂義助(玄瑞)の発議だと長州では信じられている。 その傍証として野村靖追懐録に品川弥二郎、野村靖とで隊員に因果を含ませ南御堂まで大谷の首級と隊員3名を引きつれ上坂したものの隊員は死ぬことを拒否。しかたなく目的(梟首、自決)を果たせず隊員ともども帰郷。 そのままだと薩摩の怒りは長州藩に向けられるのは必定であり、また天下に薩摩の非を広報する初期の目的を達し得ない。 帰国した彼らは野村、品川の執拗な責めの中、再度同人らと上坂。 長州壮士が見守る中、 2月25日切腹したと伝えられている。二人の屍体は互い違いに折り重なるように倒れているのが発見された。 | |
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大谷仲之進斬奸状 我等両人所存これあり、国元脱走(去)致しおり候ところ、このたび泉州堺ニ莫大の品物を買込み、交易せし候段相聞き候に付き、 附覘(覗)誅戮(を)加う候。すべてこれより交易する者と改心致させ、 恐れながら攘夷の叡慮(を)貫徹致したく割腹候て、我等赤心、天地神明の照覧を賜らんこと、謹みて祈るところ也。 子 二月 中国浪士 水井精一 山本誠一郎 〔斬奸状出典:甲子雑録 一 頁270 日本史籍協会叢書〕 |
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ここまでの覚悟がありながら最初の上坂は引き返している。推測だが水井、山本を同伴させ大谷の梟首と当人たちを自決させたかったが、両人はこれを拒否。
よって引き返えさざるを得なかたものと思える。
また、彼らの検死記録には驚くべき所見が記されている。 ○水井精一 検死記録 胴横に五寸計突引切疵壱ケ所 左耳より一寸計筋違計突抜疵一ケ所 右耳下附根より五分計前へ寄疵口五分計突抜疵二ケ所 臍より一寸五分上横に四寸計薄切り疵一ケ所 ○山本誠一郎 検死記録 胴横に五寸計突引切疵壱ケ所 首筋横ニ一寸計突抜疵壱ケ所 臍より上一寸程上六寸計筋違ニ薄切り疵弐ケ所。 〔甲子雑録一 頁264〜267〕 |
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単純にこの場面を想像するに、まず、水井精一本人が臍より一寸五分上横に四寸計薄切り裂いた。
それを見た山本誠一郎が水井精一の頭頂部(左右の耳)を鋭利刺突刃物で突き刺した。顔面の反対側に突き抜けるほどの疵である。
それでも水井の体躯が倒れず、更に反対側回り込み頭頂部を刃が突き抜けるほど刺した。順序は別にしてその上胴まで突き刺されている。 次ぎに山本誠一郎が死ぬ番である。まず臍より上を筋違いに二ケ所掻き斬った。致命傷ではない。次ぎに胴を突き切り裂いた。 更に首筋を刃を持ちかえて突き抜ぬいた。 この逆は(山本を水井が介錯)考えられない。水井精一は兄与作(前名文助)に出した書翰が残る。その中で時山直八、品川弥次郎と野村和作(靖)に大坂で殺されそうになったが、 私ども(自分と山本)両人人の手で死ぬ位なら、我々を縛って薩摩へ渡してくれ。と書いている。その彼が山本誠一郎に俺を殺してから、お前が自決しろと迫ったとは考えられない。 在京、久坂玄瑞(義助)の意を受けた時山・品川・野村らによる謀殺であろう。 非力な人間を殺してでも政治目的を達しょうとする久坂玄瑞はその面ではとんでもない政治家(目的のためなは手段を選ばない・現在の価値観では性根が腐っている)であったかもしれない。 のち、彼らの死は忠臣とあがめられ残念さん信仰にまでなってくる。一方薩摩の外夷との交易が明るみとなり、 文久三年末発足した参預会議は、徳川慶喜将軍(後見職),松平容保(会津),松平春嶽(越前福井),島津久光(薩摩), 山内容堂(土佐),伊達宗城(宇和島) 久坂の読み通りか?たちまち空中分解する。 |
