長州藩死者数並びに長州藩諸事変に関わった他藩人死者

幕末前史
時系列的に
■ 安政6年(1859)10月27日、吉田寅次郎(30、松陰) 江戸小伝馬町内刑場にて斬首。
■ 万延元年(1860)5月27日、飯田左馬(62)、 桜田門の変の一統との嫌疑を受け京都伏見で自決。
■ 文久2年(1862)4月13日、松浦亀太郎(26)、時事憤慨し京都粟田山で自決。
■ 文久2年(1862)6月1日、飯田正伯(38)、浦賀に罪あり。入牢中病死。
■ 文久2年(1862)8月29日、来原良蔵(34)、長井雅楽の航海遠略策に賛同したと批判され、長州江戸藩邸(桜田)の自室で憤死。
■ 文久3年(1863)1月21日、香川助三(22)京都において暗殺。当時長州は公武合体による幕政混乱を回避しようとしていた。
■ 文久3年2月6日、長井雅楽(45)、航海遠略策建議の責を問われ自邸にて賜死。
■ 文久3年3月7日、香川助三暗殺の被疑者 松浦富三郎(23)・中谷彪次郎(21)・勝木又三(22)・楢崎仲輔(23)ら4人。
■ 文久3年4月22日、祖溟西堂、長井雅楽党とみなされ、宮城彦助らに山口常栄寺門前にて斬殺さる。
幕末前史 死者 合計12人
吉田松陰以下、航海遠略策を主唱し藩是としたが不条理な死を命じられた長井雅楽などを含めた12名。
吉田松陰の刑死から〜明治3年(1871)3月まではたかだか12年に過ぎない。


 吉田松陰の刑死と筆者私見
終焉の地は、千代田区日本橋小伝馬町5−1 十思公園内である。 安政6年(1859)4月、幕府は 松陰の江戸護送を長州藩に命令した。 それにさかのぼる下田渡海(安政元年(1854)3月)失敗後、自首した松陰の身柄引き受けは 萩(毛利)藩士武弘太兵衛であった。太兵衛はまた、吉田松陰の萩(山口県萩市)への護送を担当した。 9月19日命を受け、9月23日江戸を発した。10月24日萩に到着。12月9日江戸に帰着した。  太兵衛の郷里は都濃宰判(下松市花岡)で脇本陣を兼ねていた。 江戸からの松陰護送記録が 武弘家に伝わっているが未公開であり残念である。 護送記録そのものは吉田松陰全集 別巻(S49/11/20 大和書房)に掲載がある。
さて、松陰東送であるが安政6年(1859)6月25日に江戸に到着(長州藩桜田上屋敷)している。 そして7月9日に尋問を受けそままま 伝馬町牢屋敷に収監された。 9月5日、10月5日、16日に尋問を受けている。 この16日の尋問で供述内容 をめぐって奉行らと論争になった。 この紛議以降松陰は自らの刑死を確信する。  最後の書簡は10月20日(父・叔父・兄宛)である。 その中に 「親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん」  そして、かの有名な留魂録は25日に書き始められる。  運命の10月27日朝、評定所に呼び出され死罪の申し渡しがなされた。 刑は伝馬町牢屋敷南東隅にあった 刑場で執行された。 処刑は四つ時(10:00)とも九つ時(12:00)とも伝えられている。 斬ったのは、 七代目山田浅右衛門吉利。吉利は明治17年12月29日、72歳で没する。吉利の屋敷には罪人の肝臓を 貯蔵する肝蔵(きもくら)があった。 罪人の脳みそや肝は薬種用に販売し巨利を得たとも伝えられている。 ちなみに、斬首刑は明治14年(1881)まで続けられた。
  斬首された松陰裸屍は、飯田正伯・尾寺新之丞・桂小五郎・伊藤利輔(俊輔、博文)らの尽力で 29日に小塚原回向院下屋敷の常行庵に埋葬された。その時たてた塔婆は幕府により破却された。 文久2年(1862)久坂玄瑞により自筆の碑を建てた。翌年(1863)、 世田谷松林村太夫山に高杉晋作・伊藤利輔(俊輔、博文)・山尾膺三・白井小助・赤根武人ら江戸在の志士により 改葬された。その際、江戸にて無念の死を遂げた来原良蔵、福原乙之進、綿貫治郎助、中谷正亮(すけ)ら四十五名の 招魂碑を建立。府社松陰神社は明治15年(1882)の創立。

