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幕末、狂乱怒濤の事象は嘉永6年(1853)旧暦6月3日からはじまった
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| 幕末、今も人をして魅了してやまない時代。 佐幕であれ尊攘派であれ体を張り 命がけで活躍した群像があるからだろう。 | |||
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貧窮した諸藩の台所は参勤交代の経費を極限まで削減した。 庶民のザレ歌が悲しさを伝える。 ■ 人の悪いは鍋島薩摩(佐賀藩・島津家) 暮れ六つ泊まり七つ立ち。 宿泊は18時、出発は午前4時。 随番する藩士のリタイアが多発した。 ■ お国は大和の郡山 お高は十と五万石 茶代がたったの二百文。 休憩費が三千円態度。 ■ 銭は内藤美濃守 袖からボロが下がり藤。 信濃高藤藩 三万三千石。 家紋が下がり藤だった。 ■ 松本丹波の糞丹波 くそといわれても銭ださぬ。 庶民は武家の貧窮を知り抜いていた。 |
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人物名の( )は在任期間 a.黒船の来航と老中阿部正弘(備後福山藩主 1843[天保14]/閏9/11〜1857[安政4]/06/17) 嘉永6年(1853)6月3日米艦4隻浦賀に来航する。唯一外交の窓口であった蘭国から鎖国の無益を聞かされていた 幕閣阿部正弘は鎖国か開国か幕府に前例のない諮問を諸大名・諸有司に行った。 これが外様大名に国政に口出しできる端緒となってしまった。 真の開国はこの時から、ときの老中は備後福山藩主(広島県)阿部正弘(1819〜1857 当時33才)。 天保7年(1836)藩主の座につく。同9年奏者番、寺社奉行を経て、同14年老中となる。 老中期間中は有力大名と協調を図り、御三家は幕政の要職に就かないという慣例を破りペリー来航という 難局を乗り切るために前水戸藩主徳川斉昭に海防参与を要請。 開国という未曾有の政策転換は徳川の威信の上で実現させた。 こうした政治姿勢は譜代門閥派からの抵抗を招いたがその回避策として安政2年(1855) 堀田正睦に老中再任を求め首座を譲った。ハリスの江戸訪問や将軍継嗣問題が政治の争点になりつつ あったさなかの安政4年(1857、38才)6月17日病没した。 文字通り彼は命を削った。 ちなみに老中就任は25才。 幕末全老中在任表 はこちら |
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■ ペリーショック 1 ペリー艦隊江戸湾侵入に対し、幕府にこれを阻止する軍事的実力がなかった。かろうじて日本側の体面を 保ったのは、輸入燧石銃を装備していた同心50人による下曽根信敦配下の銃隊であった。 彼我の戦力差は歴然とし、対抗しうる大砲と海軍力は皆無であった。 最早幕府のみで対応できる問題ではなかった。 圧倒的軍事力を前にそれに対抗できない状態は幕藩体制のほころびと云ってよい。 幕藩は武家政権である。 その武威が幕府や諸藩にない以上国家崩壊の危機に直面する。 阿部正弘は「軍事リアリズムの選択」を行う。 同年9月、大船建造禁止令解除。 江戸屋敷への大砲・小銃の持ち込みと調練を許した。 藩の枠を越えた国家の建設が急がれた。 |
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b.翌安政元年(1854)1月 黒船再来航 幕府に対し開国を迫った米国外交はついに3月3日日米和親条約の締結に成功した。 これをみた列強は 幕府と外交交渉をすすめ同年のうちに英(1854.08)・露(1854.12)・蘭(1854.12)と次々に和親条約を締結した。 老中阿部正弘はまた人材発掘にも手腕を発揮した。 勘定奉行となった川路聖謨や、同じく水野忠徳、 大目付の筒井政憲、箱館奉行の竹内保徳、下田奉行の井上清直や 江川太郎左衛門・高島秋帆もその才力を用いられ、勝海舟や小野友五郎も登用された。 小野友五郎 (勘定奉行) 数学家としての頭脳と卓抜した技術力、事務処理能力によって陪臣(常陸国笠間八万石) から幕臣に取り立てられ、勘定奉行という官僚としての最高位に抜擢された 幕末最高のテクノクラート(技術官僚)。咸臨丸の米国航海、 木村摂津守との海軍増強計画など日本海軍揺籃期の真の立役者の一人。 咸臨丸渡航時の年齢43。 渡洋天測は小野や肥田の舞台であった。 