幕末、狂乱怒濤の事象は嘉永6年(1853)旧暦6月3日からはじまった

幕末、今も人をして魅了してやまない時代。  佐幕であれ尊攘派であれ体を張り 命がけで活躍した群像があるからだろう。
■ 内憂(内治)
天保の大飢饉(天保4〜10 1833〜39)  全国的に天候不順・冷害、全国平均で三〜四分作。  藩財政を米貢納に依存していた300諸藩は財政破綻に見舞われ、徒士層は貧窮に晒され 農村は階層分解の度を深めた。
幕府は、天保12年5月、老中水野忠邦による天保の改革をスタートさたが、 改革の中身は質素倹約の重農主義を基本とし、享保・寛政時代への復古を目指した。
だが、結果は一揆や打ちこわし、大塩平八郎の乱といった国内不安を醸成し失敗に帰した。

◆内治の問題点 税制
一番はその税制にあった。 百姓以外から税金を取らなかった。 当然誰も固定資産税など払っていない。 年貢は村民全体の共同責任で、年貢の基準となる村高は、検地により確定した。 商人には冥加などといって 不定期税的なものを求めたが制度的には無税だった。  うち続く米の不作は武家財政を破綻させ、封建農村は解体。ほとんどが小作農(地主と領主のダブル収奪)となった。  その一方で商人資本が急速に台頭した。
国内的には、植民地化の危機感から早急に財政、軍事、行政、司法と全てのことを統一する政体が模索され求められていた。
■ 外患(外圧)
東アジアの国際環境は19世紀後半に欧米列強が進出してきたことで激変した。 鎖国していた 島国日本も、いやおうなしに国際政治と資本主義経済の洗礼を受けた。 当時の欧米列強は、 互いに対立反目しながら植民地の獲得と、自国工業製品の販路を求めていた。 そういう時期に開国 を迫られた日本は、国家としての存立を確保し植民地化を免れる路を模索する難しい局面を迎えた。
列強は植民地争奪戦を行っていた。その結果インド洋から東に独立を保てた国は皆無だった。 インドは英国とポルトガルに蚕食され、現在のタイはポルトガル。ベトナムはフランス。スペインはフィリッピンを 植民地とした。
隣国中国もアヘン戦争(1840〜42)結果などで、香港、マカオなどの割譲を余儀なくされていた。

植民地化を免れえて、国内的に対立と抗争を経て統一政体を作り上げたが、今度は自らが 列強ににならってアジアへの侵略や植民地支配の道を歩み始めた。




貧窮した諸藩の台所は参勤交代の経費を極限まで削減した。 庶民のザレ歌が悲しさを伝える。
人の悪いは鍋島薩摩(佐賀藩・島津家) 暮れ六つ泊まり七つ立ち。 宿泊は18時、出発は午前4時。 随番する藩士のリタイアが多発した。
お国は大和の郡山 お高は十と五万石 茶代がたったの二百文。 休憩費が三千円態度。
銭は内藤美濃守 袖からボロが下がり藤。 信濃高藤藩 三万三千石。 家紋が下がり藤だった。
松本丹波の糞丹波 くそといわれても銭ださぬ。 庶民は武家の貧窮を知り抜いていた。


人物名の( )は在任期間
a.黒船の来航と老中阿部正弘(備後福山藩主 1843[天保14]/閏9/11〜1857[安政4]/06/17)
嘉永6年(1853)6月3日米艦4隻浦賀に来航する。唯一外交の窓口であった蘭国から鎖国の無益を聞かされていた 幕閣阿部正弘は鎖国か開国か幕府に前例のない諮問を諸大名・諸有司に行った。   これが外様大名に国政に口出しできる端緒となってしまった。
真の開国はこの時から、ときの老中は備後福山藩主(広島県)阿部正弘(1819〜1857 当時33才)。 天保7年(1836)藩主の座につく。同9年奏者番、寺社奉行を経て、同14年老中となる。 老中期間中は有力大名と協調を図り、御三家は幕政の要職に就かないという慣例を破りペリー来航という 難局を乗り切るために前水戸藩主徳川斉昭に海防参与を要請。  開国という未曾有の政策転換は徳川の威信の上で実現させた。  こうした政治姿勢は譜代門閥派からの抵抗を招いたがその回避策として安政2年(1855) 堀田正睦に老中再任を求め首座を譲った。ハリスの江戸訪問や将軍継嗣問題が政治の争点になりつつ あったさなかの安政4年(1857、38才)6月17日病没した。 文字通り彼は命を削った。  ちなみに老中就任は25才。   幕末全老中在任表 はこちら
■ ペリーショック 1
ペリー艦隊江戸湾侵入に対し、幕府にこれを阻止する軍事的実力がなかった。かろうじて日本側の体面を 保ったのは、輸入燧石銃を装備していた同心50人による下曽根信敦配下の銃隊であった。  彼我の戦力差は歴然とし、対抗しうる大砲と海軍力は皆無であった。 最早幕府のみで対応できる問題ではなかった。
圧倒的軍事力を前にそれに対抗できない状態は幕藩体制のほころびと云ってよい。 幕藩は武家政権である。 その武威が幕府や諸藩にない以上国家崩壊の危機に直面する。 阿部正弘は「軍事リアリズムの選択」を行う。
同年9月、大船建造禁止令解除。 江戸屋敷への大砲・小銃の持ち込みと調練を許した。 藩の枠を越えた国家の建設が急がれた。