 -- 余談 -- 江戸開府以来の処刑者は
20万人とも伝えられており、20万人÷265年÷365日で計算すると毎日最低2人の首を斬った計算になる。
留魂録の冒頭の 「身ハたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置かまし大和魂」 これを素直に読むと強烈ともいえる 日本人としてのアイデンティティーの持ち主である。
 馬関攘夷戦
文久3年(1863)5月29日、中島名左衛門(47、なかじま・なざえもん)暗殺。 高島秋帆の高弟。長崎出身の西洋式兵学者。馬関攘夷戦争の際に使用された長州藩の砲台の建造者として知られる。
砲撃戦の問題点を鋭く追究したことで諸隊隊士の反感を買い下関新地の宿舎藤屋で暗殺された。  容疑者が深く追究されることはなかった。
中島名左衛門が殺害されるまでに三度海峡通過船舶を砲撃している。
第一次 文久3年(1863)5月10日、実際は翌日黎明になったが米船ベンプローグ号。 被弾し一部破損。
第二次 文久3年(1863)5月23日、仏艦キンシャン号砲撃。
第三次 文久3年(1863)5月26日、蘭艦メジューサ号。同艦被弾。
ここまでの砲撃は長州側のだまし撃ち的砲撃で砲手に死傷者は発生していない。
名左衛門はある意味で専門家であり、照準下手が目に付いたのであろう。 長州にとって必要な人材だけに惜しまれる。  維新後贈位。

第四次 文久3年(1863)6月1日、米艦ワイオミング号。 単艦で西部劇の保安官のように撃ちまくった。
壬戍丸(じんじゅつ、英国製) 蒸気機関室を直撃。乗組員9名死亡。 武士は含まれていない。
ワイオミング号の記録
交戦時間1時間10分。 発射弾数55 死亡4 重傷2 軽傷2

第五次 文久3年(1863)6月5日、ジョレス提督率いる仏艦2艦来寇。 庚申丸撃沈される。 庚申丸死者2  やがて仏陸戦隊250名が上陸。前田砲台を破壊。 先鋒隊士(門閥武士、八組士)1名戦死。  仏兵肉薄し茶臼山にて先鋒隊士2名自決。

仏兵の上陸に際して、武士が恐怖で逃げまくる姿を百姓が目撃する。 一挙に権威が失墜してしまった。 そして運命の7日、高杉奇兵隊の発足をみる。 それまで武士階級による専権的暴力装置だった軍隊に庶民の参入がなった。


文久3年(1863)5月〜 前後2回の外国艦隊との砲撃戦 並びに上陸外国軍との戦闘による死者
初回文久3年(1862)6月5日まで14名。 続く同年6月12日夷人に内応するとの疑惑を受け阿川毛利家臣田村内蔵之助に暗殺された長府藩士興膳昌蔵。2回目元治元年(1863)8月6日まで15名。  奇兵隊法に触れたとして自決した笹村陽五郎・内海石太郎。その他明石海峡を通過中沿岸砲台に誤射され死亡した 長艦丙辰丸水夫茂吉を含め 死者 合計34人
月 日死者数内訳隊 別場 所態 様備  考
文久3年
(1863)
5/291  宿舎暗殺(中島名左衛門)
6/019 壬戌丸船上戦死 
6/0531先鋒前田砲台 
2茶臼山自殺捕虜を恐れて
 2庚申丸船上戦死 
6/121 長府藩士暗殺(興膳昌蔵)
7/041 奇兵隊自殺 
8/071 丙寅丸船上事故死明石海峡誤砲撃
10/251 奇兵隊光明寺自殺(切腹)
元治元年
(1864)
8/0521前田砲台戦死 
1奇兵隊付属玄武隊
8/06133 
6膺懲隊  
1辻之堂山 
2報国隊 前田砲台 
1第四大隊 (注)来栖源兵衛組卯兵衛伜
合計 34 

