41歳の昔話


たかだか41年しか生きていませんが、北海道の水田地帯と札幌、
仙台とここいわきの山の中と、田舎と都会の両方の生活を経験して、
少しは他の人の知らない経験もあるかと思います。このコーナーは、
ヒマなときに息抜きでお読みください。  

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1.地域限定方言

2.西洋わさび

3.タニシとおたまじゃくし

4.カロリー自給

5.豊かな極貧生活

6.花畑

7.パッチ(花札)

8.赤どじょう

9.人生で最も疲れた日

1.地域限定方言

 北海道に生まれたものは、自分が「標準語」(あるいは、正確には異なるが「共通語」)を話していると思いこんでいる。が、北海道の人々が、全国あちこちからの和人(一部はアイヌ)の寄せ集めであることから、各地の方言もごちゃごちゃに入り混じっている。特に多いのは、北東北と北陸方面の方言である。北海道への移民は、当時貧しかった地域ほど多いと思われるから、方言にそれが反映しているのだろう。もっとも、いわきでも「浜言葉」があるように、北海道でも地域によって、方言が微妙に違ったりする(花札でも、「役」の種類が違っていたりして、ちゃんと確認してやらないと、ケンカの恐れがある)。私の生まれた長沼町の方言で、「かやる(自動詞・5段)」というのがある。他動詞形は「かやす」だが、普通は自動詞で使われる。共通語で言えば、「倒れる」と言うような意味だが、人には使わず、非生物にしか使われない。ところが、この「かやる」が札幌では通じない。距離にして長沼町と札幌市では30kmほどしか離れていないのにである。中学生のとき、札幌に転校して、「かやる」と言う言葉が通じていないのに気がついた。ところが、「倒れる」とか「育つ」というのは、やはり”よそ行き言葉”で、「かやる」「おがる」でなくては、しっくりこない。(「しっくりこない」というより、「あずましくない」)幸い「育つ・成(生)長する」と言う意味の「おがる」は、福島県以外の東北全域で通じるようだが(福島県でも通じるところがあるかもしれませんね)、長沼町以外で、「かやる」の通じる地域を私は知らない。この文を読んでいて、「かやる」の通じる人がいたら、是非ご連絡ください!これを書いた後、テレビ番組で美瑛町の農家のオヤジがトラクターが「かやる」といっていた。美瑛でも通じるんだなあ‥‥‥。

2.西洋わさび

 長沼町では、たいていの農家は、屋敷の裏や周りが何町歩も自分の水田になっていたので、自分の家専用の用水が流れていた。我が家の用水は、夏場は重要な遊び場となり、風呂水の汲み場ともなった。その用水の土手の一部に西洋わさびが自生していた。北海道では、本わさびは誰も知らないので、わさびと言えば、西洋わさび(ホースラディッシュ)のことであった。この西洋わさび、何にもおかずがないときに抜いてきて、すりおろして食卓にのぼった(我が家では例外なく辛いもの好きであった)。この西洋わさび、自生していたのは、我が家だけではなかったようで、後日、当時の友人から、「札幌からわさびを穫りに来るやつが多くて、土手が1本なくなった」と話していた。そんなに持っていくぐらいだから、売りさばくのだろうけど、そんなの買うやついるのかな。

3.タニシとおたまじゃくし

 私が小学校低学年頃の北海道の水田は、まだ農薬もそれほど使われていなかったのか、非常に生き物が豊かだった。まず、多かったのがおたまじゃくしとタニシである。おたまじゃくしは、水口が真っ黒になるぐらい、タニシは簡単にバケツいっぱいになるぐらいいた。おまけに、今の場所(いわき市遠野町入遠野)でみるタニシよりもずっと大きかった。おたまじゃくしが多いということは、蛙も多く、夜の鳴き声はそれはそれは凄まじかった。 
 ところで、我が家では鶏を飼っていた。20羽ほどだったと思うが、くず米がよほど出るので、飼料はほとんど自給できていて、食いきれなくて夏場は売っていた(少量でも流通した、古きよき時代)。で、小学生の私はせっせとタニシとおたまじゃくしをとって、鶏のえさにしていた。いまから思うと究極の自然卵だが、それからまもなく強力な農薬のせいで、こうした生き物は激減した。私が今、いくら無農薬で米を作っても、とてもあの豊かな田んぼは再現できない。失ったものの大きさを感じるなあ‥‥‥。

4.カロリー自給

 大学では寮に入っていた。東北大学以文寮という寮だったが、寮の話は長くなるので、別の機会にする。その寮の周りには松林と、草やぶがあった。この地の開墾が、今の私の百姓の始まりと言える。せいぜい30〜50坪ぐらいの土地だったと記憶しているが、このわずかの土地で、徹底的にカロリー自給を試みた。まず、6月にジャガイモが穫れ出し、そのあとトウモロコシ、カボチャと3ヶ月以上は米を1粒も食わずに、ほとんど自給生活でカロリーをまかなった。この土地で、こうした主食に代わるものの作付けは、3〜4割ぐらいのものだったので、ぜんぶこうした作物を作れば、たいした自給率になったと思う。
 もっとも、このときは研究室での生活で、肉体労働はあまりなかったから、こうしたことができたのだろうと思う。今ならイモやカボチャでは働ける自信はあまりない‥‥‥。