b.翌安政元年(1854)1月 黒船再来航
幕府に対し開国を迫った米国外交はついに3月3日日米和親条約の締結に成功した。 これをみた列強は 幕府と外交交渉をすすめ同年のうちに英(1854.08)・露(1854.12)・蘭(1854.12)と次々に和親条約を締結した。
老中阿部正弘はまた人材発掘にも手腕を発揮した。 勘定奉行となった川路聖謨や、同じく水野忠徳、 大目付の筒井政憲、箱館奉行の竹内保徳、下田奉行の井上清直や 江川太郎左衛門・高島秋帆もその才力を用いられ、勝海舟や小野友五郎も登用された。
小野友五郎 (勘定奉行)
数学家としての頭脳と卓抜した技術力、事務処理能力によって陪臣(常陸国笠間八万石) から幕臣に取り立てられ、勘定奉行という官僚としての最高位に抜擢された 幕末最高のテクノクラート(技術官僚)。咸臨丸の米国航海、 木村摂津守との海軍増強計画など日本海軍揺籃期の真の立役者の一人。 咸臨丸渡航時の年齢43。
渡洋天測は小野や肥田の舞台であった。 勝は病気で艦長室から出ようとせず、 実質浜口興右衛門や小野が船将であった。  帰国後、肥田浜五郎と国産蒸気軍艦「千代田形」を造る。 蒸気機関は肥田が担当した。
勝 海舟
浦賀に来航した黒船に動揺する幕府に提出した上申書(海防意見書 貿易論・人材論・兵制改革論)が阿部正弘の目にとまった。 時代を見通す慧眼に注目した正弘は安政2年(1855)当時開設したばかりの 長崎海軍伝習所へ幹部伝習生として派遣。 勝の派遣は5カ年にわたる。 そこで、航海術、西洋兵学などを学んだ。 勝の遅咲きの花(32才)は阿部正弘によってもたらされた。
勝は算数に滅法弱かった。友人や知人に「小子無算ゆえ、大いに困惑」しばらくして昨今割算・掛算は少しは 解るようになったと吐露している。 どうも割算は引算の連続、掛算は足算の連続という基本が理解できなかったようだ。 それでも口だけは確かだった。 訪米咸臨丸艦長だったが木村提督が艦長に相談事をするといつも反論してきた。と閉口している。  勝は総務系人間だが小野友五郎は総務や天文学・航海学などマルチ人間であった。

左 勝海舟 中央 赤松大三郎 右 小野友五郎
写真出典:咸臨丸海を渡る 「土居良三/著」
勝海舟は微禄だが侍である。赤松大三郎は御徒士。小野友五郎は佐倉藩士。侍と徒士には越えられない鉄の天井(垣根)が存在した。 この写真を見るとき、福沢諭吉の「天は人の上に人をつくらず。人の下に人をつくらず。」を 実感する。 諭吉は帰朝後も海舟とは馬が合わなかったが恩に厚い人だった。木村摂津守の恩義には終生報いている。
赤松大三郎
後の海軍中将男爵赤松即良。渡米当時軍艦操練教授方手伝いで航海中は測量方であった。文久2年(1862)、オランダ留学を命ぜられ造船学、数学を学び、明治政府に出仕後は海軍兵学寮大教授・主船寮長官・主船局長を歴任し造船に貢献した。 更に佐世保・横須賀鎮守府長官をも務めた。
余談だか日露和親条約(下田条約)で国境線が確定した。択捉島とウルップ島の間を国境線とし、 この条約で樺太は日露共同統治であった。
小笠原諸島を確固たる日本領としたのは、訪米後咸臨艦長となった小野友五郎らの功績である。
雑学余話
市販されている一枚ものの一般的世界地図(百円均一販売を除く)では樺太(ロシア名・サハリン)の南半分(日本統治領)と千島列島は識別色が日本色でもなくロシア色でもない着色がしてある。 日本が終戦(1945/8/15)したと思っている日は交戦国にとって戦闘終結日ではない。9月2日東京湾における第二次世界大戦降伏文書調印(1945/9/2)の前日に歯舞群島はソ連に占領された。
■ ペリーショック 2
老中阿部正弘の苦悩は大きかった。来航以来佐賀鍋島藩に西洋式大砲鋳造を命じた。  佐賀藩は、藩士に発狂者を出すほどの 猛勉強を課した。 やがて戊辰、国産施条大砲を完成させ上野の山に籠もる彰義隊に向けて火を噴いた。 
安政元年(1854)7月、軍制取調掛を任命し、軍制改革に取り組んだ。 1855年(安政2)10月、蘭国から蒸気船 購入を図り、後の軍艦観光・咸臨・朝陽を入手。すぐさま長崎に海軍伝習所(1855年〜59年)を開設。  諸藩の希望者に門戸を開いた。 更に、1855年(安政2)、西洋式小銃1万挺の製造を命じ、かつ蘭国から小銃6千挺を 輸入した。続いて1856年(安政3)4月、講武所をも開設し西洋砲術の習得にあたらせた。  幕末諸藩輸入艦船一覧表 はこちら
阿部の政敵はこともあろうに御三家の水戸藩主・徳川斉昭(海防参与)であった。  阿部正弘は国内的にも国際的にも、もう少し大きく評価されいよい 政治家の一人と筆者は思う。
藩の枠を越え、それまで意識することのなかった日本人であることを意識するようになった。    火縄銃の射程ならびに西洋銃器の発達と射程はこちら

c.安政三年(1856)列強は通商条約の締結を迫った。
産業革命に成功していた英国は自国の工業製品の販路拡大を目指していた。 そして諸外国は上質な絹糸をも 求めていた。 当時絹は上級武士のみ着用が許され幕府の統制品的性格を有していた。 長崎でそれも幕府だけに 貿易が許されていた。 他藩は指をくわえてみているだけ。 すなわち、鎖国は幕府による貿易統制策であり唯一長崎で統括管理していた。

