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上の画像は、岩倉具視の潜居した京都市左京区 岩倉実相院日記の慶応元年(1865)5月9日条である。
この図のタイトルは「怖獅子花煙にて一橋戯れ」である。 図には直截的な比喩がある。 それを示す。 橋の上に得体の知れない獣が徘徊している。 顔と背中に「会津」の文字。 左に菊で皇室。 右に ○に十で薩摩を表す。 そして、得体の知れない獣図の上には次の注釈が入っている。 【近年図のごとくなる獣 美濃の山中より生まれ それより東国の深山に成長して田畑を踏みあらし、 武蔵野へ出て獏(ばく)といえる獣となれ合い、 近頃山城の国叡山の麓に来たり住み、その形、 馬のごとく、また鹿のごとく、 異国の獅子に似る、 よって異人に中よし、今はその勢い強く顔も大に して、鼻高く、耳至って近く、物を嗅出す事別けて早く、眼は大なれど明らかならず、 面体人間に似たるが故に一名、人面獣と云う、惣身あおい毛にして、邪の程は 十分尾を隠せども、今はかくすによしなし、尾を出して徘徊す、四足の爪長く尖し、 忠臣義士を毎々傷つけ殺す日々食を求めるに乱妨(らんぼう)にして ・・・・・・・】 以下略 |
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図の説明を少し。 美濃の山中より生まれ 容保の出身美濃高須藩。
東国の深山は会津に養子に入ったことを表す。 そして、成長して田畑を踏みあらし は
重税を取り立て農村を疲弊させた。 ことをいう。 武蔵野へ出て獏(ばく)といえる獣となれ合い 容保が関東へ出て獏(幕府にかけてここでは慶喜か)と知り合い馴れあった。 すなわち、将軍継嗣問題で揺れた文久2年(1862)に幕政参与になったことを指している。 その得体の知れない動物が京都に上って来た。 よくよく観察するに 馬にも見え 鹿にも見える。 すなわち 馬鹿 と云っている。 体毛は あおい色 徳川の家紋の葵。 すなわち徳川の威勢を身にまとっているだけだ。と言い切っている。 初めは邪悪な心を尻尾で隠していたが最近は隠さず大手をふって歩いている。 足の爪長く尖し は新選組の暴力により忠臣義士を殺しまくった。 また、天皇に巧く取入りいったが(左の菊) それもこれも薩摩の力(右の花 ○に十で島津の家紋) があったなればこそなのだ。 そして乱暴のかぎりを尽くしている。 云々。 日記の記述者、まさか最初の記述から260年後、日記が刊行されるなど夢想だにしなかったと思うが、 最下層の公卿の観察眼は鋭いものがある。 容保も頑張りすぎて端(はた) からみて馬鹿に見えたのであろう。 それにしても文章に片言隻語の無駄なく、音韻よくまとめ上げ博学見識に脱帽する。 |
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この実相院日記の書かれた慶応元年(1865)5月には、容保の身にはすで確実に静かだが落日が迫っていた。
容保はそのことにあまりにも鈍感だった。彼の絶頂期は文久3年(1863)8月18日の政変演出だった。
政変後の京都市民の長州に対する熱烈な思いは「流行うた」に、「下の関さつき(五月)十日の其夜にまぎれ、
あめりか舟を打払う、あまた大名あるけれど、攘夷攘夷は口ばかり、とんと長州さんが打ちはじめ、高名手がら、高名手がら、・・・・・・」
と長州支持のムードを盛り上げた。 そして翌年、池田屋事件に激発された長州藩は、
京都に攻め上り敗退したが(禁門の変 1864.07.19)その兵火に焼け出された京都市民だが、
火は会津が放ったと信じ込んでしまった。
また、長州兵が逃走の過程で落命すると、その死を悼み墓に詣でる「残念さん」信仰が爆発的な拡がりをみせる。