| ○ 文久四年 加徳丸一件 |
| 1月8日 | 加徳丸別府浦入津。 |
| 1月12日 | 大谷仲之進殺害。 |
| 1月13日 | 加徳丸炎上。 |
| 同日夜、水井精一・山本誠一郎上坂 | |
| 目的:仲之進首級梟首。割腹するつもりはない。 | |
| 1月19日 | 二人大坂着 |
| 1月23日 | 夜、時山直八・杉山松介・野村和作。水井・山本に接触。 |
| 時山ら上坂した二人に自死を強要。 | |
| 水井・山本等仲之進の首級と一緒に大坂を脱し室津へ帰る。 |
| ○ 水井・山本の自裁に荷担したと思われる人物 |
| 姓 名 | 年齢 | 出 自 | 諸 隊 歴 | 戦歴・経歴等 |
| 佐々木亀之進 | 28 | 八組士 | 義勇隊総管 | のち、南園隊 |
| 久坂玄瑞 | 24 | 藩医 | 光明寺党党主 | 禁門の変自刃 |
| 品川弥次郎 | 21 | 中間 | 整武隊副督 | 枢密顧問官 |
| 野村和作 | 22 | 中間 | 鴻城隊総管 | 宮中顧問官 |
| 時山直八 | 26 | 中間 | 奇兵隊参謀・軍監 | 北越戦争死亡 |
| 杉山松介 | 26 | 中間 | 奇兵隊 | 池田屋事件死亡 |
| 全員松下村塾生。配列は入塾順。年齢は該事件当時 | ||||
| 参預会議(公武合体開国派)をぶっ壊したい久坂玄瑞のところに丁度よいカモが現れた。 薩摩の非を衆目に晒し、かつ死ぬ(殺す)人間が現れた。同志長州藩人であるが、久坂にとってはゴミのような者たちである。 ここで登場する人物の共通項は松下村塾で学んでいることである。政治目的のために手段は選んではおれなかった。 奴らを最も人目の付くとこで殺せ! これが久坂玄瑞の指示だった。! |
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吉田松陰の教育は時事問題を重視し、自己の規範から外れるものを非常に激しく攻撃した。
松陰は安政五年日米修好条約調印を行った間部詮勝(まなべ・あきかつ)を勅許なき調印として塾生らに暗殺計画を開陳するが塾生らの反対で頓挫している。師そのものが目的達成(無勅許調印糾弾)のためには手段を選ばない過激さがあった。 法治でない当時でも、かつ暴力も政治的意思の発露であったことに照らしても、道徳的に殺人を容認していはいない。伝えられる詮勝像は反対派との話し合い派であったが松陰は短絡的問答無用打捨的な側面がある。 幕藩体制の弊害をいかに取り除くのか、という長期的戦略・戦術構築などは彼の行動から読み取れない。 山県有朋は松陰から学んだことを人以上に吹聴したが、たかだか二ヶ月程度学んだにすぎない。 |
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流れる水がとどまることことがないように、その久坂義助も同年(1864)7月19日、
禁門の変において鷹司邸で二十六年の波乱な一生を駆け抜けた。
水井、山本の不条理な死から僅か五ケ月の命だった。
詳しくは田布施町史を参照されたい。 |
| ○ 研究者のために精一が兄与作宛書翰と解説 |