d.開国可否の諮問を求めらた諸大名・諸有司は
勅許を受けるべきだと答申した。 そして情勢は徐々に開国通商に傾いていった。
自分が判断せず都合よく天皇に賽(さい)を投げたにすぎないと筆者は思う。

e.反幕的な者や開国を心よしとしない者は
諸有司らは京都に集まって朝廷に政見を入説したから、当初開国もやむなしとしていた朝廷も次第に硬化し 開国に否定的となってしまった。 幕府と朝廷。 二つの政体が出現した状態となった。
関白鷹司政通は当時武士怠惰怯懦(たいだ・きょうだ)、で所詮国防は不可能とみなし西欧との交易やむなし。 と悟っていた。   公家の西欧への漠然とした不安の火付け役は海防参与(後に幕政参与)であった徳川斉昭である。  姉婿である関白に「通商を迫るペリーの行動は皇国侮蔑」であると吹きまくった。 よって、時の孝明天皇はとんでもない夷人嫌いになってしまった。 朝廷は夷人嫌い=攘夷の感を呈した。 そして、孝明天皇は通商条約締結を阻止するよう周囲にしきりに働きかけを行った。  いきおい通商条約拒絶の線でほぼまとまってしまった。  その折、老中堀田正睦(下総佐倉藩主 1855[安政2]/10/09〜1858[安政5]/06/23)は条約締結の 世界史的必然性を説いた。 感情論=朝廷と理論の激突である。  更に開国か攘夷か諸大名の意見を聴取し孝明天皇が決断を下せないときは伊勢神宮の 御神籤(おみくじ)に頼ろうと正睦に提案した。 ここまでくるとさすが筆者も朝廷のクソ馬鹿と叫びたくなる。  戦える武力も仕組みもなく、お神籤で「戦い」となったらどうする気だったのだろうか???・・・・・
この話(おみくじ決定)を聞いた正睦は関白の前で男泣きに泣いたと伝えられている。 現実主義者にとって死にたいほど情けなかったと思う。


堀田正睦は、藩主時代には蘭学を奨励し、佐藤泰然を招聘して順天堂を開かせるなど 蘭学好きであったことから、「蘭癖」と呼ばれた。幕末においては、 攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。
東に順天堂 佐藤泰然
西に適塾 緒方洪庵(おがた こうあん) 時代が人を産むのか、この国に人材(財)が輩出した。
【朝廷のクソ馬鹿は誰が演出したのか?】
関白鷹司政通自身は、開国論に立って日米和親条約締結派であったが、 若手公卿の批判を受けると一転して攘夷派となる。これが幕府の怒りに触れ、落飾し、出家した。
この若手公卿こそ岩倉具視である。反対派の公卿を集めて阻止行動を起こした (いわゆる「廷臣八十八卿列参事件・安政5年(1858)3月20日」)。1860年(万延1年)3月、 桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、公武合体をすすめ和宮降嫁を推進した。 このため、尊攘派の志士たちは岩倉を佐幕派として排斥しようと朝廷に圧力をかけた。 このため、京都洛北の岩倉に幽居した。 その後彼は大化けし倒幕派となり明治の元勲に名を 連ねる。

岩倉具視が潜んでいたところは京都市左京区。門跡寺院の名刹中の名刹岩倉実相院である。  平成10年(1998)10月、260年書きつないだ膨大な日記が発見された。 この中で会津容保や一橋慶喜はぼろくそに書かれている。

f.そんな折りに将軍継嗣問題がからんできた
当時の将軍家定(1853[嘉永6]/10/23〜1858[安政5]/07/04)は病弱であり、 かつ嗣子がなかった。 そのことが政治問題化し斉昭の子慶喜を推挙 する一橋派と、紀伊藩徳川慶福(よしとみ、後の将軍家茂)を推挙する南紀派の対立が起きた。  開国か鎖国か。 慶喜か慶福か。 重大な局面をさらに混乱させた。

g.南紀派の勝利と井伊直弼の登場(1858[安政5]/04/23〜1860[万延1]/03/03)
一橋派、南紀派の抗争は結局南紀派の勝利となり、混乱した幕政を立て直すために 小期間途絶えていた大老職を復活させた。 当初の目論見は老中職を束ねる名誉職的性格を 含ませていたが、大老の井伊直弼は決断と実行の大政治家となってしまった。
先にみたように斉昭と直弼には対西欧列強へのスタンスがまるで違っていた。 武力を背景として開国を迫る米国は悪とする斉昭と、直弼は西欧に対抗する武力がない以上現実的な 開国でソフトランディングしようとしていた。 朝廷にしきりに自説を吹聴する斉昭と幕府首脳が 推し進めようとしている開国路線は激しい対立を生む。 斉昭によって 朝廷=攘夷 幕府=開国 の図式である。  この時期斉昭がいなかったら幕末史は大きく変わったものになっていたであろう。

h.井伊直弼の決断と対応 その1
開国に決した直弼は世論の大勢を無視し勅許を待たず安政5年(1858)6月19日米国と通商条約を締結。 次いで 蘭・露・英・仏とも結ばれ、開国通商体制は整った。
先に述べたように、幕府阿部政権は開国か否かを諸藩に諮問した。大勢は「勅許=天皇の決裁」を得べし。であった。 彼は「政治は関東(幕府)に委任されている。 天皇の夷人嫌いは知れ渡っており 、国際的な孤立と彼らの覇権(武力恫喝)を考えたら「勅許云々(うんぬん)」 は総理の決断の範囲」と言い切っており、筆者も当然と思う。 しかし孝明天皇はこれに大反発した。
  井伊の見識と伝えられるものは こちら
そして、開港個所は長崎・函館・神奈川・新潟・兵庫であった。新潟は長岡藩領だったが幕府直轄領となった。 よって開港個所は全て幕府領となり貿易を独占する体制となった。 これが後に薩摩藩との摩擦に繋がり 彼の藩をして倒幕に向かわせる。
この時点では先の先になるが、慶応3年(1867)幕末パリ万博に幕府も薩摩も同時に出展する。  藩財政確立を対外貿易で図ろうとする試みであった。

