4.〜「かわいいと共有意識」〜 近藤


1 はじめに
 このテーマを考えるに当たって、難しいと感じた事が、このテーマで書いた既存文献が非常に少ないという事だ。それから、文献が少ないせいで、皆似たり寄ったりの考えになってしまうおそれがあった。そこで、自分が考えたのが、このかわいいという言葉に対する自分の率直な考えということだった。この自分の考えに対し、深く考える事がこのテーマを考えるうえで意味をなすことだと思ったのである。次から、出発点としてまず自分の経験によるかわいいという現象を考えていきたい。
 これから書く事は、学生時代に経験した事が、比較的多い事例であると思う。男の中では、女の子の中で誰々がかわいいということが、話題としてよく持ち上がるものである。その中で、ある男の子がAさんがすごくかわいいと言った。そして、その情報が瞬く間に拡がりAさんはかわいいということが定説になった。そして、そこからAさんはかわいいという共有意識の元で一種の連帯感が生まれた。この例は、ただ単に、Aさんが、ほんとにかわいいという事だけを意味するものではない。それは、かわいいと思ってない人までも、かわいいという言葉で了解がとれるという、この言葉の両義性が関係してくると思う。               
 広辞苑によると、かわいいは次のような意味がある。@いたわしい、不憫だ、かわいそうだ。A愛すべきである、深い愛情を感じる。B小さくて美しい。この意味を見ると、正反対の意味を持っている事がわかる。
 ここで、考える事は、この言葉は、使う本人の意思とは別にどんな場面で使っても、場の雰囲気を損ねないという事だ。そう考えるとさっきの例は、かわいいという曖昧な言葉(別の言葉で言うとノリやすい言葉)の効力に皆が乗っかった結果と考える事ができる。そうすると、かわいいという言葉は、皆の本当の気持ちは、どうであれ、擬似の共有意識を作る効果があると言える。このような、考えに立つと、かわいいという現象を考える糸口が少しつかめそうである。

2 「笑っていいとも」とかわいい
 では、この考えに基づきあるTV番組の中で使われるかわいいという言葉について考えてみたい。「笑っていいとも」といえば、たいていの人が知っている、お昼の人気番組だ。この番組は、司会のタモリと曜日ごとのレギュラー、日ごとに変わる友達の輪であるテレフォンショッキングのゲスト、そして観客から構成されており、この4つの役割が連関しあって番組が成り立っている。この番組の中で特に重要視されているのが、観客と舞台上の人(タモリ、レギュラー等)の客いじりである。これは、本来見る側の観客に対し、番組に参加して欲しいという舞台上の人の提示であり、客はそれに対し応えを求められる。そして、観客がそれに対し応える事により、この番組は成立するのである。客は、その応えの仕方におよそ次のような言葉を使っている。「エーッ」「そーですね」「かわいい」これらの言葉のうち、まず「エーッ」は感嘆表現なので、リアクションの延長上で舞台上の人に対し応えていると考えられる。「そーですね」は、タモリが仕掛けていった質問に対し客が、応える事で成立するのに対し、「かわいい」という言葉は、客が、タモリの質問への応答、舞台上の人の行動や言動に対するリアクションではなく、そういうフリなしに自分達で採用した言葉であると思える。そして、その言葉に舞台の人達が答えることにより、一種のコミュニケーション(それが擬似であっても)が完結する。このような、事例からも、かわいいという言葉は、一種の共有意識を増しやすい言葉として用いられている。やはり、共有意識というのは、かわいいを考える上で、重要なのは間違いないようだ。

