幕末無責任にも逃げまくった高級武士 武士の倫理観について

ときは幕末現代人が考えても常識を疑う は枚挙にいとまがない。 そして大抵、結果的に詰腹(理屈を付けた切腹)を斬らされたのは現場指揮官だったり、 家老クラスであった。
 平成18年(2006)3月民主党永田寿康議員によるライブドア堀江貴文氏からというeメール事件? が発生した。やがてこれは偽メールと言うことになったが、この渦中同党国会対策委員長 が福島四区(会津若松市,喜多方市,南会津郡,耶麻郡,河沼郡,大沼郡) の渡部恒三氏に交代した。氏は就任後記者団に 「政治家に一番大事なのは侍の心だ ・・・・ 私なら腹を切った」と語った。 彼の侍の心とは「武士の倫理観」を指しているものかも知れません。 また話の前後から倫理観では抽象的に過ぎるのでかみ砕くと 「いさぎよさ」「出所進退を明らかに」 また「卑怯な振る舞いをしない」なのかもしれません。  皮肉にも? 渡部氏の選挙区は戊辰戦争で激戦を展開した会津若松市が含まれています。
「皮肉にも?」はこの項最終に述べます。 それは会津若松鶴ケ城城主松平容保さんです。 そこでこの戦いとその前史である第二次幕長戦争以降高級武士(侍)の行動がどうだったか検証してみましょう。 当時の 「侍」 の常識を疑います。 紹介する人物は人倫にもとります。 渡部恒三氏はいつの時代の誰をモデルに 「侍」 発言となったのでしょうか?。
 さて、順次俎上に乗せる侍は 幕府老中 磐城平藩 安藤信正。 幕府老中 備中松山藩 板倉勝静。京都守護職 会津藩 松平容保 の順に紹介します。 まずは時系列的に幕府老中小笠原長行さんとします。

第二次長州戦争 方面軍司令官 幕府老中小笠原長行(佐賀、唐津藩世子) 敵前逃亡
 戦端は慶応2年(1866)6月7日幕府軍艦による長州領屋代島安下庄(大島町橘)の砲撃で開始。 広島(大竹)、島根(浜田)、福岡(門司、小倉)と次つぎに開戦して行きました。 福岡戦線の最高司令官は唐津藩世子で幕府老中であった小笠原長行でした。 この方面はかの有名な高杉晋作が直々采配していました。戦闘は熾烈で攻め込んだ 奇兵隊も死傷者が続出し、肥後熊本細川軍はよく健闘します。細川は援軍を 方面軍司令官小笠原さんに要請します。ところが小笠原は動きません。 長州を攻める義理もない熊本軍は腹を立てたのか7月29日小倉に撤退します。 そのうち、小笠原のもとに将軍家茂の死亡(慶応2年7月20日)が伝わります。 何を考えたか方面軍司令官小笠原さん停泊していた 幕艦富士山丸で敵前逃亡してしまいます。戦線離脱です。 結果は自明です。 小倉藩は城を自焼し香春に総員敗退。幕府との止戦協定後藩領の一部は長州軍が占領し明治維新を迎えました。


小笠原長行が責任をとったかて???。 とんでもありません。何ら責任を取らずとらされず 逃げに逃げ奥羽・函館まで行ってしまいます。 逃げまくりましたが、こともあろうにその後勃発した東北戦争では 軍事参謀に就任してしまいました。

 武士道とは武士の制度が廃止された後の虚構の概念でしょう。 敵前逃亡や指揮権放棄を方面 軍司令官が行ったのです。 それでも自ら責任を取らず追究もされませんでした。  民主党国対委員長渡部恒三氏はこの小笠原長行の行動をどう説明するのでしょうか。 これはほんの氷山の一角です。
 次は、磐城平藩主 安藤信正(幕府老中) の行動を記述します。

小倉藩その後
 慶応2年8月1日  小倉城に火を放って田川郡香春(現香春町) に撤退しました。このとき家老小宮民部は 藩祖小笠原忠真以来初めて居城を離れたという責任を取って自刃。   戦利品小倉城の太鼓は長州が持ち去り現在は下関市立長府博物館が所蔵しています。 もちろんかって北九州市が 「戻せ・・!」 と叫んだ?ことがありましたが戦利分捕品です。 返すはずもありません。
 負けたら切腹 永田寿康議員は負けた責任をとらねばならないのでしょうか?。  国民が知りたい問題は他にあるような気がしてなりません。

磐城平藩 安藤信正 かつて幕府老中であった。  西軍に攻めたてられ逃亡。
 万延元年(1860)1月から文久2年(1862)4月まで幕府老中の席にあった。有名な事件として 桜田門の変(井伊大老暗殺事件)後死亡した井伊大老を見舞って死亡していないことにした。 老中の自分が負傷お見舞いという芝居をし彦根と水戸の対決を回避。まあこれなんか立派な 役者ではある。
 井伊さん亡き後幕政を担当。多事多難な国政・外交をそつなくこなしたが 公武合体(皇女和宮降嫁)でケチをつけ水戸浪士に坂下門で襲撃(1862/01/15)を受けた。背後から2個所斬られ たが脱兎の安藤さんなんとか門内に逃げおおせた。このときの後ろ疵が原因で老中失脚。  敵に背を向けるとは何事かということである。まあ失脚の理由はこれだけではない。  理由を書くと猛烈な長さにになるので割愛する。
 これはこれで減禄されたが隠居はしなかった。とき流れて戊辰戦争(1868/01/03〜)下表のような武装で 攻め寄せる新政府軍に立ち向かった。 そしてこの方も奥羽列藩同盟には積極的賛成でした。  前装小銃たったの50挺です。 鳥羽・伏見で戦った新選組を率いて土方歳三はその後、 僕剣技に自信あり、だが剣を揮う場は全く無かったと述懐している。 逃げの安藤藩士に 棍棒や河原の石を投げて戦えと言ったのか??
現いわき市 諸藩の鉄砲戦力
藩名 石高 施条砲大砲総数後装銃数 前装銃数小銃総数
磐城平(いわき市)3.0 0 20 50 50
泉(いわき市)2.0 0 28640 126
湯長谷(いわき市)1.5 0 00 60 60
出典:軍事史学 ・通巻49号第13巻第1号 南坊平造論文

 新政府軍(西軍)、大村益次郎は会津藩倒滅の最終目標に向けて盾突いた仙台藩を主軸とする 東北諸藩を蹴散らすことにし、第一陣として常州方面軍を茨城平潟に 敵前上陸(06/16)させた。そして、泉(06/28)、長湯谷(06/29)と次々に陥落させ、そして態勢を 更に整え7月13日平城を攻撃した。当日は篠つく雨で火縄銃は使用できる状態ではなかった。   平城攻撃で北側を退路として空けてあったので藩主一行(安藤信正)は陸中海岸ぞいに逃れた。守兵の仙台藩、米沢、 そして新政府の行く末を見届けるかのように明治4年(1871)10月8日に53歳で病没。
 逃げの安藤さん、このときも逃げ決して城を枕に討ち死にはしませんでした。潔よさの片鱗さえみせません。
この安藤さん2度蟄居処分を受けた。最初は坂下門事件の8月幕府から蟄居を命ぜられた。 次は新政府から蟄居を受けている。


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第二奇兵隊取材班
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