| 元号西暦対照表、主要官職在任表 | ||
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| 主要老中在任表 石高;万石 | ||||
| 姓 名 | 藩 名 | 石高 | 在任期間 | 摘 要 |
| 間部詮勝 | 越前 鯖江 | 4.0 | 1858.06.23〜59.12.24 | 井伊直弼側近の一人 |
| 安藤信正 | 磐城 平 | 3.0 | 1860.01.15〜62.04.11 | 列藩同盟積極的参加 |
| 脇坂安宅 | 播磨 竜野 | 5.1 | 1862.05.23〜62.09.06 | |
| 板倉勝静 | 備中 松山 | 5.0 | 1862.10.22〜68.01.29 | 戊辰戦争藩を捨て逃げまくり |
| 小笠原長行 | 肥前 唐津 | 6.0 | 1862.03.15〜66.10.06 | 第二次長州戦争 九州方面軍司令官 |
| 1866.11.09〜68.02.10 | ||||
| 徳川幕府老中在任表 老中制度は、徳川家康が将軍就任(慶長8年(1603)2月12日)にさかのぼる文禄2年(1593)12月大久保忠隣、 本多忠勝の両人を嚆矢とする。幕末までの275年間に176人を数える。 老中の条件は小藩であること。すなわち巨大な軍事力を持ち合わせないことであった。政府首班(幕閣)というステータスで彼らのプライドを保たせたのである。 注)ただし、老中格から老中就任の重複も含む。 老中名の後ろ − 記号(ハイフーン)は老中格。 |
| 老中名 | 自 | 至 |
| 阿部伊勢守正弘 | 1843(天保14),閏09.11 | 1857(安政4),06.17 |
| 松平伊賀守忠優 | 1848(嘉永1),10.18 | 1855(安政2),08.04 |
| 久世大和守広周 | 1851(嘉永4),12.21 | 1858(安政5),10.27 |
| 内藤伊賀守信親 | 1853(嘉永6),09.15 | 1862(文久2),05.26 |
| 堀田備中守正睦 | 1855(安政2),10.09 | 1858(安政5),06.23 |
| 脇坂中務大輔安宅 | 1857(安政4),08.11 | 1860(万延1),11.29 |
| 松平伊賀守忠固 | 1857(安政4),09.13 | 1858(安政5),06.23 |
| 太田備後守資始 | 1858(安政5),06.23 | 1859(安政6),07.22 |
| 間部下総守詮勝 | 1858(安政5),06.23 | 1859(安政6),12.24 |
| 松平和泉守乗全 | 1858(安政5),06.23 | 1860(万延1),04.28 |
| 安藤対馬守信睦(正) | 1860(万延1)01.15 | 1862(文久2),04.11 |
| 久世大和守広周 | 1860(万延1)閏,03.01 | 1862(文久2),06.02 |
| 本田美濃守忠民 | 1860(万延1)06.25 | 1862(文久2),03.15 |
| 松平豊前守信義 | 1860(万延1)12.28 | 1863(文久3),09.05 |
| 水野和泉守忠精(山形) | 1862(文久2),03.15 | 1866(慶応2),06.19 |
| 板倉伊賀守勝静(岡山) | 1862(文久2),03.15 | 1864(元治1),06.18 |
| 脇坂中務大輔安宅 | 1862(文久2),05.23 | 1862(文久2),09.06 |
| 小笠原図書頭長行- | 1862(文久2),09.11 | 1863(文久3),06.09 |
| 井上河内守正直 | 1862(文久2),10.09 | 1864(元治1),07.12 |
| 太田備後守資始 | 1863(文久3),04.27 | 1863(文久3),05.14 |
| 酒井雅楽頭忠績 | 1863(文久3),06.18 | 1864(元治1),06.18 |
| 有馬遠江守道純 | 1863(文久3),07.05 | 1864(元治1),04.12 |
| 牧野備前守忠恭 | 1863(文久3),09.13 | 1865(慶応1),04.19 |
| 稲葉美濃守正邦 | 1864(元治1),04.11 | 1865(慶応1),04.11 |
| 阿部豊前守正外 | 1864(元治1),06.24 | 1865(慶応1),10.01 |
| 諏訪因幡守忠誠- | 1864(元治1),06.29 | 1864(元治1),07.23 |
| 諏訪因幡守忠誠 | 1864(元治1),07.23 | 1865(慶応1),04.19 |
| 本荘伯耆守宗秀 | 1864(元治1),08.18 | 1866(慶応2),07.25 |
| 本田美濃守忠民 | 1864(元治1),10.13 | 1865(慶応1),02.19 |
| 松前伊豆守崇広- | 1864(元治1),07.07 | 1864(元治1),11.10 |
| 松前伊豆守崇広 | 1864(元治1),11.10 | 1865(慶応1),10.01 |
| 松平周防守康直 | 1865(慶応1),04.12 | 1865(慶応1),10.16 |
| 小笠原壱岐守長行- | 1865(慶応1),09.04 | 1865(慶応1),10.09 |
| 小笠原壱岐守長行 肥前唐津 | 1865(慶応1),10.09 | 1866(慶応2),10.06 |
| 板倉伊賀守勝静 備中松山 | 1865(慶応1),10.22 | 1868(明治1),01.29 |
| 松平周防守康直 奥州白川 | 1865(慶応1),11.10 | 1868(明治1),02.05 |
| 井上河内守正直 遠州浜松 | 1865(慶応1),11.26 | 1867(慶応3),06.17 |
| 稲葉美濃守正邦 | 1866(慶応2),04.13 | 1868(明治1),02.21 |
| 大給縫殿頭乗謨- | 1866(慶応2),06.13 | 1868(明治1),02.05 |
| 水野出羽守忠誠 | 1866(慶応2),07.13 | 1866(慶応2),10.28 |
| 小笠原壱岐守長行 | 1866(慶応2),11.09 | 1868(明治1),02.10 |
| 稲葉兵部大輔正巳- | 1866(慶応2),12.16 | 1868(明治1),02.03 |
| 久松伊予守定昭 | 1867(慶応3),09.23 | 1867(慶応3),10.19 |
| 大河内豊前守正質- | 1867(慶応3),12.15 | 1868(明治1),02.09 |
| 酒井雅楽頭忠惇 | 1867(慶応3),12.30 | 1868(明治1),02.05 |
| 立花出雲守種恭- | 1868(明治1),01.10 | 1868(明治1),02.05 |
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こうみてくると、老中としての政治手腕的は若くして没した、備後福山藩主阿部伊勢守正弘がダントツと思えるのは筆者だけか?