勝は病気で艦長室から出ようとせず、 実質浜口興右衛門や小野が船将であった。 帰国後、肥田浜五郎と国産蒸気軍艦「千代田形」を造る。 蒸気機関は肥田が担当した。 勝 海舟 浦賀に来航した黒船に動揺する幕府に提出した上申書(海防意見書 貿易論・人材論・兵制改革論)が阿部正弘の目にとまった。 時代を見通す慧眼に注目した正弘は安政2年(1855)当時開設したばかりの 長崎海軍伝習所へ幹部伝習生として派遣。 勝の派遣は5カ年にわたる。 そこで、航海術、西洋兵学などを学んだ。 勝の遅咲きの花(32才)は阿部正弘によってもたらされた。 勝は算数に滅法弱かった。友人や知人に「小子無算ゆえ、大いに困惑」しばらくして昨今割算・掛算は少しは 解るようになったと吐露している。 どうも割算は引算の連続、掛算は足算の連続という基本が理解できなかったようだ。 それでも口だけは確かだった。 訪米咸臨丸艦長だったが木村提督が艦長に相談事をするといつも反論してきた。と閉口している。 勝は総務系人間だが小野友五郎は総務や天文学・航海学などマルチ人間であった。 ![]() 左 勝海舟 中央 赤松大三郎 右 小野友五郎 写真出典:咸臨丸海を渡る 「土居良三/著」 赤松大三郎 後の海軍中将男爵赤松即良。渡米当時軍艦操練教授方手伝いで航海中は測量方であった。文久2年(1862)、オランダ留学を命ぜられ造船学、数学を学び、明治政府に出仕後は海軍兵学寮大教授・主船寮長官・主船局長を歴任し造船に貢献した。 更に佐世保・横須賀鎮守府長官をも務めた。 余談だか日露和親条約(下田条約)で国境線が確定した。択捉島とウルップ島の間を国境線とし、 この条約で樺太は日露共同統治であった。 小笠原諸島を確固たる日本領としたのは、訪米後咸臨艦長となった小野友五郎らの功績である。 |
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雑学余話 市販されている一枚ものの一般的世界地図(百円均一販売を除く)では樺太(ロシア名・サハリン)の南半分(日本統治領)と千島列島は識別色が日本色でもなくロシア色でもない着色がしてある。 日本が終戦(1945/8/15)したと思っている日は交戦国にとって戦闘終結日ではない。9月2日東京湾における第二次世界大戦降伏文書調印(1945/9/2)の前日に歯舞群島はソ連に占領された。 |
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■ ペリーショック 2 老中阿部正弘の苦悩は大きかった。来航以来佐賀鍋島藩に西洋式大砲鋳造を命じた。 佐賀藩は、藩士に発狂者を出すほどの 猛勉強を課した。 やがて戊辰、国産施条大砲を完成させ上野の山に籠もる彰義隊に向けて火を噴いた。 安政元年(1854)7月、軍制取調掛を任命し、軍制改革に取り組んだ。 1855年(安政2)10月、蘭国から蒸気船 購入を図り、後の軍艦観光・咸臨・朝陽を入手。すぐさま長崎に海軍伝習所(1855年〜59年)を開設。 諸藩の希望者に門戸を開いた。 更に、1855年(安政2)、西洋式小銃1万挺の製造を命じ、かつ蘭国から小銃6千挺を 輸入した。続いて1856年(安政3)4月、講武所をも開設し西洋砲術の習得にあたらせた。 幕末諸藩輸入艦船一覧表 はこちら 阿部の政敵はこともあろうに御三家の水戸藩主・徳川斉昭(海防参与)であった。 阿部正弘は国内的にも国際的にも、もう少し大きく評価されいよい 政治家の一人と筆者は思う。 藩の枠を越え、それまで意識することのなかった日本人であることを意識するようになった。 火縄銃の射程ならびに西洋銃器の発達と射程はこちら |
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c.安政三年(1856)列強は通商条約の締結を迫った。 産業革命に成功していた英国は自国の工業製品の販路拡大を目指していた。 そして諸外国は上質な絹糸をも 求めていた。 当時絹は上級武士のみ着用が許され幕府の統制品的性格を有していた。 長崎でそれも幕府だけに 貿易が許されていた。 他藩は指をくわえてみているだけ。 すなわち、鎖国は幕府による貿易統制策であり唯一長崎で統括管理していた。
d.開国可否の諮問を求めらた諸大名・諸有司は
e.反幕的な者や開国を心よしとしない者は |