5.豊かな極貧生活

 現在、大学生は金持ちと相場が決まっているようだが、私を含めて寮生は例外なく貧乏だった。仕送りのあるやつはいいほうで、仕送り0の学生も多々いたようである。私も始めから親の仕送りはあてにしていなかったので、もっぱら奨学金とバイトで生活していたが、寮費は安いし、奨学金は民間のを含めれば、月額4万6千円にもなったので、けっして苦しくはなかった。むしろ余裕のある学生生活であった。が、大学院に入ってからは事情が変わった。実験をまじめにやれば、バイトなんてしているヒマはない。まじめに研究をしなければ、大学より遥かに合格するのが難しい大学院に、わざわざ苦労して入った意味がない。大学院の奨学金も月額5万ぐらいあったが、大半は就農資金に貯金しなくてはならない。このため、とにかくケチケチ生活に徹したが、食糧はなるだけ自給することにしたし、寮の生活費は光熱水費を含めても¥5000以下だったので、毎月の総支出は2万5千円程度で抑えられた。大学関係者の誰よりも安い生活費で暮らしているというのが、ひそかな自慢であった。うち、1万は必ず書籍代に充てることにしていたので、貧困さはみじんも感じなかった。ただ、研究室の飲み会に付き合うということはできなかったが、その分、研究室で飲み会をしょっちゅう主宰した。
 大学時代と違って、百姓を始めてから酒を飲んで話をする機会がぐっと減ってしまったのが残念である。まあ、体にはいいだろうけど。

6.花畑

 北海道の農家の春と秋は、もうメチャクチャ忙しい。今は大型機械が入って、少しは緩和されたようだが、田植えも稲刈りもかなりの部分が手作業だった私の子供の頃は、もう異常な忙しさだったと思う。一人で何町歩も植え、一人で何町歩も手刈りするのだから、内地の農家では想像がつかないだろう。今では、「よく命が続いていたもんだ‥‥‥」と感心するほどである。当時、大人でなくてよかったと、つくづく思うような、異常な超重労働である。(その頃のムリがたたり、高齢になってから、冬場に入院する農家のオヤジ達を、「越冬隊」というそうな‥‥‥)
 ところが、そんなに忙しいにもかかわらず、ほとんどの農家で、屋敷の中に広い花畑をきれいに作っていて、その面積は100坪以上も珍しくなかった。花畑を手入れするヒマがどこにあったのか不思議だが、どこのうちもよく手入れされていたように思う。学校に上がる前の私は、近所に同年代の遊び相手もいなかったので、近所の家の花畑や畑を見て回るのが一番の遊びであった。おかげで、当時は花の名前で分からないものがほとんどなかったぐらいであった。
 それに比べると、今住んでいるいわきの田舎での花畑はあまりに淋しい。ヒマを持て余しているじいさんばあさん(このあたりでは、「じっち・ばっぱ」という)が多いにも関わらず、花畑というものがない家さえ多い。北海道が例外だったのか、それともここがあまりに花に無関心なのか‥‥‥。

6.パッチ(花札)

 冬の北海道はヒマである。外の仕事は雪かきぐらいで、それに加えて、私のいた当時なら馬の世話、今なら機械の手入れぐらいであろうか。この時期の大人たちの娯楽はもっぱら花札で、カネをかけたバクチである。もちろん、当時のことで、今はどうか知らない。たぶんほとんど行なわれていないのではないだろうか。私の生まれた長沼町では、花札のことを「パッチ」と呼び、掛け率に合わせて、「1円パッチ」、「2円パッチ(掛け率2倍)」と言っていた。勝負は延々と続き、昼か夕方から始まったものが、翌朝まで続くことも珍しくなかった。私はそれを見ているのが好きで、おかげで物心ついたときには、すでに花札のやり方を憶えていた。学校に上がるまでに3桁までの足し算や引き算をかなりできるようになっていたのは、花札のおかげだと思っている。(ただ、花札の性質上、5刻みの計算が得意だったのは言うまでもない) 北海道の花札の特徴といえば、何より「役」が多いことと、その名前である。たとえば、北海道の「役」と手元にある任天堂の「役」を比べると、

四光:雨の光(こう=20点札のこと)も入れて、光が4枚=10点
任天堂の説明書では、こういう役はない。右は四光の例


本四:雨以外の光4枚=20点
任天堂の説明書では、これが四光で50点


五光:すべての光が集まったとき=30点
任天堂では、同じく五光で、75点


短冊の「役」は、雨の札はすべて「短」とみなした。雨が全部揃うと、「雨ぞろ」といって、あと短冊3枚で1役=10点となった。さらに短が増えるたびに10点ずつ増。(ちなみに、短が6枚のときは、「六反ビンボー」と言っていた)