※ 新潟は慶応3年(1868/12/07)に開港予定であったが幕府の要請により3カ月延期された。  実質新潟の開港は戊辰戦争になってからになってしまった。すでに幕府は崩壊していたので 東北諸藩の共同管理(1869/06 米沢・仙台・会津・庄内)となり開港した。 そして怪商スネル(和名:松平武兵衛) が暗躍する。
孝明天皇(がちがち攘夷)と結びついていた松平容保もちゃっかり会津戦争の武器弾薬を輸入した。容保は 政治家として君臨したかっただけと筆者は思う。 国際感覚、国防意識まるでなし。 

幕末開国をめぐる対決

ペリー来航 ・・・・・・・・・・・・ 老中阿部正弘(妥協政策)   朝廷に報告
ハリスとの交渉 ・・・・・・・・・ 老中堀田正睦(穏健政策)   朝廷工作失敗

注) 薩摩の攘夷と長州の攘夷は根幹部分で全く違う。薩摩の攘夷は単に日本の風習を知らない異人を斬殺したことから始まった。 一方長州は通商による庶民困窮の打開策としての攘夷だった。
i.井伊直弼の決断と対応 その2
10月慶福を次期将軍に擁立するとともに、一橋派の処分を断行した。 返す刀で開国に反対した 諸有司や京都に集まっていた尊攘志士の弾圧を行った。 世にいう「安政の大獄」(1858/09)である。
 吉田松陰刑死。
10月25日、家茂(1858[安政5]/10/25〜1866[慶応2]/811)。初名は慶福(よしとみ)。 、十四代将軍に就任。
戊辰の大乱後日本は佐久間像山、橋本左内の目指した方向に進む。その意味では少しばかり早く産まれすぎたのかも知れない。薩摩も薩英戦争を招いたが、その発火点となったのは、 この国の風俗を知らなかった英人を斬殺したことにある。すなわち、思想的背景のない単純攘夷である。歴史は、長州に萌芽をみた「民衆レベルの攘夷運動」が大きなうねりとなり、日本の歴史を大きく動かし明治維新につながった。
j.井伊直弼の暗殺
将軍継嗣問題で水戸斉昭を侮蔑した井伊直弼は水戸浪士に命をねらわれ 万延元年(1860)3月3日雪の桜田門外で 暗殺された。  運命のいたずらか、米和親条約が締結された6年前と同月同日であった。 直弼の退場で八方ふさがりだった孝明天皇(1846/02/13〜1866/12/25)の対幕関係の優位が復活する。
 ※ このあたりのところは「孝明天皇と一会桑」幕末・維新の新視点 家近良樹/著 に詳しい。

k.時の老中安藤信正は(磐城平藩 1860[万延1]/01/15〜1862[文久2]/04/11)
就任から2カ月も経たないうちに井伊直弼の暗殺となった。 藩主の嗣子が決まっていない内の藩主の死は改易(藩取り潰し)という厳然たる決まりがあった。 彦根藩を取りつぶしたらどうなるかは誰の目にも明らかだった。彦根藩士は全力を挙げて水戸徳川を攻撃するだろう。 譜代と御三家の争い となれば徳川幕府そのものの存続も危うい。 信正の奇手。 直弼は生きている。 この奇策で弥縫した信正は老中首座となった。 


これと同じよな奇策は平成の世の中でも発生した。 小渕恵三首相在は2000年4月2日に、脳梗塞を発症し 順天堂大学医学部附属順天堂医院に緊急入院する。 執務不能となり、内閣官房長官の青木幹雄を首相臨時代理に指名したとされる。 青木の首相臨時代理就任に際し、脳梗塞で意識を失いつつあった小渕本人に、 指名を行うことが出来たか否かが、野党・マスメディアに「疑惑」として追及された。 小渕が倒れたことを発表した青木の記者会見で、 記者から「脳死ではないのか?」との異議も出たが、青木はこれを否定した。 やがてタナボタ式に森内閣が誕生した。
安藤信正は直弼の強攻策を変更し、鎖国か開国で対立した朝廷と幕府の対立緩和策として 公武合体を推進し朝幕和合の一環として孝明天皇の妹和宮と将軍家茂との結婚を実現。 これにより 安政条約の勅許を得ることに成功した。 これにより将軍継嗣問題と勅許問題は解決したかに見えたが・・・
和宮の降嫁を承認しかつ開国勅許をだす条件に「嘉永年初頃」の対外政策に戻すという一項があった。  安藤・久世政権は「うんわかった」と答えた。 実行はしなかったけど彼は、本当にする気だったかもしれない。  天皇がなぜここまでこだわったのか。 それは下層民衆が物価騰貴に泣かされていた情報をキャッチし文久2年(1862)2月黄金50枚を 京都所司代に下し、山城国の貧者救済に使わせ、かつ根本的解決策を求めた。 安藤信正はまた、国益会所を作り、外国との貿易利益を幕府が一手に収め国内経済を統制すると共に、 幕府財政を立て直そうとしていた。
後に倒幕派公卿の岩倉具視は和宮降嫁に積極的に関わる。   宮の降嫁は対立する幕府と朝廷を融合し幕権を揺るぎないものとする当時考えられた最良策であった。  歴史評価的に云えば具視は佐幕である。
l.安藤信正の受難
しかし、和宮の降下は尊攘派の恨みを買い文久2年(1862)1月15日またまた水戸浪士に襲われ坂下門外の変で負傷。   死にはしなかったが後ろ傷を受けたとして失脚。 幕府崩壊の端緒は徳川一門の水戸藩浪士がトリガーとなった。
 安藤信正の解任は時期的にずれ込んでおり、受傷が原因とする説に多くの異議がある。 真相は闇の中。 ちなみに解任は文久2年(1862)4月11日。    幕末全老中在任期間一覧表 はこちら
m.幕府が諸藩に国政関与に路を開いたことで
天保の改革に成功していた西南雄藩の長州藩は文久元年(1861)11月出府し公武の周旋に乗り出した。  また、薩摩藩も翌年4月京都に登って幕府と朝廷の融和に尽力した。 一方庶民の生活は開国により 国内需給物資が輸出に回され物価騰貴と品不足に陥った。 よって諸藩の青年たちはその元凶は開国を 行った幕府とし、倒幕??の手段として攘夷をスローガンにした。
黒船事件以来、諸有司や志士と云われる若者らに 「皇国」=日本 の考えがあまねくひろまっていったのもこの時期である。
n.混乱の文久年間(1861〜64)
文久2年(1862)4月率兵上洛を行った島津久光は寺田屋で藩内志士運動(4月23日)を弾圧。諸藩の攘夷志士は 薩摩に絶望し長州に希望を託した。 当初公武合体を周旋していた長州では長井雅楽が退けられ 攘夷派が台頭し朝廷内の急進派と結んで攘夷の急先鋒となってしまった。
長州は攘夷、攘夷と叫んではいたが。どこをさがしても倒幕を考えた節はない。 攘夷の先の次なる 戦略的政治構想はなかったのでは・・・・
会津松平容保幕政参与(文久2年 1862)となる。