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幕末維新政治史の研究〔井上勝生/著〕頁209〜に詳しい。その抜粋。 これは暴発に加わっていない水井精一が兄の与作に出した書状である。文中その要点に記号を付した。 實ハ先月(一月)十二日当隊(義勇隊)中之士五六輩申合先達而被仰越侯通り薩船交易之綿を周防国別府津松屋何某と申者之船を借上ケ右之綿を積下シ侯様子を彼士共巨細探索仕候而其夜別府港ニて船を焼捨且上乗之者彼藩(薩摩藩)小船頭大谷仲之進と申者を斬首(イ)仕竊即夜室津迄持帰り総官佐々木氏(亀之助)へ報告仕儀故私今壱人を佐々木氏より密ニ起シ者来り右之趣を申且右之首級をバ空敷打捨置も残念の事に付大阪へ持出梟首仕儀ハバ彼國(薩摩藩)へも尚諸國へも右之次第明らかに相知可申哉(ロ)就而ハ私外ニハ暴発之人之内山本誠一郎と申者両人大阪を罷り侯ハバ事之愉快ニ相運ひ侯様ニ被申候ニ付私儀許諾仕候而十三日夜より右両人大阪へ登り十九日彼地着岸仕一應第中之山中作之進罷居候ニ付右之訳を申北条宍戸等々議論を承り度申聞せ始終を作之進より相謀らハせ侯処宍戸翁杯之儀ハ方今時勢追々防長之士共暴発仕候ニ付君公之勅勘愈以甚敷相成侯ニ付梟首一事ハ止侯様との候事故(ハ)先止候処廿三日夜時山直八杉山松介野村和作京師より右之訳こ付罷下り私共へ此度之一事ハ誠ニ愉快と申候而も余り有事ニ而実ニ浦山敷事杯申就而ハ是迄ニ決心仕候ならば何卒乍此上君公へ粗暴之名を掛ケ不申やう取置可有と申候是ハ畢竟私共へ死を進め侯様子尓て若両人遅疑仕候て彼三人(時山・杉山・野村)より撃候様ニ相見(ニ)へ侯而私共両人迚も死るならば人之手に掛り侯而ハ恥敷侯而何卒両人を指シ侯而薩第(薩摩藩)へ相渡し呉補申候処左程之心底ならば薩第(薩摩藩)よりハ関白殿下へ成共出侯而薩之罪状ヲ暴白シ其上尓て死候ハバ無此上忠節と決仕儀左候へ共私共上ノ開ニて総官と誓侯言葉御座候政一先彼地へ下り又々登り可申と相断侯(ホ)へ共右三人之者共京師ニおゐて決定仕儀事ゆへ左様ニハ不成様申(ヘ)ニ付伏水より両人脱走仕候而室津へ帰り右之訳総管へ申聞せ論決次第常々上京も可致と覚悟仕居候処京師より野村和作品川弥二郎両人跡を追懸ケ室津へ来り佐々木へ右脱走之次第且彼地所置之訳を申談別人成共代りニ差登侯様ニ申ニ付私共帰侯様子ヲ彼者共へも申聞せ候処 (ト)右野村品川両人山口へ出政府ニて論談仕前條之通り薩国罪状暴白と相決し申候ニ付此度又々罷登り申侯右両人山口へ登り侯後へ私共も山口迄出度覚悟ニ而宮市ニ潜伏仕居候処今十七日夜佐々木氏宮市へ来り應對仕候処夜前山口へ出侯而論決之由ニ付帰り候由被申候ニ付一同ニ上ノ関迄帰り申候前段暴発之時ハ私儀與り不申侯へ共登阪仕候故京師之者よりハ私共一同と存居候而最早不遁義理ニ相成候而(チ)死ニ趣申定而御怒ハ可有之侯へ共此度こと免候而は死ヲ恐レ候様ニ後々被笑候も至極残念ニ御座候故不堪切歯侯へ共不免候而何卒〔何卒〕御許容被成置侯様奉願侯定而皆々此事を御嘆被成て御愁傷も可有哉と奉案候先ハ荒増御決別のため申残侯随分後栄ヲ奉祈侯 文中記号の要約を書く。 |
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(イ)外夷と交易している薩摩用船交易品を積んで別府港に寄港しているとの情報を隊士がつかんだ。早速隊中の五六人この船を襲撃し積荷と船を焼討ちし小船頭の大谷仲之進を殺害し首級を得た。