雨以外の短冊が7枚揃ったら、「正七」といって、20点
任天堂のでは、これが「七短」で、50点


青短は任天堂と同じ(ただし、長沼では10点、任天堂のでは35点)だが、


赤短は、長沼では「すがわら」と言った。和歌で、菅原道真にちなんでいたのかもしれない。点は青短と同じ


続きはヒマなときに‥‥‥

8.赤どじょう

 私は小学2年生のときにはじめて釣りをした。釣りといっても、碁盤の目に区切られた田んぼの排水路である。排水路といっても、幅が何メートルもあるから、見た目には立派な川である。初めての釣りはそれこそ入れ食い状態で、1〜2時間の間にフナが20〜30匹も釣れた。ところが3年生に上がってからはフナはほとんど釣れなくなった。つれるのはほとんどどじょうばかり。どうも、この年ぐらいから水田の除草剤が一気に使われだしたらしく、魚毒性の強い当時の農薬ではフナはイチコロだったようだ。農薬に対して比較的強いどじょうばかりが残ったらしい。当時、どじょうはとてつもなくたくさんいて、金網で作った入ったらでられない仕掛け(なんと呼んでいたか覚えていない)を一晩しかけておくと、朝にはびっしり入っていたものだ。
 その年から、何度つりに出かけても、ほとんどフナは連れなくなってしまった。代わりにでかいどじょうが釣れた。柳川用に売っているあのかわいいやつではなく、まるでウナギのような大どじょうである。そして、たまに体の朱色の「赤どじょう」が釣れた。琉金のどじょう版と思えばいい。ただ、ここいらで赤どじょうの話をしても、誰も見たことのある人はいない。あの赤どじょうは北海道だけの特殊な生き物だったのだろうか? 他の地域で赤どじょうを知っている人がいたら教えてください。

9.人生でもっとも疲れた日

 大学にいたころ、2年まではオートバイを乗っていたが、3年のころから健康と環境問題のことを考え、自転車に転向した。自転車はあらゆる乗り物の中で、もっとも環境負荷の小さな乗り物である。よほどの荷物を運ばない限り1日150kmぐらいの移動はたやすい。起伏が少なければ、200kmぐらい走ってもさほど疲れないから、大学・大学院の頃、盆の帰省は、仙台から札幌まで自転車で帰っていた。もちろん、自転車で海は渡れないから、八戸から苫小牧、あるいは青森から室蘭まではフェリーに乗っていたが、フェリー代はたかだか¥8000ぐらい。青春18切符よりはやや割高だが、船の上は広いし、風呂も入れて快適そのもの。おまけに、北海道に渡ってから自由に走り回れる自転車は平坦な札幌周辺では非常に重宝な移動手段だ。 最初の2〜3年はまず岩手大(盛岡)の寮で一泊。翌日八戸港まで行って、夜9時半のフェリーで苫小牧まで移動し、昼前までには札幌に着くというパターンである。  盛岡までは仙台から186km(大学の寮からなので、190km弱といったところか)、盛岡から八戸までは130km弱といったところである。合計320km弱。自転車では休みなしに走っても平均20kmはラクに走れるから、これを1日で走れないか、と考えたところが、間違いの始まりだった。確か大学院の1年のときだったと記憶している。確かに普通の天気なら早朝に出れば21時半のフェリーに間に合ったかもしれない。ただ、その頃は天気図はあまり見ていなかった。まさか、運悪く日本海側にシュートした台風(あるいは台風崩れの温帯低気圧)が東進してきたとは露とも知らずに‥‥‥。  盛岡までの行程の半分くらいまでは順調に行ったと記憶している。ただ、岩手県に入った頃から北風が次第に強くなってきた。盛岡を過ぎた頃には向かい風がずっと吹きつづけ、時速20kmで進むことはかなり難しくなってきた。さらに二戸あたりまでくると坂道が多くなることもあって、さらに疲労が蓄積する。体も冷えてきて、力も出ない。三戸ぐらいでは心身とも限界にきて、ついにフェリーの出航時刻を過ぎてタイムアップ。これでは宿泊することもできないから、以前宿泊したことのある寮の友人(すでに大学を卒業して就職していた)の実家(母親の一人住まい)に電話をかけて泊まらせてもらうことにした。そして友人の実家に着いたのは夜中の11時半。さすがに精魂尽き果て、次の日は1日友人の実家の家業(製函業=お土産の菓子などを入れる紙箱を作っている)の手伝いをして、その日のフェリーに乗って1日遅れで北海道についた。でも、その日の天候にかかわらず、1日で300km以上を自転車で走るのはムリだということだけは分かった。   以降、ひまを見つけて項目を増やして行こうと思っています。
ネタは無限大にあるな

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