o.会津藩の政界進出(1862年 閏8月)
文久2年(1862)後半尊攘一色に塗りつぶされた京都に松平容保が守護職として着任。  国政的には、一会桑コンビと孝明天皇が結びついた。 一とは一橋慶喜。会とは会津松平容保。桑とは 桑名藩 容保の弟松平定敬(さだあき)である。 慶喜は将軍後見職就任 文久2年(1863)7月6日
その後の政治の混乱はこの3人+孝明天皇抜きには語れない。
翌文久3年(1863)3月将軍家茂が上洛。警護の目的で浪士組(後、新選組)が編成された。 家茂上洛により政治の軸足が江戸から京都になった。 将軍家権威の再構築を目指していたが 尊攘派に圧倒され、攘夷の期限を5月10日と約束させてしまった。
天皇は夷人嫌い。尊攘志士は攘夷を画策。 そんな中で容保(幕権確立派)が守護職。弟容敬が京都府警長官。 新選組(体制側)による血の弾圧が吹き荒れた。 尊攘派のテロに体制側がテロで応ずる。血を血で洗う 抗争が続いた。

■ 国政の混乱どころではなかったのに
西欧列強は虎視眈々と日本をねらっていた。 正直なところ公武合体工作や徳川幕府擁護問題など二の次であった。 外国からの侵略に備え日本列島防衛が真剣考えられていた。
日本軍事史;吉川弘文館発行 P263 図102
出典:日本軍事史;吉川弘文館発行 P263 図102

◆海軍建設構想

幕府軍制掛は、文久2年(1862) 閏8月、万国合従(連合)の襲来に備えて列島防衛海軍力を見積もっていた。  沿岸6軍管区15艦隊編成である。
T、東北備(函館四組)金華山から東海岸蝦夷地(北海道)一円
U、北海備(能登別所一組)日本海能代〜出雲竜崎。佐渡・隠岐
V、西北海備(下関一組)出雲竜崎〜肥前田付。御手洗・四国西部海域及び壱岐・対馬
W、西海備(長崎三組)平戸以南の九州沿海、琉球(沖縄)を含む
X、南海備(大坂三組)紀州大島〜四国沿岸。 瀬戸内海域
Y、東海備(江戸三組)太平洋金華山沖から紀州大島まで。 伊豆・小笠原
海域防衛に必要な艦艇見積もりはフリゲート艦45隻。コルベット艦135隻。 兵員士官・下士官 5,460人。 海兵卒7,510人。 機関課甲板員48,235人 合計61,205人。  これの統一的運用を図るために海軍大権の統一が急務と答申した。 もはや幕府や藩の枠を越えた政体 が望まれた。
日本の国家的独立のための近代的軍隊、特に海軍の建設は、 必要不可欠であった。しかし、近代的な軍隊、特に海軍の建設と維持には、 艦艇の購入・建造、海軍士官・水兵の教育や養成、ドック・ヤードの建造と工場施設の整備、 技術開発、糧食・武器弾薬等の補給システム、そしてこれら全体を支える徴税・ 財政システムといった近代的国家装置を必要とした。 老中阿部正弘の模索した軍事リアリズムは ここまで見据えていた。

この後の会津や桑名藩の行動行為が限りなく矮小だったことを知って欲しい  最後の将軍慶喜は内戦の危機を回避するため謹慎し、また、日本に統一政体の必要を感じていればこそ勝海舟は江戸無血開城を決断した。


p.攘夷の期限文久3年(1863)5月10日を受けて
長州藩は関門海峡を通過する米・仏・蘭の艦船砲撃を決行した。  このような攘夷派伸張をおそれた幕府や会津、薩摩の公武合体派は8月18日中川宮を 中心とし朝廷を改革し、朝廷激派の7卿は長州に落ちのびた。 朝廷は再び公武合体派 の支配するところとなり、長州藩は撤退を命じられた。 これで中央政局において攘夷派勢力は後退した。
新政体を目指して、文久3年(1863)8月17日に吉村寅太郎らによって 「天誅組の変」発生。 盟主中山忠光。
この8月17日夜。中川宮・近衛父子・二条・大徳寺公純らは突如命令を発した。
「非常の大議あるを以て、守護職・所司代各人数を率い、翌18日子の半刻(午前1時頃)を 以て参内すべし、且薩摩藩にも此旨通達すべし」
 文字通りその時歴史は動いた。 天誅組の変空振り。