○ 京都所司代は板倉勝重(1601.08〜)を嚆矢とし幕末松平定敬までに56人を数える。 |
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都窪郡中島村三島貞一郎が当代随一ともいわれる儒者となり山田方谷が藩財政を切り盛りする備中松山藩に雇われ三島中洲と名乗った。
そして藩主板倉伊賀守勝静は1862年(文久2)3月15日〜幕府老中となり中洲は勝静の信任が厚かった。この期に寄合旗本だった蒔田家は猛烈な大名昇格運動を行う。
第一段階で大名並みの軍役を差し出し老中の機嫌を伺い昇格運動を展開するも幕閣から何の音沙汰もなかった。次なる作戦は信任厚い三島中洲を通じて昇格運動を行い成功する。
こうして文久3年(1863)12月に高直しに成功し晴れて大名の仲間入りを果たした。この時藩主広孝は15才。 貞一郎の兄が三島舒太郎(のぶたろう)の息子定太郎時政正(正)は倉敷代官所襲撃で身に15創を受け死亡する。 |
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注 慶応期の幕府老中について 東京大学大学院 情報学環・学際情報学府デジタル・アーカイブ小野秀雄コレクション 御進発供奉御役人付 御進発供奉御役人付で ○御老中 丹後宮ツ七万石松平伯耆守の名がみえるが、吉川弘文館発行「歴史手帳2005年版」に丹後宮ツ七万石松平伯耆守は存在しない。 |
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板倉勝静その後 鳥羽・伏見の戦い〜東北戦争、函館五稜郭の戦いまで逃げまくった。藩宰領は例の山田方谷先生。 明治2年5月20日。船で函館から浦賀に到着。この日桑名藩松平定敬は新政府に自首。23日 藩重臣の進言を入れ自首を決断。駒込吉祥寺に入った。翌26日、宇都宮藩に自訴状を提出。 宇都宮藩は直ちに自訴状を新政府に提出。勝静は支藩の安中藩に預けられた。8月15日、 新政府は極刑に処すべきところ「格別之寛典」をもって、死一等を減じ、その後藩の再建も許された。 小笠原長行その後 前出、板倉勝静と行動を共にしていたが、彼とは仙台領勝見浦で別れた。その後外国船で 横浜に着いた。やがて東京に潜伏。外国に逃れた風を装った。旧唐津藩を継いだ小笠原長国は、 明治5年7月東京府知事大久保一翁に、「長行儀、戊辰之年(明治元年)、奥州へ脱出仕(つかまつり)、 其後函館ヨリ洋船ニ乗込、折柄風浪悪敷、竟ニ海外へ漂白」といかにも外国に逃れたような 届けを提出した。拘束された長行は約1カ月で赦免された。 幕末の反長州の二人、拍子抜けするような軽い処分であった。 |
| 京都守護職在任表 | ||||
| 姓 名 | 藩 名 | 石高 | 在任期間 | 摘 要 |
| 松平容保 | 岩代 会津 | 28.0 | 1862.閏8.01〜64.02.15 | 美濃高須藩から養子 |
| 松平慶永 | 越前 福井 | 32.0 | 1864.02.12〜64.04.07 | 田安家から養子(春嶽) |
| 松平容保 | 岩代 会津 | 28.0 | 1864.04.07〜67.12.09 | |
| 京都所司代在任表 | ||||
| 松平宗秀 | 丹波 宮津 | 7.0 | 1862.06.30〜62.08.24 | 第二次征長戦副総督 |
| 牧野忠恭 | 越後 長岡 | 7.4 | 1862.08.24〜63.06.11 | 北越戦争会津に逃亡 |
| 稲葉正邦 | 山城 淀 | 10.2 | 1863.06.11〜64.04.11 | 八.一八政変を指揮 |
| 松平定敬 | 伊勢 桑名 | 11.0 | 1864.04.11〜67.12.09 | 美濃高須藩から養子 |
| 京都見廻役 | ||||
| 蒔田廣孝 | 備中 浅尾 | 1.0 | 1864.04.26〜67.06.06 | 第二奇兵隊浪士被襲撃 |
| 松平康盛 | 下総 飯笹 | 0.6 | 不明 | 旗本 |
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● 山城淀藩稲葉正邦。八.一八政変を主導し、京都政局から長州藩をけ落としたが、鳥羽・伏見の戦いにあって敗勢を建て直そうとした幕府軍とその協力藩の入城要請に応ぜず、反幕姿勢を貫いた。
すなわち、明治維新の陰の功労者である。 ● 徒に幕末動乱を醸し出した人物はたったの三人である。美濃高須藩生まれの松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)と桑名藩から備中松山に養子に入った板倉勝静(幕府老中)である。 | |
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