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【朝廷のクソ馬鹿は誰が演出したのか?】 関白鷹司政通自身は、開国論に立って日米和親条約締結派であったが、 若手公卿の批判を受けると一転して攘夷派となる。これが幕府の怒りに触れ、落飾し、出家した。 この若手公卿こそ岩倉具視である。反対派の公卿を集めて阻止行動を起こした (いわゆる「廷臣八十八卿列参事件・安政5年(1858)3月20日」)。1860年(万延1年)3月、 桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、公武合体をすすめ和宮降嫁を推進した。 このため、尊攘派の志士たちは岩倉を佐幕派として排斥しようと朝廷に圧力をかけた。 このため、京都洛北の岩倉に幽居した。 その後彼は大化けし倒幕派となり明治の元勲に名を 連ねる。 岩倉具視が潜んでいたところは京都市左京区。門跡寺院の名刹中の名刹岩倉実相院である。 平成10年(1998)10月、260年書きつないだ膨大な日記が発見された。 この中で会津容保や一橋慶喜はぼろくそに書かれている。 |
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f.そんな折りに将軍継嗣問題がからんできた 当時の将軍家定(1853[嘉永6]/10/23〜1858[安政5]/07/04)は病弱であり、 かつ嗣子がなかった。 そのことが政治問題化し斉昭の子慶喜を推挙 する一橋派と、紀伊藩徳川慶福(よしとみ、後の将軍家茂)を推挙する南紀派の対立が起きた。 開国か鎖国か。 慶喜か慶福か。 重大な局面をさらに混乱させた。
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g.南紀派の勝利と井伊直弼の登場(1858[安政5]/04/23〜1860[万延1]/03/03) 一橋派、南紀派の抗争は結局南紀派の勝利となり、混乱した幕政を立て直すために 小期間途絶えていた大老職を復活させた。 当初の目論見は老中職を束ねる名誉職的性格を 含ませていたが、大老の井伊直弼は決断と実行の大政治家となってしまった。 先にみたように斉昭と直弼には対西欧列強へのスタンスがまるで違っていた。 武力を背景として開国を迫る米国は悪とする斉昭と、直弼は西欧に対抗する武力がない以上現実的な 開国でソフトランディングしようとしていた。 朝廷にしきりに自説を吹聴する斉昭と幕府首脳が 推し進めようとしている開国路線は激しい対立を生む。 斉昭によって 朝廷=攘夷 幕府=開国 の図式である。 この時期斉昭がいなかったら幕末史は大きく変わったものになっていたであろう。
h.井伊直弼の決断と対応 その1 |
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ペリー来航 ・・・・・・・・・・・・ 老中阿部正弘(妥協政策) 朝廷に報告 ハリスとの交渉 ・・・・・・・・・ 老中堀田正睦(穏健政策) 朝廷工作失敗 ![]() |
| 注) 薩摩の攘夷と長州の攘夷は根幹部分で全く違う。薩摩の攘夷は単に日本の風習を知らない異人を斬殺したことから始まった。 一方長州は通商による庶民困窮の打開策としての攘夷だった。 |
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i.井伊直弼の決断と対応 その2 10月慶福を次期将軍に擁立するとともに、一橋派の処分を断行した。 返す刀で開国に反対した 諸有司や京都に集まっていた尊攘志士の弾圧を行った。 世にいう「安政の大獄」(1858/09)である。 吉田松陰刑死。 10月25日、家茂(1858[安政5]/10/25〜1866[慶応2]/811)。初名は慶福(よしとみ)。 、十四代将軍に就任。 |
| 戊辰の大乱後日本は佐久間像山、橋本左内の目指した方向に進む。その意味では少しばかり早く産まれすぎたのかも知れない。薩摩も薩英戦争を招いたが、その発火点となったのは、 この国の風俗を知らなかった英人を斬殺したことにある。すなわち、思想的背景のない単純攘夷である。歴史は、長州に萌芽をみた「民衆レベルの攘夷運動」が大きなうねりとなり、日本の歴史を大きく動かし明治維新につながった。 |
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j.井伊直弼の暗殺 将軍継嗣問題で水戸斉昭を侮蔑した井伊直弼は水戸浪士に命をねらわれ 万延元年(1860)3月3日雪の桜田門外で 暗殺された。 運命のいたずらか、米和親条約が締結された6年前と同月同日であった。 直弼の退場で八方ふさがりだった孝明天皇(1846/02/13〜1866/12/25)の対幕関係の優位が復活する。 ※ このあたりのところは「孝明天皇と一会桑」幕末・維新の新視点 家近良樹/著 に詳しい。