この年、長州の伊藤博文・井上 馨・井上 勝・遠藤謹助・山尾庸三の5人英国留学。
伊藤博文・山尾庸三は塙次郎暗殺の被疑者である。彼らは留学のリストに入っていなかったが 伊藤独特の周旋で加わることになった。横浜から出航。初代造幣局長 遠藤謹助。  東京大学工学部創設 山尾庸三。 日本の鉄道の父となった井上 勝(後、野村弥吉)。 薩摩人五代友厚なども英国密航留学している。 当然バレれば首が飛んだ。 ロンドン大学で学んだ彼らの学習態度は英人をして感嘆させている。 隣国どこの国とは云わないが、大挙して犯罪者を輸出している国と大違いであ。

「8.18政変」と呼ばれる政変劇発生

朝廷は三条実美らの攘夷急進派が主導権を握っていた。彼らは長州と結び、 外国に門戸を開けてしまった幕府を倒して天皇の親政を実現すべきだと 考えていたが、孝明天皇は公武合体派で、かつ夷人嫌いだった。 孝明天皇は中川宮に密かに指令を出してクーデターを決行する。
8月18日九つ半(午前1時)。中川宮、近衛忠熈、二条斉敬、以上公家。
松平容保(会津藩)、稲葉正邦(淀藩)らが密かに参内、御所の門は全て固く閉じられて 会津藩・薩摩藩らの兵によって厳重に警護さた。
その中で御前会議が開かれ、攘夷急進派の公家の参内停止と謹慎、長州 藩の堺町門警衛解任などが議決された。異変に気づいた三条実美らが駆け つけたが中に入ることはできず、長州兵も堺町門へ行くが会津藩 の兵とにらみ合いとなり近寄れなかった。
攘夷急進派はやむを得ずいったん長州へ退いて再起を期すことに決し、 翌19日、三条実美ら七人の公家が神戸を経由し長州へと落ち延びた。(七卿都落ち) はこちら
朝廷の主導権は公武合体派が握り一橋慶喜・松平春嶽・島津久光・山内豊重・ 伊達宗城・松平容保が集まって参頂会議を開き、政治の主導権をとることになった。

長州による関門海峡通過船舶の砲撃後に
幕府軍制掛が予見したように本当に万国合従の連合艦隊が下関に来襲した。砲撃されてもいない 英国が主導権を発揮して長州に襲いかかった。


時移り、鳥羽・伏見の戦い(1868/01/03〜)で敗走する幕府軍や会津・桑名の兵を淀藩(稲葉正邦・幕府老中)は城門を固く閉ざして一兵たりとも 入れなかった。 幕府老中を首になりそうだが慶応4年(1868)2月22日まで務めた。八.一八政変で会津容保と共に指揮した 大物が勝敗の去就定まらぬうちに変節した。 幕府軍の竹中重固(しげかた)や滝川具挙(ともたか)には確実に変節と写ったはずだ。
ただ、慶応2年(1866)6月発生した第二次長州戦争でも竹中重固率いる幕府軍は本気で戦うそぶりもなく、この時期まで 幕府軍を率いられた体質こそ問題であろう。

q.禁門の変と第一次幕長戦争
徳川慶喜・松平容保主導による先の、参頂会議で京都政局の座から追放された長州は、 翌元治元年(1864)6月池田屋事件に激発され長州は武力でもって京都政局の主導権を 確立しょうとし上洛。 公武合体派会津・薩摩の兵と蛤御門において戦闘(7月19日)を行った。 また関東では 水戸藩の一部がこれに呼応し筑波山に挙兵した。 京都の戦いは長州の敗北に終わり、筑波天狗党も 諸藩追討 (12月16日 加賀藩に降伏 352人が処刑、処刑は藩主井伊直弼を殺害された彦根藩が担当) のまえに潰えた。  戦いに敗れた長州の江戸・大坂藩邸の没収と破却が行われた。 長州江戸藩邸吏員は逮捕され諸家に 預けられたが過酷な仕打ちが待ちかまえていた。 確認できる死者は52人に達する。
勢いに乗じた幕府は8月2日35藩の15万の兵力を動員し長州の四境に迫った。
元治元年(1864)9月5日、土佐の心ある青年たちが長州藩の困苦を救わんとして野根山の関所に結集。 脱藩前に捕らえられ奈半利河原(高知県安芸郡田野町)で斬られた。その数23人。 世にいう奈半利河原の惨劇(悲劇)。 十六才が2人。 人が何かを成さんとするときは 文字通り命を賭けた。 藩権力という装置の中で彼らの命は本当に軽かった。 維新後全員贈位。

r.全世界を敵に回した長州
元治元年(1864)8月5日17隻もの大艦隊で関門海峡に殺到した。 報復という側面からなら加わる理由もないイギリスは全く政治的、経済的理由で9隻もの 戦闘艦を参加させた。そして長州の庶民が死んだ。
関門海峡(山口県下関市)では多国籍軍と長州の国境では35藩の大軍が押し寄せ藩存亡の危機に立たされた。
長州の選択。 禁門の変軍事指導者福原越後ら三家老の切腹。 恭順謝罪。 幕府はこれで手討ちを行った。

