全 国 諸 藩 の 鉄 砲 戦 力 南坊平造論文より

1.明治維新期の各藩鉄砲戦力
 人類の歴史に国という概念が発生して以来。 外交とは戦力(武力)という戦略的資源を背景に繰り広げられた。戦力なき外交は無きに等しい。
石高単位:万石
藩名 石高施条砲大砲総数後装銃数前装銃数小銃総数
鹿児島 77.1 50 290 2,620 19,997 22,617
熊本 54.0 72 108 0 5,400 5,400
福岡 52.0 0 104 665 674 6,294
佐賀 35.7 45 201 3,241 3,286 6,533
唐津 6.0 7 33 58 591 1,169
久留米 21.0 28 42 0 2,100 2,100
小倉 15.0 11 38 0 2,255 2,255
山口 36.9 109 220 内訳別表24,033
広島 42.6 42 85 0 4,200 4,200
岡山 32.5 17 89 0 6,786 8,326
徳川幕府 500.0 394 1,500 11,252 60,600 75,000
会津 28.0 23 86 332 3,394 4,200
庄内 17.0 14 51 201 2,061 2,550
白河 10.0 5 20 79 808 1,000
長岡 7.8 6 23 92 945 1,170
敦賀 5.0 2 10 40 405 500
金沢 102.3 146 205 64 10,570 10,634
福井 32.0 44 48 816 2,210 3,026
彦根 25.0 18 68 629 2,825 3,454
桑名 11.0 7 22 0 500 500
名古屋 62.0 5 124 0 8,300 8,300
鳥取 32.5 10 65 0 3,250 3,250
松江 18.6 32 101 1,210 2,212 3,422
和歌山 53.5 40 105 3,865 7,866 10,836
徳島 28.5 39 259 1,829 5,339 8,233
高知 24.2 0 100 0 7,077 7,128
松山 15.0 22 22 0 1,500 1,500
宇和島 10.0 7 38 211 666 1,120
仙台 62.6 0 84 533 5,727 6,260
秋田 20.6 11 111 0 6,879 10,516
盛岡 20.0 3 30 0 300 300
米沢 15.0 0 18 60 900 960
二本松 10.1 2 12 0 60 60
出典:軍事史学 通巻49号第13号第1号(1977年6月)
南坊平造論文  東京都立中央図書館蔵
左表は明治3年(1870)廃藩置県の際、明治新政府が全国諸藩に所持する武器等の調査報告を命じたものから、 主要諸藩を整理したものである。

幕末馬関戦争(毛利藩・1863〜1864)において 近代装備の西欧列強と戦った 長州は近代的兵制と装備でないと 列強と戦えないことを知った。一族郎党を引き連れ武器や装備を自己負担で近代戦闘に臨んでもまったく 役にたたないのである。西洋式兵制は武士の単身化を促進し個人の能力の時代に突入した。 長州藩は大村益次郎を得たことで軍制を機能的・能力的にさせた。近代戦での勝敗は戦術以上に携行銃の単位時間における発射 弾数と物資の補給(武器弾薬)及び局面動員兵力差である。 よって彼は携行銃器の統一化を図った。
 近世大名家臣団の内部矛盾(武士内差別化) は西洋式銃隊を編成(侍は銃を担がなかった) できなかった。大名家の軍事手段は各自の私物で構成されたが、長州藩にあっては藩庫の一括管理となり鉄砲を携帯しない 、また担がない戦闘員は無用となってしまった。 よって侍層が足軽の数百倍・数千倍の俸禄を食む理由が全く消滅してしまったのである。近代的兵制を採用していない国内300諸侯が 長・薩両藩に戦闘で勝てるわけがなかった。

第二次長州戦争の敗因は、携行銃に問題があることが判明した後の徳川幕府の対応は早かった。フランスの軍事顧問を迎え瞬く間に近代装備を充実させた。 すなわち、ハードの整備をおこなったもののソフト(人材育成)への対応が出来なかった。
なにしろ武士は鉄砲を持とうしなかったのだから。兵は旗本からの徴募に頼った。

