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江戸時代学者による人口推計は大体2,500万から3,000万人程度であった。
武士数については各藩とも防衛上の秘密として推計の域を出ない。だが、金銀銅の産出は世界有数であり、砂鉄も十分にあった。 エネルギー資源は山林がいたるところにあり、各藩とも不必要な伐採を禁じたため荒廃する事もなかった。 食料は全人口を賄え、その上国民性は勤勉であった。飢饉の年には地域によって大量の餓死者を出しているがそれは政治体制の問題であって国際的にみても持てる国であった。 人口が3,000万人を越えなかったことは、この島国の狭隘な国土での食料自給で可養出来る人口の限度が3,000万人であることを示す。 ちなみに「江戸時代の江戸の税制と明治六年地租改正(土方晉/著)」頁53に弘化3年(1846)幕府調査人口は 26,907,625人。天保13年(1842)米収量30,558,917石。 '08年の米収量は豊作で57,333千石(860万トン)である。 国内産の米だけでの加養人口は七千万人程度である。 これは日本人の米離れを示している。 当時一人が年間消費する米の量は1石8斗程度とされていた。 注) 1石=2.5俵 1俵=4斗 1俵=60Kg |
| 1.幕藩体制下の人口割合 |
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「日本の近世社会は、武士身分であるか、百姓身分であるか、という身分の別も、もちろん、個人の一生
を左右する一大要素であったが、それ以上に、武士身分なら武士のどの階層に生まれるか、百姓身分なら
百姓のどの階層に生まれるかが、個人の利害や生活水準にとって決定的意味を持つ社会であった。」 |
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幕藩体制と現在 幕藩体制下の身分制度は個人の努力と能力と才覚で人生が切り開けない仕組みであった。 現在その状況に近づいてはいないだろうか。格差社会が確実に増大している。政治家小泉純一郎のアホは 否定しているが労働者派遣法などの悪法の下、人生を切売りせざるを得ない社会となった。 個人の能力と努力,才覚とで人生が切り開ける。 その大前提は子供の教育が全てにわたり均質に 平等に与えられる必要がある。 だが現実は親の生計不安定でその機会を奪われつつある子息が 増加傾向にありはしないか。 医者の子が医者に。 政治屋の子が政治屋に。 これは何を意味するのか? 親の高収入により、子供の能力を別にして、高質な教育を受けた結果を反映していないと言いきれるだろうか。 ニートやフリーターが確実に増加している。 すなわち無収入か超低収入である。 この状態が続けば 確実に年金制度は早晩破綻崩壊するだろう。 親となる者の雇用の長期安定化を図り、 親の経済力に関係なく、子供の資質と能力に見合った教育を最優先する政策が喫緊の課題であろう。 早晩幕藩体制下の身分制度と同じいびつな社会 (ミツバチ社会)になってしまうことを筆者は危惧する。 そして今や(2007年)国民の4分の1が 富の4分の3を保有するに至った。 実感なき経済成長はこのような実態からだ。 末期的幕藩体制の様相を呈してきた。 |
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人口の7%に過ぎぬ武士が84%の農民を収奪しながらその地位を保っていた。
太平の中で貨幣流通が活発化しそれにともない商人が台頭してきた。武士は商人から生活費を借用し
録米によって決済する。大名とても同じである。商人は米の売買で儲け金融で金利を稼ぎ資本の蓄積をどんどん進めていった。
さらに身分は固定的で職業選択の自由はなく完全に商人に支配される世の中になってしまった。
大名家は借金苦から逃れる方法として農民の収奪を一層強化し、しのごうとした。年貢の比率は幕藩体制が末期になる
ほど厳しさを増していった。 そして、下級武士は賃金カットで内職しても生活出来ない状態にまで立ち至った。 そして本百姓は水呑百姓化 備中長尾村の階層分解していった。 |
| 明治6年1月調べ 旧武士数は平民の16分の1にして総数408,823戸、1,852,445人であった。 幕末においてもこの数字と大差なかったものと考えられる。人口構成は概数的に6.25%である。(土屋喬雄「幕末武士の階級的本質」) |