3 かわいいについての既存研究等
 さて、ここからは、自分の考えというものから少しはなれ、既存のかわいいに関する文献の考察をしてみたい。
 まず、「かわいい」というのが、時代を論じるための鍵として注目される先駆けを作ったのが、山根一眞『変体少女文字の研究』だった。山根は、少女たちの間に従来とはまったく違う規格の「まる文字」が普及しているのに興味をもち、それが、1972年に誕生して1978年に急速に普及した事を突き止めた。(山根 1989)しかし、この本の中で山根が、中心的に論じているのは、字体そのものであり、それを使い出した少女たちに対しての視点が重要視されていない。だが、山根のこの本のおかげで、少女を考える事が、社会構造を明らかにするという議論に目が向けられるようになった。
 それは、本田和子が1982年に出した『異文化としての子ども』の中で、<子ども>という観念は、近代になって生み出されたとしている。フランス社会史家アリエスの考えを受けて、<少女>も近代になって生み出されたという、いわゆる<少女論>に対し大塚英志が、受け継ぐ形をとったという動きが挙げられる。大塚は、本田の指摘する近代化と少女の誕生のなかで、次のことに注目した。
 <少女>の特質は、「繭への閉じこもり」(性的関係を含む一般社会からの隔離)と「ひらひらしたものへの志向」(リボンやフリルなど)そして、こうした志向を強化したものは、少女雑誌の力が大きく少女達の大衆文化、「少女文化」をもたらすに至った。大塚は、このような指摘を受け、まる文字に見られるようなかわいさを志向する70年代以降の<少女>は、生産型社会ではなく消費型社会の産物であると論じた。そして、このようなかわいさ志向の文化を彼は、「かわいいカルチャー」と呼んだ。このような、大塚の議論は、山根の議論の一歩先を行くものではあるが、これに対し宮台真司は、大塚の70年代以降が「かわいいカルチャー」の時代という議論が、妥当ではないとして、議論を行なっている。
 宮台は、本田や大塚の議論にある次の前提に反論している。
@<少女>という社会的存在が近代日本社会を通じて存在している事、A<少女>は「かわいさ」を志向する事、B「<消費>と<少女>の密接な結びつき」
 このような前提とは、まったく異なるものとして<少女>は変わっていっていると宮台は言う。
 まず、本田の指摘する<少女>の特徴としてあげている。「繭への閉じこもり」と「ひらひらしたものへの志向」に対し近代は、ひらひらしたものにだけを志向するのではなく、宝塚の男役のような「ヅカヅカ」したものへの志向が見えるといっている。しかし、このような自分の反論を、いったん制する形でこのような「ヅカヅカ」も含めうるのが近代<少女>であると認めている。そして、このような近代<少女>の全体像を表す言葉として「清く正しく美しく」という言葉を挙げている。この言葉は、<近代>の少女の目指すべき理想が提示されていた。どんな状況におかれてもこの理想の適用範囲内ならば何をしても「清く正しく美しく」という<少女>の理想(秩序)に還元されてしまう。そしてこのような、「清く正しく美しく」という理想の元では、<少女>の特徴である「繭への閉じこもり」は、適用範囲を超える外部として、理想から外れる性との接触から、秩序を守るものとして至極大事にされるものだった。
 しかし、その様な秩序も戦後になって<若者>というものが誕生するにいたって危ういものとなってきたと宮台は言う。戦後になると、戦前のように<少女>や<少年><青年>という秩序やあるべき理想に対し優等生的であった存在が消え、秩序に抗する<若者>というものが生まれてきた。このような動きに付随する形で、<少女>たちも<若者>として自己を規定するようになってきた。そのような、<若者>の自己規定を象徴するような現象は、「繭への閉じこもり」という、<少女>を規定する秩序を破る、言葉を変えれば、 性を提示する(性的身体認識)文化が生まれた事だろう。これにより、<少女>的秩序は衰退し、<少女>という言葉も<若者>としての<女の子>という言葉に代わっていった。この時点で、<少女>という文化は、失効してしまうことになる。しかし、<少女>を脱した女の子達は、大文字の若者の態度(カウンター的なもの)に埋没する事は無かった。その代わりに、「私らしい私」を志向するような態度に変わっていった。つまり、<私>探しの始まりである。
 さて、少女文化が、失効したと記した事からも、大塚の「かわいいカルチャー論」における前提が、有効性を失くした事は言うまでも無いだろう。ここから、現在のかわいいと言う現象は、少女文化から導き出されるものではない事がわかる。以後注目すべき点は、私探しとかわいいの照応関係である。かわいいと私探しの関係の中で、まず注目すべきなのは、ロマンチックと言う現象だ。
 これは、自分や自分を取り巻く周囲の全てを「〜のような」と言う一定の主観的色彩によって統一的に彩ることで「自分と世界のロマン化」を示している。
 このような、ロマンチックな志向を手に入れる事ができたのは、少女マンガなどの影響が大きい。少女マンガなどから受容した私らしい私のモデルを、自分に置き換えて受容する(関係性モデルの受容)。そのような、様々な状況の中で、生きるモデルをマンガにおいて提示することにより、学習が進んだ事が、ロマンチック志向が人気を博した所以であろう。しかし、現在におけるかわいいと言う現象をロマンチックには求める事はできない。今、主流となっているのは、キュートなかわいさと言うものだ。
 キュートとは、個々のモノ・こと・人に関する、ある種の「子ども的」な属性―愛らしさ・無邪気さ・明るさ・活発さ・無垢・文脈からの自由―を志向するものである。
 このキュートが、主流になってきた原因は、ロマンチックな私探しというものに表面上は、関心を示さなくなった所から来ている。そのかわり、「皆同じ」という共有性を全面に押し出すコミュニケーションツールといての役割を果たす機能をキュートなかわいさは持っている。
 さて、この本当の、自分と言うのを求めない志向が、現在のかわいいの特徴であると文献を調べた結果導き出せた。しかし、これを鵜呑みにして良いのだろうか。 次からは、これを元に自分の考察に入ることにする。