そして、変後、反会津感情を高めたのが会津藩による執拗な敗残兵狩りと、その過程での残虐行為だった。
幕府勝海舟も7月23日の日記「聞く京地(京都)にて会藩、生捕りの者、残らず斬首と云う。
・・・・・・ 或いは私怨に出づるか」と憂慮を示している。 尾道市史(第二巻)「維新前後に活躍した尾道の豪商」の項、竹内要助履歴書(頁511)に新選組凶暴という脚注で「会津及び近藤勇が率いる新選組等凶暴至らざるなく、 或は客月(7月)19日の騒乱(禁門の変)に乗じ、平野二郎国臣以下在獄の義士を濫殺し、或は日に尊王憂国の志士を捕らえて之を殺し、或は獄に下しての非道の苛責を加え死に至らしむる等の惨酷は枚挙に遑(いとま)あらず。 余の知己橋本半助もこの毒手に陥り、終に囚中に没せり。・・・・・ 是を以て天下の志士等会藩新撰等を蛇蝎視すること一層を加え、長藩を憐れむの情も亦其度を高め、是より諸侯中にも長を援くるもの日を追ふて多きに至る傾きあり。」 会津藩と新選組。京都の治安維持で火中に栗を拾ったつもりが、世間の顰蹙(ひんしゅく)と反感を買ってしまった。 東北方面からの会津進攻はこちら |
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岩倉実相院日記に戻る。 この日記から3年後の9月、会津の国土は焦土と化し、多くの藩士が戦死。 藩士はまた、後顧の憂いを絶つという悲惨な自刃で家族を失ってしまった。 かつ、戦費調達の贋金を蔓延さた。 戦い終わるや旬日。農民の怨念は激しく爆発、会津全域にわたって数万にのぼる民衆は、「ヤーヤー」と叫んで打ちこわしを行った世直し一揆(1868.10.03)は、 会津藩の圧政を厳しく批判して会津の山野に燎原の火のごとくひろがった。 よって、残存会津藩士一統墳墓の地に身の置き所さえなくなった。 そして、自らの選択の青森斗南への移住は長薩が仕組んだと声高に叫び、今日に至っている。 |
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慶応2年(1866)1月の政治状況 一橋慶喜と会津容保は長州藩の内政問題を政治・軍事問題化し、征伐を主張した。 当初諸藩は一会両者の進める政策に距離をおいたものの、政治的力関係のなかでずるずると戦争に荷担してしまった。 ところがこうした容保の行動にまず国元の宿老が異議を唱えた。 すなわち諸藩の大方は恭順の長州を討伐する大義名分に事欠いて、 このままだと長州の怨みを一身に蒙ることに危機感を表明したのであった。 ところが孝明天皇との政治取引で開国条約勅許を引き出し、軍事面の第二次征長戦に弾みがついてしまった。 幕府の長州処分案を受諾しない場合に戦争するというものであった。 これが慶応2年(1866)1月の段階であった。 詰問全権大使小笠原長行が下坂し広島に向かった。 長州使節との折衝役は幕府大目付永井主水正(詰問使)・目付役戸川はん(かねへん+半)三郎・松野孫八郎であった。 初回は慶応元年(1865)11月20日。この詰問は不調に終わり、幕府方は大阪に引き上げた。 続いて慶応2年(1866)2月22日小笠原長行は再度長州藩を広島に招致した。正使宍戸備後助(山県半蔵)、随員に小田村素太郎、赤川又太郎。諸隊幹部河瀬安四郎・明倫館都講井原小次郎・野村範輔であった。 会談の場所は国泰寺である。会談は再び不調に終わったが、宍戸、小田村、赤川はその後も広島に留まった。河瀬安四郎の前名は石川小五郎である。文久3年8月19日に発生した幕使中根市之丞暗殺の最右翼容疑者一人。 長州再征 1.慶応元年(1865)5月16日、将軍家茂進発時に幕府が掲げた理由 1)第一次長州征伐で服罪した長州で政変が発生し「激徒」が政権掌握したこと。 2)その激徒らがよく解らんが悪だくみ企てていそうなこと。 