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宇和島藩において上士の初婚平均年齢は23.0才。下士では31.0才である。寿命について上士は63.7才。 下士54.8才。貧困ゆえ栄養状態が悪かった。明治維新はこの階層の造反が成し遂げたといっても過言ではない。 |
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もう一つ技術(機械)文明の開発を260年間禁じた。 火縄銃が日本に紹介されてから幕末まで約300余年基本構造の改善 改良を一切行わせなかった。全ての技術開発が凍結されたのである。 ただ一点武士支配 を永続させるために。 これがために幕府は巡検使や隠密を諸国に派遣。 生活全般を監視した。 よって我々の先祖は道具の改善から切り離され今ある道具や仕組みを 器用に使いこなす方向に向かった。 その結果が何々流(派)という相伝方法が確立してしまった。 唯一からくりの世界のみ改善が大目にみられていた。 徳川家の安泰を図るために竜骨を持った船の建造を禁止したことで、商船だけに限っても 毎年1,000件ばかりの海難事故が発生したと推計されている。 人口の江戸集中(非生産人口)によって 上方(大坂)から様々な物資が海上から運ばれた。廻船は年間延べ1万数千隻だったという。 特に年末の物流最盛期には、多くの船が強い北西風で遭難した。海外貿易禁止による造船技術や外洋 航海術の停滞を招き、更に遭難情報は極秘にされ公開されることもなかった。 海難事故の質と量からみて、世界に類例のないことであった。ただ一点 徳川家の安泰を図るというために毎年何千人という船乗りが海の藻くずとなった。 こんなことあまり学校では教えてくれなかった。 河川には、橋もなく道路で大量の物資を効率的運搬する術は存在しなかった。 文明はその民族の共有した基層文明の 枠を脱出できない。多量の遭難者を出しても、物資の運搬は船=便利。 道路=橋もなく不便。 となってしまい結果、戦艦大和は作れても、機械化軍は創りもしなかった。 さらに幕藩体制化、騎乗(馬に乗る)は 庶民に許されず、明治維新後も騎兵は特権階級者(馬は自分が持ち込む)のものであり、馬が自動車や戦車に取り変わっても その様相に変化はなく、苦学して栄達を極めた貧乏人の子は、機械化軍に反発し必要な対応もせず 太平洋戦争に突入した。 今もって長州に女々しく怨み節をのたまわっている会津の人よ、もう少しマクロな歴史を知って欲しい。戊辰敗戦後斗南に移ったのは あなた達先祖の判断で猪苗代の選択肢(葛西富夫著:斗南藩史 頁113)があったのですよ。 勝者の薩長があたかも酷寒の不毛の地を押しつけたのでは決してありません!!。 海難関係 「火縄銃から黒船まで」奥村 正二/著 「江戸時代のロビンソン」岩尾竜太郎/著 を参照されたい。 |
| 2.武士内身分差別 |
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幕末記述(HP)もので一番欠落しているもの。それは支配身分制度はどんなものであったのかという
点である。武装についても東軍(幕府軍)の装備が西軍と比較し貧弱であったとか、戦闘局面の用兵の陥穽があったとか
的はずれの掲載が目立つ。なぜ長・薩両藩以外は西洋式新装備が出来ず貧弱だったのか
という考査はほとんどされていない。 当時は武士支配の世界だったのである。武士支配がゆえに彼らはその呪縛から逃れ得なかった。 一般的知識として苗字帯刀が武士。と思われているが構造的にそう簡単なものでは無かった。 |
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侍、徒士、足軽層に大別され足軽や陪臣は儀礼面で屈辱的態度を強いられた。例えば雨天といえども
上位の士に出会えば履き物や傘をさすことが許されず平伏・土下座を強要された。士席の者が足軽以下
の町人百姓の非道な殺害でも切り捨て御免(打捨権)がまかり通っていた。
そしてそれぞれの階層(徒士以上)には鉄の天井があり
