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| 浅尾藩陣屋と在主要藩士 |
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総社浅尾藩主蒔田廣孝居城 幕府直参で一族は江戸住まい。高(石)直しで1万石の大名となった。この時期陣屋造営を進めていた。 丙寅四月十三日暁七ツ宍粟から引き返した第二奇兵隊の浪士は搦手口(裏)、追手口(大手口・表門)の二方向から攻撃を開始した。 以下、岡山藩に下津井蓮台寺の茶店で逮捕された西岡龍太、長尾清熊(喜代熊)の供述調書から。 隊中水島東九郎(清水宗磯)は元浅尾辺出生の者にて地理功者に付、右同人案内にて同夕五ツ時 比井山宝福寺へ屯集致候、同夕北の方へ押行川堤にて休居申処、俄蒔田相模守陣屋へ押寄候様指図 致候に付、立戻二手に分れ私共は裏手より小砲打込候処、表門の方打破候様子にて 其節地雷発火候へ共怪我無之、陣屋よりも発砲致追々接戦に及び既に龍太義蒔田勢四五人計へ 伐付並に投玉致し終に乗取申候、 ちなみに、西岡龍太は第二銃隊、長尾は大炮隊に属している。記録から参加部隊は第一銃隊、第二銃隊、大炮隊、雷隊(地雷火) である。よって表門(追手口)からの攻撃は第一銃隊であろう。攻撃最中に地雷火の爆発が間近で発生した様子であり、この地雷火隊員の一人は 水島東九郎であった。 |
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次ぎに襲撃を受けた蒔田藩の中島伝七郎と二階堂小一郎の
慶応二年丙寅年四月一六日付、奉差上手続書によると |
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十二日暁八つ時(当時は不定時法だが現在の午前2時頃)賊兵陣屋へ押寄東西より大砲打掛候に付此方よりも大小砲打掛
防御仕居候処、北の方二ケ所より賊勢二百人計不意に責(攻)上り候に付き、何れも決戦
賊徒四五人討取候へ共防禦手配り手負い等も多く出来手人数崩立候処、賊兵機に乗じ
陣内終に被乗取候に付き、となっている。 注)差上手続書は賊兵攻撃を「十二日暁八つ時」としているが在陣各員の書上では「十三日暁七つ前(午前4時前)」、十三日暁八ツ頃」の記述もある。 なお、役所で寝ていた亀山幸右衛門の書上に混乱振りがわかる。 |
| 浅尾藩陣屋攻撃側(第二奇兵隊)の死者 |
| 総社・浅尾陣屋攻撃側死亡者 | ||
| 姓名等 | 所属 | 出身 |
| 水島東九郎 | 雷隊(地雷) | 総社井田 |
| 平松精一 | 第一銃隊 | 倉敷村 |
| 結城小六 | 不明 | 不詳 |
| 坂田屋禮助 | 倉敷牢屋 | 倉敷村(川西町) |
| 雑卒体の者 | 不詳 | 不詳 |
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隊員側の戦死五人。陣屋側の闘死十四人、負傷七である。防御側の代官池上金之丞や松浦十次郎、
足軽安原新太郎(清水屋の次男とある;倉敷・浅尾騒動史)、荒木数之進(計之介次正)(本家三須蒔田藩領の庄屋・大庄屋、当時は三須高杉周右衛門に属す。出自:現浅口郡金光町佐方)も最後まで陣屋にとどまり奮戦した。
大目付の亀山伊蔵(軍事責任者)と立石孫一郎は遠縁にあたる。彼は戦わず長持ちに隠れていたと伝えられている。
このとき、臨時動員された百姓六人が死亡している。
詳しくはこちらか こちら 戦死者はこちらで |
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平松精一の墓は倉敷市鶴形山北麓遍路道脇佐々木家の墓地にある。 そして、倉敷郷土史家大森一治は記録する。 当先祖近江源氏佐々木源六。 明応年間(1492〜)に来住。 弓術を教授し糊口を凌いだ。 数代の後因国の地名弓場をして弓場屋と唱え、後世佐々木姓を名乗った。 山口県文書館に残る第二奇兵隊暴徒御処置一件にその名を残すが、精一が誰とどのよなルートで第二奇兵隊に入隊したのか全く解っていない。 史書に精一の名前が出るのは岡山藩に逮捕された西岡龍太と長尾清熊の供述調書である。 深手を負い助かる見込みのない水島藤九郎(東九郎・清水宗磯)、平松清次、結城小六の三人を介錯し陣屋撤退の準備を行った。と述べている。 中備騒動記〔未刊行・板屋(谷)弥兵録〕によると14才。とある。 墓面には 平松精一源春義之墓 慶応二年寅四月十二日 建立は佐々木熊蔵長男禎吉 |
| 口伝だが、連島角浜に上陸した後、地元の有志も第二奇兵隊に合流しており、 浅尾側の記録も興奮覚めやらぬ中で書かれてはいるが、撤退の行進も地元民に目撃されているはずで、それで攻撃側人数が多く書かれたものであろう。 陣屋はJR伯備線総社駅から950m 約10分。清水宗磯の墓 2.8Km 約30分。 |
| 水島東九郎の墓 清水宗礒(むねいそ) |