k.時の老中安藤信正は(磐城平藩 1860[万延1]/01/15〜1862[文久2]/04/11) これと同じよな奇策は平成の世の中でも発生した。 小渕恵三首相在は2000年4月2日に、脳梗塞を発症し 順天堂大学医学部附属順天堂医院に緊急入院する。 執務不能となり、内閣官房長官の青木幹雄を首相臨時代理に指名したとされる。 青木の首相臨時代理就任に際し、脳梗塞で意識を失いつつあった小渕本人に、 指名を行うことが出来たか否かが、野党・マスメディアに「疑惑」として追及された。 小渕が倒れたことを発表した青木の記者会見で、 記者から「脳死ではないのか?」との異議も出たが、青木はこれを否定した。 やがてタナボタ式に森内閣が誕生した。 安藤信正は直弼の強攻策を変更し、鎖国か開国で対立した朝廷と幕府の対立緩和策として 公武合体を推進し朝幕和合の一環として孝明天皇の妹和宮と将軍家茂との結婚を実現。 これにより 安政条約の勅許を得ることに成功した。 これにより将軍継嗣問題と勅許問題は解決したかに見えたが・・・ 和宮の降嫁を承認しかつ開国勅許をだす条件に「嘉永年初頃」の対外政策に戻すという一項があった。 安藤・久世政権は「うんわかった」と答えた。 実行はしなかったけど彼は、本当にする気だったかもしれない。 天皇がなぜここまでこだわったのか。 それは下層民衆が物価騰貴に泣かされていた情報をキャッチし文久2年(1862)2月黄金50枚を 京都所司代に下し、山城国の貧者救済に使わせ、かつ根本的解決策を求めた。 安藤信正はまた、国益会所を作り、外国との貿易利益を幕府が一手に収め国内経済を統制すると共に、 幕府財政を立て直そうとしていた。 後に倒幕派公卿の岩倉具視は和宮降嫁に積極的に関わる。 宮の降嫁は対立する幕府と朝廷を融合し幕権を揺るぎないものとする当時考えられた最良策であった。 歴史評価的に云えば具視は佐幕である。 l.安藤信正の受難 しかし、和宮の降下は尊攘派の恨みを買い文久2年(1862)1月15日またまた水戸浪士に襲われ坂下門外の変で負傷。 死にはしなかったが後ろ傷を受けたとして失脚。 幕府崩壊の端緒は徳川一門の水戸藩浪士がトリガーとなった。 安藤信正の解任は時期的にずれ込んでおり、受傷が原因とする説に多くの異議がある。 真相は闇の中。 ちなみに解任は文久2年(1862)4月11日。 幕末全老中在任期間一覧表 はこちら m.幕府が諸藩に国政関与に路を開いたことで 天保の改革に成功していた西南雄藩の長州藩は文久元年(1861)11月出府し公武の周旋に乗り出した。 また、薩摩藩も翌年4月京都に登って幕府と朝廷の融和に尽力した。 一方庶民の生活は開国により 国内需給物資が輸出に回され物価騰貴と品不足に陥った。 よって諸藩の青年たちはその元凶は開国を 行った幕府とし、倒幕??の手段として攘夷をスローガンにした。 黒船事件以来、諸有司や志士と云われる若者らに 「皇国」=日本 の考えがあまねくひろまっていったのもこの時期である。 n.混乱の文久年間(1861〜64) 文久2年(1862)4月率兵上洛を行った島津久光は寺田屋で藩内志士運動(4月23日)を弾圧。諸藩の攘夷志士は 薩摩に絶望し長州に希望を託した。 当初公武合体を周旋していた長州では長井雅楽が退けられ 攘夷派が台頭し朝廷内の急進派と結んで攘夷の急先鋒となってしまった。 長州は攘夷、攘夷と叫んではいたが。どこをさがしても倒幕を考えた節はない。 攘夷の先の次なる 戦略的政治構想はなかったのでは・・・・ 会津松平容保幕政参与(文久2年 1862)となる。
o.会津藩の政界進出(1862年 閏8月) |
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■ 国政の混乱どころではなかったのに 西欧列強は虎視眈々と日本をねらっていた。 正直なところ公武合体工作や徳川幕府擁護問題など二の次であった。 外国からの侵略に備え日本列島防衛が真剣考えられていた。
出典:日本軍事史;吉川弘文館発行 P263 図102 ◆海軍建設構想
幕府軍制掛は、文久2年(1862) 閏8月、万国合従(連合)の襲来に備えて列島防衛海軍力を見積もっていた。
沿岸6軍管区15艦隊編成である。
