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| 1.明治維新期の各藩鉄砲戦力 | ||
| 人類の歴史に国という概念が発生して以来。 外交とは戦力(武力)という戦略的資源を背景に繰り広げられた。戦力なき外交は無きに等しい。 | ||
| 石高単位:万石 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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盛岡と秋田藩の石高はほぼ同一であるが、武装については圧倒的な違いがある。理由は、当初から西軍に組みしたことで近隣諸藩に領土
を蹂躙されてしまった。反撃するために武器類を西軍が援助した。 会津の戦い考 はこちら
彦根藩も幕長戦争の先鋒を担当したが携行した銃器、大砲は前世代の遺物であった。 鎧袖一触のつもりだったが逆に鎧袖一触半日の戦闘で戦線は崩壊。二度と戦場に立たなかった。 筆頭親藩の彦根は慶喜が次期将軍と決まるや 怨み骨髄(水戸浪士による藩主暗殺・井伊直弼)に染みており、鳥羽・伏見の戦いから新政府軍に加わった。 幕長戦争装備の大砲にライフルは刻まれていなと河瀬戦闘報告書に書かれている。上野戦争以降長州藩では 全ての装備が一新されスペンサー銃や大砲は全て施条砲に切りかえた。 |
| <明治維新初期 長州藩所持銃数> | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 次に回収側(蒔田、浅尾藩)の記録で、ケべーエル古筒五十三挺 内三挺大損シ。同新筒十三挺。とある。 この新筒が長ミネール銃に相当すると考えられる。当時の長州藩には長短の先込装条銃があった。立石一行の脱隊により銃器不足に陥った第二奇兵隊に5月2日付で 長短装条銃十四挺送付した記録が残る。 |
![]() 山口市鋳銭司郷土館展示の二つバンドミニエー銃。口径からオランダ製と考えられる。 |
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レカルツ銃について 所荘吉著 古銃辞典に Westley Richards rifle (ウエスト・リチャード銃)を別名リシャール銃ともレカルツとも呼ばれている書かれている。 説明に前方枢軸活罨(かつあん)式で遊底後部にある握手を上に持ち上げることにより薬室開放することができる。激発機は雷管外火式。 ![]() ![]() 長州藩の銃数からみる限り戊辰戦争はスナイドル銃でなくレカルツ銃で戦ったことになる。 西南戦争を記録する会編 西南戦争之記録第1集に 大正三年陸軍砲工学校教材の本邦製小銃弾薬一覧表と弾丸・薬莢の実測図がありその中でレカルツ実包が 掲載されている。 スナイドル銃(英) 慶応4年(1868)5月15日展開された上野戦争(彰義隊)で長州隊士に後装銃(スナイドル銃)が渡された。彰義隊との銃撃戦で操法不慣れで一時撤退する不手際が史書に見える。 維新初期長州藩所持施条銃数及び名称は次の出典による。 軍事史学・通巻49号第13巻第1号 南坊平造論文 注)同論文、表により銃数の差異あり 世界鉄砲史(上・下) 岩堂憲人:著 国書刊行会 南坊論文での銃名を鉄砲史により推定している。 |
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