s.恭順謝罪後長州では
長州藩内、激派は恭順派との内訌戦(大田・絵堂の戦い)に勝利。 政権を手中に対外的に武備恭順を装った。  一方薩摩は貿易が幕府の 掌中に一方的に収まることから反幕に転じた。 慶応元年(1865)1月下旬八.一八政変以来犬猿関係にあった 長州と薩摩は坂本龍馬の斡旋で同盟成立をみた。 それを知らない幕府は慶応2年(1866)4月、諸藩に 第二次幕長戦争参軍命令発令。 だが動員諸藩内の内実は財政が破綻し、年貢負担に耐えかねた百姓は 随所に一揆を起こした。 

t.第二次幕長戦争
長州の政権交代に危機感を抱いた松平容保と一橋慶喜理由にならない理由(藩内政権交代)で 長州攻撃の軍令を発した。 そして、 慶応2年(1866)年5月時の将軍家茂は江戸を発し大坂城に入った。  幕府は、紀州徳川茂承(もちつぐ)を先鋒総督とし、動員32藩の配置を定めた。 薩摩藩は日本海側萩口(山口県萩市) から攻撃する手はずだったが辞退されてしまった。 (辞退通告:慶応2年(1866)4月14日、薩摩大久保一蔵対老中板倉勝静)
戦争遂行に必要な兵糧や物資は膨大な量にのぼり駐留する経費は毎月17万4千両に達したという。

それでも、慶応2年(1866)6月7日幕艦による大島郡(屋代島)の砲撃で戦端は開かれた。 薩摩の斡旋で 新式兵器を手中に収めた長州は大村益次郎による軍制改革により小倉口・石州口・芸州口・大島口の 各戦線で勝利。 そうした中、7月20日将軍家茂が大阪で急死。 長州征伐はうやむやのうちに止戦。 小倉城占領。浜田城占領。 幕府の威信は地に落ちた。
第二次幕長戦争の失敗は、幕藩体制下の軍役体系が実際に機能しないことを露呈した。15万人ともいわれる 軍事動員にもかかわらず、各戦線1千人の長州兵に蹴散らされた。 洋式編成された諸藩はまだしも、旧来の 装備と軍役で構成された部隊は施条銃散兵戦闘の長州兵に全く歯がたたなかった。
-- 余話の余話 --
広島戦線の先鋒担当彦根藩。  帰還し全藩士会議開催。 将軍が家茂だから参戦したが 次の元首に一橋慶喜となることが確実視された。 彦根藩にとって先の主君直弼殺害藩出身者である。 こうなると徳川恩顧もくそもなくなった。 袂を分かつ決断をした。

u.徳川慶喜の登場
就任した慶喜は、幕府の機構を改革し内治外交の刷新に努力したが、 慶応2年(1866)12月公武合体思想の孝明天皇が崩じ、明治天皇の即位によって 尊攘派公卿の岩倉具視が中心となり、薩・長・芸・土の諸藩と気脈を通じ倒幕を進めた。
第二次幕長戦争で旧来の軍役制度の欠陥をいやほど知らされた幕府は、次なる幕長戦争に 備えて旗本軍役の改定に着手した。「慶応改革」である。 48大隊 24,000人 の構想だった。 慶喜は諸大名に「皇国の武威」を示す必要性を説いた。 聞いた大名はその必要性を認めながら 藩財政の破綻と武士の鉄炮離れでまともな軍制改革をなしえなかった。 兵制を調えたとて 士官教育をする手だてもなかった。 そして10月には第三次幕長戦争に備える大名軍役令が 考えられていた。 長州に勝つことで、かっての幕府の武威を確立し政治主導権を手中にすることを 考えていた。

◆ 孝明天皇の急死
孝明天皇の急死に対して、討幕派の岩倉が毒殺したのではないかという風評まで飛び交った。 みてきたような背景から 暗殺は現実味を帯びますね。

v.倒幕の密勅
慶応3年(1867)10月14日に倒幕の密勅が薩長両藩主に伝達された。  慶喜も起死回生の大博打を打った。 10月14日、将軍慶喜は大政奉還を おこなって政治的主導権の回復をもくろむが小御所会議であっさり承認。 これにより、徳川幕府は15代265年にして滅んだ。
慶喜の本意は、徳川家が雄藩の一つとなり、天皇を中心とした公儀政体の一翼を担うことにあった。
12月9日王政復古のクーデターが断行された。総裁・議定(ぎじょう)からなる新政府が誕生した。

w.岩倉具視一派らは
新政体から徳川を除外しただけでなく辞官納地を決定した。 これに憤激した幕府方の会津・桑名との 間で鳥羽伏見の戦い(1868/01/03〜5)が起こった。 薩・長・土の兵装の違いが戦いを決定付けた。 新選組もこの戦いに参加したが 刀槍の戦いが過去のものであることを知る。
この戦いこそ、戦略のなさは戦術で補完出来ず、戦術の間違いは局面戦闘でカバーできないというを 現実を痛いほど攻撃側に知らしめた。 慶喜は容保とその弟定敬を拉致同然に引きつれて幕艦で江戸に 逃げた。そして6日、早々に海路江戸に帰還した。  新政府は直ちに慶喜追討の軍を組織(1868/01/07)し、江戸に向かって軍事行動を起こした。 また、新政府への帰順工作もおこなわれ西南諸藩は以外にあっさりと帰順。困難視されていた 桑名藩(藩主定敬は逃亡)も帰順し大勢は決した。 もともと定敬は養子であり、藩内で 藩主に従うか新政府かの葛藤はあったが、藩主だァー組は逃げた藩主を追って逃亡してしまった。
1868年2月6日、東海道先鋒総督に橋本実梁(さねやな)とし、薩摩藩以下12藩兵が従った。 東征軍は近世以来の軍役動員方式に準じていたが新政府は参軍諸藩に「銃隊・砲隊」以外は認めなかった。 つまり、洋式の銃隊・砲隊以外は必要ないとしたのである。 武士の崩壊が目前に迫った大変革で あった。