4 考察
 キュートなかわいいコミュニケーションが、共有性を志向するものだと言ったが、本当に共有を志向しようとしているのだろうか? 多分答えは否だろう。現代社会においてコミュニケーションの希薄化という事がよく言われるが、このかわいいコミュニケーションと言うのは、ディスコミュニケーションと言う事が、最初から成立しているために、あえて、共有性というものにこだわったものを交わそうという、醒めた態度のコミュニケーションのように思える。
 このような考えを説明するには次の指摘が参考になる。宮台は、コミュニケーションの形態が、関係性モデル(自己と他者ひいては世界との関係)受容から断片的シーン(例えば、映画やドラマ、漫画などのありがちなシーン、お決まりパターンなど)の受容に移行したと言っている。この指摘から導き出される事は、多分に、全体性としてコミュニケーションが受容する事が、困難になったと言う事である。コミュニケーションの重要度が、シーンを共有するという、あまりに細分化されたものの共有でしか導き出されないものに変化したと言う事は、仲間集団のうちでも、希薄化を感じるという、現代社会希薄化論とも対応しているように思える。仲間という確かに共有するものが大きいコミュニティではあるが、仲間内でも共有したシーンに断絶があるとディスコミュニケーションとなってしまうのである。これは、個人の意識内の中でもシーンと言うものが様々に分け隔てられているためであると思われる。
 このように考えてくると、たゆまなく続く意識上の他者との差異(ディスコミュニケーション)をいったん隠して、擬似の共有性を味わうための役割をかわいいが行なっているといえる。
 しかし、このような差異化と言うのは、失効したはずの私探しと言うものを感じさせるものである。キュートなかわいいの現れと言うのは、ロマンチックな私追求と言うものを、巧妙に隠しながら生き長らえさせる要素を、持ち合わせているのではないだろうか? それが、現在の細分化された集団の中でも、まだ自分を探し出す結果を招いている。失った全体性が、差異化の果てに取り戻せるかのように。
 ただ、個人の意識が断片化している状況からも、全体として自分を認めてくれる集団、他者を見つけることは困難である。これを克服するのが、これからの課題である。シーンの断絶が自明の上での共同性を保ったコミュニティ空間の創設という難しい課題であるが、そうしなければいけない地点に、現在立っているというのは紛れも無い事実だろう。

(参考文献)
山根一眞『変体少女文字の研究』講談社文庫、1989年。
宮台真司『まぼろしの郊外--成熟社会を生きる若者たちの行方--』朝日文庫、2000年。
宮台真司・大塚明子・石原英樹『サブカルチャー神話解体--少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在--』PARCO出版局、1993年。

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