人間としての努力と能力、才能の入り込む余地(少しの例外を除いて)は皆無であった。 着衣や生地も制限され足軽以下は絹物の着用は許されなかった。 徒士も木綿が奨励(近世後期では経済的に絹は購入不可能なほど凋落する。)された。 また同室、同座になることも禁止されていた。 | ![]() 早乙女塚位置 34.06.24N 131.58.33E |
| 生きんがために額に汗して働く若者の命より、着衣の泥水での汚れ が大切と思う武士の奢りにより、若妻は命を落とした。これらの悲劇が事実かどうかは別として、県内(山口県)各地に同様なものがある。 |
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陪臣も足軽扱いされ白足袋や足駄、下駄も禁止している。
これらの制限が全国的にほぼ無くなるのは明治5年(1872)頃である。 徒士といえども家老に対しては下駄を脱がざるをえなかったのが実情で、城下において百姓町人は足軽以上に出会えば まず平伏・土下座など屈辱的敬礼を強いられた。どの階層に属するか着衣や服装で判断できる社会の仕組みになっていた。 |
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上表は幕府旗本であった蒔田氏(知行地 岡山県総社市)のものである。仕組みと役割について、旗本だろうが大名だろうが規模の相違があるだけで
普遍性がある。主は地元(総社)出身でもなかったし、江戸住まいであったので知行地に住んだことさえなかった。立石脱隊一行は浅尾陣屋を襲撃したが蒔田広孝は元治元年(1864)4月〜
慶応3年(1867)6月まで京都見廻役(京都の治安維持 反幕志士の逮捕)を務めている。
広孝は見廻役を解任されても知行地に戻らず江戸屋敷に帰った。 足軽=刀一本差し、裸足。 軍事動員 単身参加 銃、弓、槍、衣服などすべて貸与・支給。 徒士=刀二本差し、袴に足袋。 軍事動員 単身参加 武器携行 鑓、刀、など自己装備。ただし銃は持たない。 主君の行列に供奉時の役羽織支給。(制服貸与・支給) 徒士層以上は世襲化された武士。 侍=刀二本差し、裃着用 すべて自前。 軍事動員 家来と武器携行。家来の武器も自前。 侍は世襲化され殺生与奪の権と民衆に屈辱的敬礼を課すことで支配していた。 |
| 3.武士階層内部矛盾 |
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戦略・戦術的に長・薩両軍に負けたのではなく内部矛盾の露呈が明治維新であった。 明治維新期の各藩鉄砲戦力(南坊平造論文)は明治3年(1870)各藩の鉄砲推計である。 銃の多寡がそのまま藩内差別構造の格差(強固であつたか緩やかであつたか) を表すとも読み取れる。すなわち武士は鉄砲を基本的に持たなかったし、持とうとしなかった。 よって諸藩では農兵(身分制度上武家奉公人とした)を組織し銃隊を編成した。 もし記録を渉猟していて農兵や町兵を編成した。とあれば藩内改革が出来なかった無能の藩主、若しくは閣僚たちであった証左である。と断言できる。 郷兵や農兵を採用できない藩では 購入しても無用の長物になるだけであり購入もしなかった。幕末西欧化の権現のような佐賀藩にあっても 上士の解体は明治2年(1869)になってからである。 鉄砲は最下層身分の足軽の携帯品だったから銃の所持(携帯) は武士のプライドが許さず、政治の主導権は彼らが握っており購入拒否の抵抗勢力でしかなかった。(破綻状態で購入できる資金もなかった) 侍に鉄炮を持たそうとすると崩さなければならない厚い壁があった。侍のステータスとして石高が ある。石高に応じて兵員数が規程されていた。例えば侍は単独行動をとることは皆無である。 普段の外出でも家来が随番した。年始の挨拶でもそうである。軍役でも鑓(槍・これも所持の制限あり)を持つ 家来が従った。よって軍団は個々の私兵を束ねたものでしかない。軍制改革はこれを否定 しなければ成り立たない。 濃密な火力を構成するために階級的横並びの兵員でなければ ならない。当時の庶民(徒士・侍層も含め。階級分断政治) に小市民的連帯感は存在しなかった。 鉄炮を持たそうとすると石高の平準化が避けて通れない。 平時にこれを行うことは各藩とも不可能であった。 まず侍の階層分解が出来たとしよう。 次なる課題は士官教育と兵員教育を誰が行うかという問題に突き当たった。260余年 この国に戦争は起こらなかった。 合戦は軍記物の範囲なのである。