昌蔵暗殺余話
昌蔵は暗殺される前日、英船が長府沖に停泊したおり、宗藩福原清助(介・八組士,のち華陽丸船長)と二人で近づいた。これを目撃した田村内蔵之助他一人が昌蔵を暗殺。 福原清助は暗殺されていない。昌蔵の暗殺原因はその前に暗殺された中島名左衛門と親しかったためだったとか伝えられているが真相は不明である。
昌蔵の弟で医師の五六郎は二年後(慶応元年)ある日小月屋という料亭で暗殺犯田村内蔵之助と邂逅。その場で討ち取った。五六郎は直ちに自訴し、 本藩検死役人は田村内蔵之助の死亡原因を「狐狸村の犬」の仕業で決着。 五六郎は明治8年(1875)1月2日東京で病死享年47。
出典:キリシタンと十三人塚 武田芳光子著 1983/6/15 近代文芸社

前田砲台跡

山口県下関市  日本史で幕末を揺り動かす大事件が起きたのに案内板や史跡説明がまことに貧弱。 前田砲台跡に道路に砲台の場所を示す標識はない。  また、観光案内にも書いてない。 ここは、奇兵隊総管 赤根武人が指揮していた。 壇ノ浦砲台は山県有朋。  周防人赤根武人を無視する作為を感じるのは筆者だけか。
GPS座標 N 33.58.24  E 130.58.15
2009年頃より関門海峡を世界遺産登録を目指す運動により現在は標識あり。


フランスから里帰りした長州砲 長府博物館蔵 攘夷戦で分捕られた長州砲がパリ、アンヴァリッド軍事博物館にあることを作家古川薫氏が発見。 返還運動を行った結果、一門について永久貸与という措置で昭和59年(1984)に里帰り現在は 長府博物館に展示してある。  この大砲の砲身には次の銘が刻まれている。
  子九番  試薬五百目  天保十五年甲辰
  壱貫目玉 地矢倉七分  郡司喜平治信安作
青銅製である。  試薬五百目が500匁のことだとすると1匁3.75gだから 発射薬の量は1.875Kgとなる。 弾丸は1貫目だから3.75Kgである。 大砲が 出現した当時はソリッド・シェル(爆発しないムク弾)だったが漸次改良され曳火信管が考案され 爆発するようになった。 発射から着弾までの時間で信管削孔を開削し調節した。これを 「信管を切る」という。
丸玉砲弾 曳火信管の構造
丸玉でも上図の構造であり爆発した。佐賀藩が製造したといわれる施条アームストロング 砲も着発信管でなく曳火信管であった。 会津籠城戦で着弾した大砲玉の消火処理は 女性の担当だったという。 大川大蔵の妻も着弾を処理中に爆死したと伝えられている。     国際慣例として戦利品(分捕り)が返還されることはない。
  なぜここにこんな物があるのか不思議だが、山口県下松市花岡、旧藩都濃宰判お茶屋跡(参勤交代時などの藩主宿舎)に 鋳鉄製の大筒2門。
画像左 口径50mm 砲身長1,150mm。
画像右 口径60mm 砲身長1,315mm。
画像左の大筒 火門も穿ってあり火薬を詰めると発射可能である。
 ■ 奇兵隊・先鋒隊闘争事件
結成間もない奇兵隊と門閥八組士の先鋒隊との闘争。先鋒隊1人
【先鋒隊】
■文久3年(1863)8月16日 蔵(倉)田幾之進 病臥中逃遅れ(34)。
【奇兵隊】
■文久3年(1863)8月17日 下関 奈良屋源兵衛義民(59)
蔵(倉)田幾之進を殺された先鋒隊は奇兵隊の歩卒頭であった奈良屋源兵衛を下関の南部(なべ)で捕らえ冷水を 長時間にわたり浴びせかけたすえに放り出した。源兵衛は高熱を発し、その日の内死亡。
■文久3年(1863)8月27日 下関教法寺 宮城彦助賜死。 介錯は第二代奇兵隊総管 となった河上弥一(生野の変で同年10月14日自決)。  この宮城彦助、長井雅楽党とみなした山口常栄寺住職 祖溟西堂(同年4月22日)暗殺の被疑者である。 この項の死者計3人
 
