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| 1.津山藩(岡山県)元大砲奉行の自嘲回顧録 | |
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幕末イギリス式兵制の導入を試みたが、士分の者は槍を望み、銃を恥じて、銃隊に編成されるのを
頑なに拒んだ。そのため銃隊の編成は困難を極めた。慶応4年(明治元年 1868)に「始めて士に卒(足軽)
と伍して銃を執らし」めたが、足軽同様の練兵に士分は激昂し、「藩士の卒と伍するを恥ちて紛囂(ふんごう)
尤甚し」く、藩内は騒然となった。元亀天正(1570〜1573)の頃より、武士は槍を執り、卒は銃を持つの久しく確しと・・・・以下略 結局津山藩は武士に銃を執らすことが出来ず農兵でもって銃隊を編成した。 侍が鉄砲を持たなくなった要因 はこちら 近世大名家臣の社会では上士層(侍)は、下情に疎く能力に乏しく、その威厳を保つ必要があって 、複雑な儀礼や因習にこだわった。軍事組織としての近世大名家臣団は、そのため全く実用性・機能性 を失うという欠陥を抱えて幕末動乱の時代に突入翻弄された。 日本全国おおむねこんなものであった。 話はかわって太平洋戦争中1銭5厘(招集礼状葉書代)で集められた人々を兵卒と呼んだ。卒とはその昔人間として扱われなかった人たちに用いる言葉であつた。巷でこんな言葉がまかり通って いた天皇制国家とは何だったのだろうか?。 | |
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| 2.長州庶民軍の武装 |
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第二次長州戦争時(1866)の遊撃軍行進図である。すでにチョンマゲなし、腰に大小はたばさんでいるいるが全員小銃を肩に掛けている。
当時日本最強の戦闘集団であった。 一方、第二次長州戦争時、敵対する幕府方諸軍はいずれも甲冑陣羽織を着用していたとある。 脱隊隊士の軍服は紺色、陣羽織、襠高袴であった。(田中東蔵文書 岡山県史二六号) |
| 【画像 山口県周東町正蓮寺蔵 周東町教育委員会編 諸隊の雄 遊撃軍に掲載 遊撃軍行進図部分】 |
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襠高袴(まちたかばかま) 馬袴。馬上で脛(すね)が出ないように袴の内股の部分を高くしてある。 裾には野袴黒天鵞絨(てんがじゅう・ビロード,ベルベット)の縁を付ける。旅行用にも用いるが、その場合は騎馬用のものよりは襠を低くする。 |
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長州藩は、元治元年(1864)2月、それまでの兵学寮を兵学校とし同年4月、
村田蔵六(大村益次郎) を洋式陸軍士官養成総責任者とし、飛躍的発展を成し遂げた。
そして三兵塾(実技)と三兵科塾(理論)に分けた。 さらに、慶應元年(1865)5月、村田蔵六を軍事改革の中心者として藩政の中枢に名を連ね、 桂小五郎(総理)、広沢真臣(国務大臣) らと改革を推進。彼に近代軍事力の創設全般を委ねた。 山口県周東町通化寺蔵 遊撃軍歩兵操典 ==> |
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| 前年購入した銃器(ミニエー銃 4300挺 ゲベール銃 3000挺)は4月、藩士卒に伝家の鎧兜、火縄 銃を売り払いミニエー銃を年賦で購入(18両)するよう命じられた。入門第一期生には 「小銃技芸より、小隊運動ならびに司令の法則を学ぶ」とされた。 奇兵隊ほか諸隊以外にも 藩士、足軽、中間まで銃隊が編成されるに至った。 購入した銃器の製造国は不明だが 倉敷中畝に遺棄された銃弾が脱隊兵のものだとしたら口径が16.5mmであり オランダ製となる。 --- (回天史第五編第47章) --- |
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士官教育は合理性を培うための数学、指揮官としての資質向上、率先垂範、部下の扱い、野戦築城術、
射撃遮蔽物活用術、散兵攻撃隊形など多岐にわたった。
また部隊編成を
分隊 5〜6名 小隊 約30名(6分隊) 中隊 約90名(3小隊) 大隊 約300名(3中隊)とした。
軍事における指揮命令系統の一本化。軍事教練の統一化。軍事用語と号令の統一。軍装の軽装化。兵站線の確保と攻勢終末点教育。
さらに戦闘局面術として、戦場事前偵察。将校斥候等の必要性などを士官教育とした。 ハードウエアとして銃器の刷新を図り、ソフトウエアとして士官教育を行った。 隊員は当時の常識を否定し主人に隷属せず上官の指揮命令に従わせた。 |
| 3.佐幕諸藩の鉄砲戦力 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 北越東北諸藩はたったこれだけの銃器しかなかった。戊辰(会津)戦争敗因は純軍事的にみると、武器の質的、量的、近代戦に於ける兵員練度に問題があった。 また会津は、一番情報が集まる時期京都守護職であったので、 軍事を学ぶ絶好の機会があったはずである。 |
| 4.明治維新期 長州藩所持銃数 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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それでも福島藩、藩主一同家臣全員が米沢藩を頼って来藩した際、抜刀した米沢藩士に恫喝され追い返されてしまった。
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| 閑話休題 通化寺に残る遊撃軍の思い出 ある若者の死 | |
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【木下谷五郎】 彼は22才で小瀬川口の戦いで戦死した。豊浦郡小月橋本今蔵の子供である。幼くして実母と離別した。禁門の変に参戦。 負傷したが京都市民に助けられ脱出に成功した。明治維新は彼のような犠牲の上で初めてなった。 |
| いきさつはどうであれ戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の盟主であった仙台藩(会津藩も)のこの装備で西軍に対抗しうると 判断した藩内上層部の根拠はなんだったのだろうか?。 自軍の現状分析もせず敢闘意識と 刀槍で対抗出来ると考えた者たちにはあきれてものが言えない。 |
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慶応4年4月、奥羽鎮撫総督府傘下長州藩桂太郎(参謀添役。後の総理大臣)麾下兵の調練を見た仙台藩士たちは、その動き
に瞠目したとある。 黒服、肩に錦布、後装銃さらに弾薬入れと短剣を吊した革帯、背の太刀、しかも靴を初めて目撃した。
[教育社発行 山田野理夫著:「東北戦争」] 上野戦争(彰義隊)以降長州兵は後装銃(スナイドル)を使った。操作不慣れで一時退却の醜態を演じた。 |
| 5.国家像の形成 |
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西軍の前線指揮官の優劣以前の問題である。
技術革新や体制革新を置き去りにしながら現在まで山口県に恨み節を引き継いでいる。これもおかしい。
幕藩身分制温存でよかったと考えているのだろうか?。 今回の主題からそれるが、奥羽越列藩同盟側は藩(家)という呪縛から逃れていない。 幕末長州の久坂玄瑞は攘夷運動に大きな影響力を藩内でもっていたが彼は藩(家) をはるかに越えた外国からの武力をちらつかせた圧力に対し、藩の枠を超えた在野有志との連合と行動こそが 大義(民衆の支持)にかなうと力説(土佐 武市瑞山への手紙)した。 彼の眼中には新しい国家像が形成されていた。新選組(親幕)による 池田屋事件(倒幕在野の志士殺害) で長州藩は激発し「禁門の変」に突き進んだが、戊辰戦争における奥羽越列藩同盟側のどんな 記録を渉猟しても大義となる国家論が見あたらない、同盟側は大義なき抵抗を試みたに過ぎないと筆者は思う。 大義なく実力(新編成組織と優秀な火力)なくいたずらな抵抗をし自滅自壊した。 |
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