(ロ)早速ことの次第を総管佐々木氏に報告する。単に首級を捨ててもつまらないので私(水井)ともう一人で仲之進の首級を大坂で梟首し薩摩が外夷と交易を行っている捨札を置けば諸国へ もその次第(薩摩藩の外夷交易)が明らかになる。 (ハ)早速私と山本誠一郎と上方に向かい、十九日に着岸。山中作之進にこれまでの顛末を話すと北条・宍戸に相談してみることにした。作之進が宍戸に相談したところ、単に梟首するだけ だったなら単に長州藩の粗暴振りに終わり君公が勅勘を蒙るだけだ。よつて梟首は上策でないので止めよという話をもたらした。 (ニ)廿三日の夜、時山直八杉山松介野村和作が京都より訪れた。三人が云うことには今回のこと(薩商人殺害)は誠に羨ましい限りである。そこで君公に粗暴の名を掛けない意味でもここで死んでくれと迫った。私どもは死ぬために上坂したのではないと断ると三人(時山・杉山・野村)から殺されそうになった。 (ホ)人手に掛かって死ぬぐらいなら、いっそ薩摩に渡して貰いたい。と云うと、左程の心底な らば関白殿下え事の次第を申し述べ死ぬのならこの上ない忠節だと詰め寄った。我々は佐々木 総管との約束もあり、死ぬことを断り上関に帰ることにした。 (ヘ)ところが三人(時山・杉山・野村)はお前たちに死んで貰うことは京都で決定済みで逃げることは許さんと迫った。 (ト)話がおかしな(死の強制)方向に進んだので伏見から室津へ帰ったが野村和作と品川弥二郎は室津まで追いかけてきた。両人は別人でもよいから潔く死ぬ人間を差し出せと総管に話した。 (チ)両人(野村・品川)はまた山口藩府に出掛け、協議の結果、やはり「薩国罪状暴白」、二人の自死が決まる。水井は暴発には加わっていなかったが、誰かが大坂で死ぬとこが決まった以上最早不遁義理ニ相成候。と覚悟を決める。 |
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帰国した彼らは野村、品川の執拗な責めの中、再度同人らと上坂。浪士十人程度が両士を取り囲み、二月二十五日夜自死したと伝えられている。
前出井上勝生は本事件を『長州藩尊攘派指導部の作為性は、二人を追跡した野村と品川の「別人成共代りに差登候様」という「死者」(生贄)をあくまでも求める精神構造に象徴的に示されている。「死者」は、誰にでも代替できるものであり、二人は「薩国罪状暴白」の「大忠臣」を演出する「道具」として自死を強要されたのである』更に続けて『「死者」の演出は、久坂以下、約一〇人の在京尊攘志士指導部――当時木戸孝允を含めた長州藩尊攘志士の主要メンバーが京都に潜入し、失地回復を図っていた――その饒舌な倫理によって他人(一般隊士)の死を演出し、「死者」をもって虚偽を演出している。この指導部の「堕落」、「非道徳主義」にこそ、目的のためには手段を選ばない精神構造がある』と手厳しい。 |
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水井家の幕末維新は壮烈である。 長兄水井与(與)作。明治二年脱隊兵事件で明治三年三月十八日斬首。斬首の場所は萩大谷と考えられる。 二男、精一。加徳丸事件で自死を強制されて死す。 三男、直助。脱隊兵事件明治三年三月十七日萩野山獄で切腹。 水井家は蔵元付仲間である。精一の理不尽な死が脱隊兵事件に走らせたのであろう。 ○大谷仲之進の墓。田布施町別府立石墓地。 正面 大谷忠之進墓 右面 文久四子正月十二日 左面 薩州 陰面 無刻 高さ(基壇除く)54糎 幅24.5糎 厚み15.7糎 | |
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