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■陣屋まで JR総社駅から徒歩約10分 ■宗礒(義)墓 総社駅から徒歩約30分 位置 34.40.32.5N 133.46.01.7E 真言宗御室派、日照山南之坊寺院脇の墓地にある。 [地図 カシミールで作成] |
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実は、宗磯の墓の後ろに卒塔婆状の石標がある。 石標を正面から見たとして、右面には次のように刻まれている。 右面 為正学院遊心宗義居士二十五回忌追○○ 二文字判読不能 背面 明治二十三年三月 旧山口縣士族 旧主 清水清太郎建之 ところが毛利藩寄組(最高家格)幕末家譜 「近世防長諸家系図綜覧」には明治23年に清太郎を名乗った人物は存在しない。綜覧では 清水親知(勘太郎・清太郎)−> 清水親春(美作・再家督)−> 資治 となっている。 清水清太郎は元治元年(1864)12月25日、ときの俗論派(重商派)政権により光市小周防采邑地より萩自邸に召喚され切腹を命じられ果てている。 実は別の側面から清水清太郎を追った先学田村貞雄氏がいる。氏は萩の乱首謀者前原一誠を捕縛した島根県吏清水清太郎の解明に取り組まれた。 清水家の経過を少し 切腹した清水清太郎は別家八組士清水図書信篤長男として天保14年(1843)6月9日に生まれた。長生し寄組清水美作の養子となり清水清太郎を名乗った。 美作は隠居していたが、清太郎の自裁で旧に復し再家督した。 美作はご存じのように慶応元年(1865)第二奇兵隊紛議沈静の功により11月26日付けで第二奇兵隊総督を拝命。 |
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系図的には次のようになる。 親春(美作・明治3年隠居,明治8年没)−>中継養子「譲吉・清太郎(門弥)」−>為之進−>資治(熊谷直方次男、入婿,室、親春三女スミ) |
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天正10年(1582)夏、歴史に鮮烈デビューした清水家その後
切腹した清水清太郎は別家八組士清水図書信篤長男として天保14年(1843)6月9日に生まれた。長生し寄組清水美作の養子となり清水清太郎を名乗った。美作は隠居していたが、清太郎の自裁で旧に復し再家督した。 美作はご存じのように慶応元年(1865)第二奇兵隊紛議沈静の功により同年11月26日付けで第二奇兵隊総督を拝命。 系図的には次のようになる。 十三代 親春(ちかはる) 再家督 (美作・明治3年隠居,明治8年没58才) 中継養子「譲吉・清太郎(門弥) 室親春長女チエ」 中継養子譲吉について 明石藩士間宮小十郎の息子譲吉が親春(美作)の育(はぐくみ)となり、親春(美作)の長女チエと結婚し清水家を継いでいる。 詳しくは山口県地方史研究 (2002年10月)第88号「前原一誠を捕縛した清水清太郎」をご参照。 ちなみに清水家中継養子であった清水門弥の墓は山口県光市浅江清鏡寺境内に門弥の長女武中リツにより建立されている。 門弥・チエ夫妻には長女リツ、次女ツネがあった。 門弥(明治22年[1909]8月16日没),チエ(大正2年[1913])6月8日没
┌───────────────────────────────────┐ 十五代 真周(まさかね・民之進?親春二男,慶応元年[1865]〜明治19年[1886]21才) 田村貞雄研究では親春次男民之進となっている。 十六代 資治(もとはる・熊谷直方次男、入婿,室親春三女スミ) [田村貞雄研究] (万延元年[1860]〜大正12年[1923] 63才) ※資治(もとはる)親春三女スミの子 − タマ? ![]() 十八代 康春(やすはる・昭和4年[1929]〜平成9年[1997] 69才)室典子 康春室清水典子は康春の両親(博春)は清水家養子と述べている。 備中高松城水攻の検証(平成11年11月発行)頁187 十七代博春は清水家に養子縁組したことで、清水宗治から続く系は十五代親春三男真周(まさかね)でもって絶えた。 一方親春(美作長女)チエと結婚した清水門弥の系女子二人、リツ、チエに子がなくこれも絶えた。 一方、十六代資治(もとはる)は親春三女スミと結婚し女系となったものの珠子、忠俊と続く。 それぞれの没年は次である。 清水スミ(十六代資治室,珠子母) 昭和21年7月16日 中島珠子(忠俊母,夫忠行) 昭和6年10月5日 中島忠俊(室正子) 平成5年3月6日 この三人の墓碑は光市清鏡寺境内墓地にある。清水宗治から続く血脈という観点からなら 十六代 清水資治(もとはる)室スミ(親春・美作三女) 十七代 中継ぎ養子 中島忠行 系図的正統 清水博春(伊藤博文孫)夫妻共血脈なし。 十八代 中島忠俊(忠行子) 〃 清水康春
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