が主たる理由に挙げられていたが。 2.慶応2年(1866)1月に入ると 1)禁門の変の責任問題で追加処分が必要だったが未執行である。 と目的・路線転換ともとれるニュアンスに変わった。 下広した小笠原長行は高杉・木戸らの激徒の広島出頭を命じた。この場合 長州不出頭=処分拒否とみなし武力行使→長州討滅というシナリオを考えていた。 この場合、板倉勝静(備中松山・老中) らは長州再征諸藩の総合軍事力と長州が保持している とみられる軍事力とその運用システムをも比較検討するリアリズムを持ち合わせていなければならない。 一方長州にどんな判断があったのかつまびらかではないが、いち早く海軍伝習所に藩士を派遣をしたものの、 海軍力増強にあまり手を染めなかった。当時すでに巨大な海軍力や汽船船団を保有していた幕府の奢りからか、軍事力比較考査の文献を筆者はみていない。 結果、賭場でサイコロを振るような、イチカバチカの戦争に突入した。 幕府の武威の前に鎧袖一触と考えていたのであろう。 |
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この日記の記述者、まことにまめで見たこと見なかったこと虚実取り混ぜて書き残した。 文久2年(1862)
7月23日条 「諸国名産魚名尽し」 ○尾州(徳川御三家)の川魚 大海の魚にはましり難たし。 言い得て妙である。 ○水戸(徳川御三家)の人魚 あるか無いかわからない ○紀(徳川御三家)のごまめ 魚ノ数のみとるにたらず 慶応2年(1866)6月長州戦争の広島口先鋒総督を担当した。 馬鹿みたいな装備で長州に蹴散らされ た。みかねた慶喜が軍事指導の特訓をさせた。 「ごまめ」にも相当しない。 この日記の記述者どんな情報源をつかまえていたのだろう。 後の将軍慶喜の兄弟 ○備前(岡山藩) 鮫 かまぼこより外(ほか)しかたなし 藩主は慶喜の弟。 なかなか手厳しい。 ○因州(鳥取藩) 初かつを 皆人々好く 慶喜の兄。 みな藩主は兄弟だが評価が別れる。 御三卿 ○田安 池の魚 大海へでて、うつけ(馬鹿の意)ばかり。 政治総裁職を務めた福井藩松平慶永(春嶽)は田安家の出である。 それにしても辛辣。 老中だった陸奥国磐城平藩の ○安藤(安藤信正) 南風(はえ)にあたった魚 腹わたが腐っている。 和宮の降嫁を実現。 同じ老中だった ○久世広周(下総国関宿藩主) 車海老 味あれども骨がたりない。 観察見事吹き出してしまう。 後に主導権を発揮する ○薩州(薩摩藩) 鯨 動き出しては大騒ぎ。 寺田屋事件などなにをするかわからない。 ○長州(毛利藩) ボラ 作り身にして鯛に続く 本来煮ても焼いても食えない魚。 洗いにすると何とか食える。 ○土州(土佐藩) かつお なくてはならぬ。 気風の純粋さが際だっていたのであろう。 ○肥州(熊本藩) 鰐の子 成長の後恐るべし。 ○芸州(広島藩) 馬鹿貝のむき身 魚の数にいらず。 貧乏藩新式の鉄砲も揃えなかった。 ○鍋嶋(佐賀藩) 鰐(わに) 呑みもはねもする恐るへき勢い 幕末科学技術習得にかけては日本一。 世上に知れ渡っていたのか?? この日記を残した、下級公家は閑だったのか好奇心旺盛だったのか、晒首があるといえば見に行き、 絵心も確かで「ましらの文吉」の晒まで絵で残している。 島田左近天誅晒し首の図はこちら ましらの文吉殺しは土佐藩士らである。斬り殺すのは刀がけがれるとして扼殺することに決した。扼殺するための細引きを買い求めたのが、後長州に逃れ遊撃隊に入った後藤深蔵である。 |
| 長州詰問使 主立った者 慶応2年(1866)2月18日、主立った者は大坂より蒸気船で広島に入った。 |
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