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p.攘夷の期限文久3年(1863)5月10日を受けて 長州藩は関門海峡を通過する米・仏・蘭の艦船砲撃を決行した。 このような攘夷派伸張をおそれた幕府や会津、薩摩の公武合体派は8月18日中川宮を 中心とし朝廷を改革し、朝廷激派の7卿は長州に落ちのびた。 朝廷は再び公武合体派 の支配するところとなり、長州藩は撤退を命じられた。 これで中央政局において攘夷派勢力は後退した。 新政体を目指して、文久3年(1863)8月17日に吉村寅太郎らによって 「天誅組の変」発生。 盟主中山忠光。 この8月17日夜。中川宮・近衛父子・二条・大徳寺公純らは突如命令を発した。 「非常の大議あるを以て、守護職・所司代各人数を率い、翌18日子の半刻(午前1時頃)を 以て参内すべし、且薩摩藩にも此旨通達すべし」 文字通りその時歴史は動いた。 天誅組の変空振り。
この年、長州の伊藤博文・井上 馨・井上 勝・遠藤謹助・山尾庸三の5人英国留学。 |
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◆ 「8.18政変」と呼ばれる政変劇発生
朝廷は三条実美らの攘夷急進派が主導権を握っていた。彼らは長州と結び、
外国に門戸を開けてしまった幕府を倒して天皇の親政を実現すべきだと
考えていたが、孝明天皇は公武合体派で、かつ夷人嫌いだった。
孝明天皇は中川宮に密かに指令を出してクーデターを決行する。
時移り、鳥羽・伏見の戦い(1868/01/03〜)で敗走する幕府軍や会津・桑名の兵を淀藩(稲葉正邦・幕府老中)は城門を固く閉ざして一兵たりとも
入れなかった。 幕府老中を首になりそうだが慶応4年(1868)2月22日まで務めた。八.一八政変で会津容保と共に指揮した
大物が勝敗の去就定まらぬうちに変節した。 幕府軍の竹中重固(しげかた)や滝川具挙(ともたか)には確実に変節と写ったはずだ。
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q.禁門の変と第一次幕長戦争 徳川慶喜・松平容保主導による先の、参頂会議で京都政局の座から追放された長州は、 翌元治元年(1864)6月池田屋事件に激発され長州は武力でもって京都政局の主導権を 確立しょうとし上洛。 公武合体派会津・薩摩の兵と蛤御門において戦闘(7月19日)を行った。 また関東では 水戸藩の一部がこれに呼応し筑波山に挙兵した。 京都の戦いは長州の敗北に終わり、筑波天狗党も 諸藩追討 (12月16日 加賀藩に降伏 352人が処刑、処刑は藩主井伊直弼を殺害された彦根藩が担当) のまえに潰えた。 戦いに敗れた長州の江戸・大坂藩邸の没収と破却が行われた。 長州江戸藩邸吏員は逮捕され諸家に 預けられたが過酷な仕打ちが待ちかまえていた。 確認できる死者は52人に達する。 勢いに乗じた幕府は8月2日35藩の15万の兵力を動員し長州の四境に迫った。 元治元年(1864)9月5日、土佐の心ある青年たちが長州藩の困苦を救わんとして野根山の関所に結集。 脱藩前に捕らえられ奈半利河原(高知県安芸郡田野町)で斬られた。その数23人。 世にいう奈半利河原の惨劇(悲劇)。 十六才が2人。 人が何かを成さんとするときは 文字通り命を賭けた。 藩権力という装置の中で彼らの命は本当に軽かった。 維新後全員贈位。
r.全世界を敵に回した長州
s.恭順謝罪後長州では
t.第二次幕長戦争
u.徳川慶喜の登場 |
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◆ 孝明天皇の急死 孝明天皇の急死に対して、討幕派の岩倉が毒殺したのではないかという風評まで飛び交った。 みてきたような背景から 暗殺は現実味を帯びますね。 |
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v.倒幕の密勅 慶応3年(1867)10月14日に倒幕の密勅が薩長両藩主に伝達された。 慶喜も起死回生の大博打を打った。 10月14日、将軍慶喜は大政奉還を おこなって政治的主導権の回復をもくろむが小御所会議であっさり承認。 これにより、徳川幕府は15代265年にして滅んだ。 慶喜の本意は、徳川家が雄藩の一つとなり、天皇を中心とした公儀政体の一翼を担うことにあった。 12月9日王政復古のクーデターが断行された。総裁・議定(ぎじょう)からなる新政府が誕生した。
w.岩倉具視一派らは
x.内戦の発生を恐れた慶喜は
y.会津藩討伐
z.戦没者慰霊と招魂社 ---- 百万都市江戸その後 --- 参勤交代制も廃止され徳川家も退去し旗本や御家人も給料地に戻った。御家人は徳川家に従属し退去。 各藩の江戸屋敷は公収された。 よって江戸の人口は一挙に半減した。 その救済策が首都移転であった。 |
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