盛岡と秋田藩の石高はほぼ同一であるが、武装については圧倒的な違いがある。理由は、当初から西軍に組みしたことで近隣諸藩に領土 を蹂躙されてしまった。反撃するために武器類を西軍が援助した。 会津の戦い考 はこちら
彦根藩も幕長戦争の先鋒を担当したが携行した銃器、大砲は前世代の遺物であった。 鎧袖一触のつもりだったが逆に鎧袖一触半日の戦闘で戦線は崩壊。二度と戦場に立たなかった。 筆頭親藩の彦根は慶喜が次期将軍と決まるや 怨み骨髄(水戸浪士による藩主暗殺・井伊直弼)に染みており、鳥羽・伏見の戦いから新政府軍に加わった。 幕長戦争装備の大砲にライフルは刻まれていなと河瀬戦闘報告書に書かれている。上野戦争以降長州藩では 全ての装備が一新されスペンサー銃や大砲は全て施条砲に切りかえた。
<明治維新初期 長州藩所持銃数>
T前装 単発ミニエー 17,607
U後装単発レカルツ3,702
シャスポー 66
スナイドル 1,313
その他  100
V 連発スペンサー607
ヘンリー638
合 計24,033
 スペンサー7連発 ヘンリー13/16連発
 ミニエー銃数は既知後装銃総数からの差引数
左表 南坊平造論文では長州藩から先込銃としてミニエー銃の報告はない。その他の銃とある。  では当時の長州にミニエーはなかったのかというと間違いなく存在した。慶応2年(1866)4月14日備前藩(岡山藩)は 第二奇兵隊に戦書を交付した。これに対して奇兵隊側は
「長短ミネールケベール取合四十挺当地残し置候間、出格之御仁恵を以尊藩へ御預一入奉希上候」 この地を撤退するがいくばくか銃器を貴藩に預けるので宜しく。  と当事者である立石、櫛部の連名で備州出張総督宛返書をしたためている。この場合「長短ミネール」とあり、 すなわち三ツバンドミニエー銃を遺棄したのであろう。  また、短ミニエー銃もあったのかもしれない。
次に回収側(蒔田、浅尾藩)の記録で、ケべーエル古筒五十三挺 内三挺大損シ。同新筒十三挺。とある。  この新筒が長ミネール銃に相当すると考えられる。当時の長州藩には長短の先込装条銃があった。立石一行の脱隊により銃器不足に陥った第二奇兵隊に5月2日付で 長短装条銃十四挺送付した記録が残る。

山口市鋳銭司郷土館展示の二つバンドミニエー銃。口径からオランダ製と考えられる。
レカルツ銃について
所荘吉著 古銃辞典に Westley Richards rifle (ウエスト・リチャード銃)を別名リシャール銃ともレカルツとも呼ばれている書かれている。 説明に前方枢軸活罨(かつあん)式で遊底後部にある握手を上に持ち上げることにより薬室開放することができる。激発機は雷管外火式。


長州藩の銃数からみる限り戊辰戦争はスナイドル銃でなくレカルツ銃で戦ったことになる。
西南戦争を記録する会編 西南戦争之記録第1集に 大正三年陸軍砲工学校教材の本邦製小銃弾薬一覧表と弾丸・薬莢の実測図がありその中でレカルツ実包が 掲載されている。

スナイドル銃(英)
慶応4年(1868)5月15日展開された上野戦争(彰義隊)で長州隊士に後装銃(スナイドル銃)が渡された。彰義隊との銃撃戦で操法不慣れで一時撤退する不手際が史書に見える。
維新初期長州藩所持施条銃数及び名称は次の出典による。
 軍事史学・通巻49号第13巻第1号 南坊平造論文 注)同論文、表により銃数の差異あり
 世界鉄砲史(上・下) 岩堂憲人:著 国書刊行会

 南坊論文での銃名を鉄砲史により推定している。


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