そこには個人の 腕力的武勇がある。 また各藩とも兵学者とそれに連なる閥が存在した。 彼らの存在も否定し新しい革袋に新しい酒を注がなければならなかった。 藩内の軍学者(弓、銃砲、鑓)を解体したとしょう。兵も調達出来たとしょう。鉄炮も大砲も 揃ったとしょう。 だが指揮官たる者の教育と兵の訓練を行うものが存在せず なにも出来なかった。 第二奇兵隊に襲撃された浅尾藩でも農兵を「有志組」とし 庄屋に名字帯刀を許し責任者とした。 責任者にされた庄屋もさぞ困ったことであろう。 長州は他藩にさきがけ能力主義を採用したが、 誤解しては困るが内部での身分差別が幕末の時点で解消した訳ではない。 だが軍事に関し日本で唯一、体系的、組織的、合理的に行ったのは長州藩である。 理由は簡単。 藩主の政治離れと関門海峡戦に負けたことで武士支配の構造が否定されたことにあった。 政権担当者が大村益次郎に軍事一切(慶応元年5月27日)をまかせ金は出すが口を出さなかったことも大きい。 この面で藩内に異論(軍事に関する)が出たような場合桂小五郎(長州藩総理大臣)は まず大村先生に聞いてみよう。とかわしたと伝えられている。 当時の長州藩にあって 先生と呼ばれたのは大村益次郎のみであった。 よって益次郎独特の個性で軍事力が純粋培養出来た。 農兵等は既成概念にとらわれていなかったので 銃弾はどのような運動性をもって命中するのか。 勇気は損気などが理解できた。 やがて有名な話になるが、「長州の寝撃ち」「土佐のヒザ撃ち」「薩摩の立ち撃ち」に象徴されることになる。 勇気は損気である。 |
| 旧政権(重商派・俗論派)で活躍した武士のみで結成されていた干城隊は内訌戦(慶応元年1月6日〜)以降一度は否定された。 長州新政権(重農派・正義派)が武備恭順を藩是(慶応元年3月13日)に決定する直前に新政府より再編が許された。 |
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慶応2年(1866)5月28日、幕府は長州藩へ宣戦布告。小瀬川を隔て長州側と相対した。6月14日未明、戦いの火蓋は切られ、
長州遊撃軍(百姓兵、被差別賤民と呼ばれた人たち)
のミニエー銃火の前に小瀬川
(瀬戸内海側、広島県と山口県境)を越えることなく倒れた。 第二次長州戦争兵力展開図はこちら のらりくらりと前線行きを拒否した広島藩の判断は正しかった。なにしろ彼らは火縄銃に毛の生えた程度 の銃器しか持っていなかったのだから。 兵装にしても目立つ服装をしていた。 雄のクジャクである。 派手なことが武勇を誇示する社会であった。 長州の狙撃兵はこのやたらと目立つ標的に アウトレンジ的集中打をあびせた。 彦根藩(井伊大老)のこの装備で第二次長州戦争 (幕長戦争、1866)において芸州口(広島と山口の県境) の一線に立たされた。彼らは関ヶ原の戦(1600)と同じ装備と編成で長州の百姓と戦ったのである。 彦根藩最初の戦死者は6月14日未明、木俣隊使番竹原七郎平 と、従者2名である。先陣をきって小瀬川を渡ろうとし 狙撃され河中に倒れた。従者2名程度でかつ陪臣である。そんなに頑張る必要のないクラスだ。 彼らは、赤備えの鎧(戦国時代そのまま赤色の甲冑)であったと伝えられている。 銃弾は具足の断片ごと体内にめり込み被災者の苦痛を拡げたという。 体内にめり込んだ具足の 摘出は非常な苦痛を伴ったと伝えられ、そのままだとやがて化膿しじわじわと死に至った。 被災者のその後の苦痛を見た者たちは、次に自分が被弾するとさっさと切腹したと史書は伝えている。 新しい戦闘方法は新しい死に方を提供した。 ちなみにに芸州口は紀州、越後高田、大垣、宮津、津山、明石各藩と幕府兵が戦列を構成した。 一方、長州は遊撃、御楯、集義、庸懲、鴻城、支藩岩国隊及び維新団など千名が参戦した。 維新団は被差別部落民の部隊である。庶民以上に抑圧された彼らはご一新(維新) を待ち望んでいた。 国土防衛に庶民が参戦した意義は大きい。 最初にこの隊の編成をまかされたのが 新選組の池田屋事件で闘死した吉田稔麿である。 戊辰戦争時会津若松藩も百姓を人間の盾として畳を持たせ弾よけとして銃火に曝したと記録にある。長州の百姓と会津の百姓と参戦動機になんと大きな違いがあることか。 |
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