 ■ 航海遠略説要旨
長井雅楽(ながい・うた 1819〜1863) 大組士150石 安政5年(1858)直目付
文久元年(1861)3月、幕府の開国政策に対し、孝明天皇による攘夷思想は政局の 中心となっていた京都にあって排外鎖国論が沸騰していた。  雅楽は直面している天皇と幕閣の対決姿勢に対し現実的解決策を提示した。 骨子は四点
1.「破約攘夷(1858/06 日米修好通商条約締結)」は非現実的。よって天皇は攘夷を改めよ。
2.朝廷は大政を関東(幕府)に委任してすでに久しい。よって幕府を「皇国ノ府」とする。
3.鎖国は便宜上のものだった。「神祖(家康)」はその昔鎖国路線は取っていなかった。
4.朝廷・幕府も相互不信を捨て信頼関係を築き挙国一致武威を海外に振るうべきである。
すなわち、指針(理念)は朝廷が発し幕府は指針を受け諸般決し具現化せよ。 これこそ「君臣ノ道」にかなうものである。
名分を朝廷に与え国策執行権は幕府にという案でもって朝廷と幕府双方への働きかけ(公武周旋)を行った。
だが、 政治主導権を持ちたい薩摩島津久光は率兵上洛し 自藩攘夷派を粛正(寺田屋事件、文久2年4月23日[1862/05/29]) し、公武合体を唱えた。幕府久世・安藤政権崩壊。 やがて和宮の降嫁となる。
一方長州藩では、久坂玄瑞らが尊皇攘夷論を振りかざし長井雅楽の開国論と真っ向から対決した。
久坂玄瑞による長井雅楽斬奸状原稿(文久2年6月頃)
戊午勤皇之盛挙を拒み候事一也
吉田を江戸を(え カ)連出申候事二也    吉田とは松陰のこと
御昇進を井伊へ請受御国辱を千載に流し候事三也    昇進とは毛利藩主の昇進
君公様御不快を顧みす東上仕候事四也
外夷交易之勅状を申降しなとの事五也
雅楽殺害として五つの罪状を挙げている。
さかのぼる、幕府老中阿部正弘政権は前例を破って諸大名に国政舵取りの意見を徴した。
そのような経緯の中で、長井雅楽のこの活動は国内政治的に外様大名が国策に関与する道が開かれた画期的なものであった。


長州藩尊攘論者により航海遠略策は退けられ藩命により公武周旋を図った 雅楽は藩命により自決を迫られた。 その日は文久3年(1863)2月6日のことであった。  藩命で周旋活動を行い、これまた藩命で不条理に死を命じられた。   そして久坂玄瑞らは狂気とも思えるうちに文久3年(1863)5月10日、関門海峡で攘夷戦を 実行する。 だがこの攘夷の狂気も武士専権統治の歴史を塗り替える確かな一歩となった。

(注) 第四大隊について
馬関攘夷戦で第四大隊の戦死者として防長維新関係者要覧(田村哲夫/編)に喜多島保助久忠(37)の名がある。来栖源兵衛組卯兵衛伜としている。すなわち畔頭(Kurogashira・自治会長クラス)源兵衛の組内であったよう書かれている。
だが、この第○大隊の呼称は慶応元年(1865)10月5日軍制改革によって誕生した。すなわち、千石以上の家臣団の禄高に応じて兵賦を課した。これにより南第一大隊〜南第十三大隊。北第一大隊〜第三大隊が誕生した。 よって元治元年(1864)段階で第四大隊なるものは存在しない。

-- 余話 --
北第四大隊〜北第六大隊の出現
慶応元年(1865)11月30日防長回天史で北第四大隊,北第五大隊,北第六大隊守衛の部署萩に定めるとしている。 更に続いて慶応2年(1866)4月南第十四大隊,南第十五大隊が出現した。 これらはいずれも短命に終わっており詳細は伝わっていない。



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