x.内戦の発生を恐れた慶喜は
江戸に退去し恭順を表した。勝海舟の交渉力が功を奏し征東軍は4月11日(1868)江戸に無血入城を果たした。 幕臣のうち不満をいだくも者は彰義隊を組織し新政府軍と戦った。また、幕府海軍も接収に反対し江戸湾 に遊弋していた。これに対して海軍力を持たない新政府軍は手も足も出せなかった。  また、旧幕府歩兵奉行の大鳥圭介らは数千の兵を率いて江戸を脱走。一方彰義隊も徳川家存続への圧力 を掛けた。 新政府は大村益次郎に軍事をたくし5月15日上野彰義隊を攻撃。1日で潰走させた。また、別の 一派を武州飯能で潰滅させた。 これにより残存幕兵や不満浪士らは北、すなわち東北方面に 武装したまま逃走してしまった。

y.会津藩討伐
先の将軍徳川慶喜は家臣以下ひたすらに新政府に恭順の姿勢を示した。 政治主導力を手中にした 長州藩首脳は、慶応2年6月さしたる理由もなく 長州攻撃の主導者だった松平容保(会津藩)追討を決定。実施に踏み切った。 殴られたら殴り返すのが 当時の常識である。 会津には殴られる理由があった。 第二次長州戦争の火付け役が松平容保であった。
当時の会津藩は自己の保身に手一杯で、日本の内憂・外患を顧みて対処する片鱗すらなかった。  京都の治安を守った。よって会津は正義と思う方たちに問いたい。 第二次長州戦争は当時の日本が 避けて通れない道だったのか??。 西欧列強に対峙できる新しい政体を造ることこそ急務であったはずだ。
会津は、幕府崩壊で多量の武器を手に入れ非常に危険な存在であった。 新政府は会津藩討伐の決意を固め、東北諸藩に鎮撫使を派遣。 討会の準備を進めさせたが仙台・米沢藩が主軸となって 白石同盟を結んで新政府軍に反抗し、いわゆる東北戦争、戊辰の戦いの火ぶたが切って落とされた。
内憂・外患の現状から鑑みれば東北諸藩の反抗は全く生産性のない無謀な挑戦であった。  実際のところ、大鳥圭介に率いられた幕府残存部隊や佐幕派の浪士兵が武器を携え逃避行を続けており 、彼らに武装解除させる政治力が必要だが、当時の米沢・仙台にそんな人材は望むべくもなかった。 そして 戦争になった。  しかし、1868年5月以降新政府軍東北道の攻勢はほぼ順調に推移したが北越戦線は膠着状態だった。 新潟港から同盟側に鉄炮と銃弾が供給される一方、新政府側に輸送船が不足し補給が十分にできなかった ことによるといわれている。 ついに7月25日、新潟港の東側、阿賀野川に近い太夫浜・松ヶ崎に 兵1,000人を上陸させたことでやっと開港地新潟が陥落。 同盟側は補給を絶たれた以上 、継戦は不可能で勝敗の行方はもはや明らかであった。 そして、長岡藩首脳部は逃亡し、米沢・仙台・ 庄内と次々に降伏していった。 最後に残った会津も、9月下旬若松城が陥落し東北戦争も終わりをつげた。  江戸湾に遊弋していた榎本艦隊は東北を目指して出帆し北海道五稜郭に籠もることになる。  翌年5月、五稜郭攻めが行われ約1年4カ月にわたる戊辰戦争はその幕を閉じた。

z.戦没者慰霊と招魂社
戊辰戦争の論功行賞の財源は100万石とし、永世・終身・年限・一時の4種を現米で与える こととした。 また新政府は1868年5月、嘉永6年(1853)以降の国事殉難者を京都東山霊山に祭ることを命じ、 その後数次にわたり戦没者・戦病死者を届け出させた。 上野戦争(彰義隊)ののち江戸城内で 式典が行われ、1869年6月、九段に招魂社が造営された。ここに戊辰戦争で戦陣にたおれた3,588人が合祀された。 政府はこれに祭祀料1万石を付与した。これが靖国神社の起源である。 戊辰戦争で賊軍とされた陣没者は 含まれていない。 外国人や外国公使館を襲撃して殺された尊攘派の者も国事に殉じたとして合祀されている。  一般通念や国際法令にてらしても彼らは単なる犯罪者と筆者は思う。 さらに禁門の変で倒れた長州兵も合祀された。  その当時は賊軍であった。 また禁裏を守り死亡した会津藩兵が合祀されるのはその数十年先となった。  その意味でこの招魂社(靖国神社)設立は当初から政治色の濃い国粋主義的な神社であった。


---- 百万都市江戸その後 ---
参勤交代制も廃止され徳川家も退去し旗本や御家人も給料地に戻った。御家人は徳川家に従属し退去。 各藩の江戸屋敷は公収された。 よって江戸の人口は一挙に半減した。 その救済策が首都移転であった。

当サイトの写真その他記事内容等をご自身のサイトに掲載する場合管理者の了解を取って下さい。
第二奇兵隊取材班
E-mail   お問合せ、ご質問はこちらへ
ADDRESS Kudamatu City S.K.P
Version 1.00 (C)Copyright 1999/2001

JOY Searcher    Yahoo!JAPAN    総目次に戻る