「おくりびと」で脚光あびる納棺師                      BACK


アカデミー賞     (道新2月24日夕刊)
おくりびと「番狂わせ」 3番人気米メディア驚き
【ニューヨーク23日加藤美喜】「おくりびと」がアカ
デミー賞外国語映画賞を受賞してから一夜明けた二十三
日、米メディアは「番狂わせ」「サプライズ」などと、
米国内で知名度が低かった同作の受賞の驚きを伝えた。


ロサンゼルス・タイムズ紙は「穏やかなユーモアを織り交ぜ、
厳粛な美を描いた映画が番狂わせの勝利をつかんだ」と紹介。
ニューヨーク・タイムズ紙も「昨夜の数少ないサブライズの一
つが、失業したチェロ奏者の物語を描いた日本映画の受賞だ」
と、意外さを強調した。大方の予想ではイスラエルの「戦場で
ワルツを」が本命。レバノン戦争を題材に元兵士が失われた記
憶を攻り戻していくアニメ・ドキュメンタリーで、ゴールデン
グローブ賞外国語映画賞など多数の賞を受賞し、ヤフーのユー
ザーによる予想でも70%以上が同作に投票。「おくりびと」
はノミネートの五作品中三番人気だった。
受賞理由については「戦場でワルツを」の前衛的な手法が保守
的なアカデミー会員には敬遠された、対抗馬とされた仏の「ザ
・クラス」との間で票が割れたため「おくりびと」に有利に働
いた、との厳しい見方も。しかし、納棺師という職業を題材に
した「おくりびと」は、日本の葬送文化を世界に伝える機会に。
ロイター通信は、遺族の前で遺体を清める所作を「魔術師のよ
うな巧妙な手さばきで繰り広げられる儀式は、死者へのお悔や
みと崇敬の気持ちを紡ぎ出す」と紹介。他国にはない日本独特
の文化だと伝えている。

本木さん指導、札幌納棺協会  洞爺丸事故機に設立

米アカデミー賞で外国語映画賞に輝いた「おくりびと」が描い
た「納棺師」という仕事。主演した本木雅弘さんの技術指導に
協力した札幌市の株式会社「札幌納棺協会」は、1954年に千
四百人以上が犠牲になった青函連絡船洞爺丸などの海難事故
をきっかけに始めたという。洞爺丸事故では、被害者が多すぎ
て葬儀社だけでは手が足りず、当時函館市に住んでいた遠山
厚さん(故人)が遺族への引き渡しを手伝った。遠山さんは遺体
を丁寧にふき清めることで遺族のつらさが和らぐ場面を見て、
六九年に札幌市で納棺協会を設立したという。現在は納棺の
技術や様式も複雑化。遺体に化粧をする際は仕上げを遺族に
手伝ってもらうなど、儀式としての側面も強くなっており、
同社では納棺師になるためには社内試験に合格しなければな
らない。同社の納棺師、堀江満さん(三九)は「裏方だが、高
いプロ意識を持ってやる仕事。受賞により、良いイメージで
世間に知ってもらえた」と話している。

死の重さ 心に刻み  家族との別れ志すきっかけ 
(道新2月26日夕刊)

映画「おくりびと」の米アカデミー賞外国語映画部門受賞で、
納棺師が注目されている。誰にでもいつかは訪れる「死」。
遺体や遺族に向き合う仕事を通して、納棺師はその人たちの
人生にも真摯に向き合っている。一方で、自らの肉親の死に
苦しみ戸惑う姿があり、それを機にこの職業を選んだ人もいた。
(報道本部阿部里子)


顔の半分がゆがんだ高齢の女性の遺体。三十年以上、顔面神経痛に悩まされ
ていたという。顔のゆがみを治し、きれいに化粧した。
遺族の女性は声を上げて泣いた。「嫁いで初めて、お義母さんの本当の顔を
見ることができました。ありがとうございます」。札幌市清田区の納棺師、
山本美幸さん(三九)は八年前、こう感謝された。納棺師は遺体をふき清めて、
仏衣や故人が好きだった服を着せ、化粧や顔そりをして、ひつぎに納めるの
が仕事。遺族は湿らせた綿で顔や体をふく。故人との別れの儀式だ。

山本さんは十年前、離婚し職を探していた時、情報誌で求人を見つけ、
納棺師に弟子入りした。「並の仕事では三人の子供の生活を守れない」。
そう報告した時の父親の苦い表情が忘れられない。仕事を始めてニカ月。
飛び降り自殺した若い女性の遺体と対面した。損傷の激しい遺体におびえる
山本さん。「亡くなった人に恥をかかせてはならないよ」。師匠の三宅勉さ
ん(七六)=札幌市西区=がそう諭した。三宅さんは、納棺師の職業が生まれる
きっかけをつくった遠山厚さん(1990年死去)の直弟子に、山本さんは孫弟
子になる。約千四百人が犠牲になった五四年の洞爺丸台風。多数の遺体に
葬儀社だけでは対応できず、函館で生花店を営む遠山さんも上磯町(現北斗市)
七重浜に打ち上げられた遺体の処置を手伝った。
札幌に移った遠山さんは六九年、株式会社札幌納棺協会を創業。三宅さんは
「遺体の肌を決して遺族に見せないのが遠山流。死者の尊厳を守ることに徹底
していた」と振り返る。山本さんは一万体近くを見てきたが、三年前、父親の
死の時だけは仕事にならなかった。仏衣に着替えさせる時に手を握ったら、
子供のころと同じ感触。思い出に涙が出て前が見えなくなった。「プロとして
失格でした」最愛の人の最期をみとれなかった後悔から納棺師になった人も
いる。山本さんの下で研修中の梶田明佳さん(二七)だ。昨年六月、七年連れ添
った夫が急死。対面した時はひつぎの中で、手も握れず、顔に触れるだけで精
いっぱいだった。「二度と戻らない時間を一緒に過ごせなかった。同じ思いは
誰にもしてほしくない」と訴える。

遠山さんが始めた会社は、全国に二十五の拠点を構えるまでに大きくなった。
納棺師は公的資格ではないが、社内で試験もあり、同社で育成した納棺師は
約百三十人に上る。その半数は女性だ。「おくりびと」の出演俳優に技術指導
した同社の堀江満さん(三九)は「日本の死生観が国内外に評価されたことはう
れしい。ただ、看護師など死者に直接かかわる仕事はほかにもたくさんある。
心から死者を送り出すことの大切さに、目を向けてほしい」と話している。

  生前の遠山さんをしのび

生きておられる本来のお姿に(自然にお休みになっておられるお姿に)整えることから、過去は「復元師」と呼ばれていたが、今はそうは呼ばないのかも知れません。

受賞映画ばかりが派手なニュースとして先行していて、少々それが気がかりでありましたが、北海道新聞で 故 遠山 厚さんの記事が記載されてホット少し安

心した気持ちにもなっています。どちらかと言うと、痩せ型で小さなお身体で 笑顔でしか浮かばない やさしいもの言いと、お人柄であったことが思い出されてきます。

札幌での元の職業は 生花業の中で「ヤマドリ」と言われていましたが、夏場の良い時期は山歩きをして、その当時は大変盛んであった「活花生花」の花材に

なるような枝物(マユミ、ナナカマド、松のような青枝物)を集荷して生花市場に出すお仕事でありました。雪の冬場は オクラ、イタドリ等の枯れ枝にハッポウ

スチロールのパール(玉)を吹き付けて着色したりして出荷しておられました。クリスマスには乾燥ヒイラギに銀着色したり新商品を開発されたりしていました。

そんな日々が過ぎてある日 日頃より心に集積してきた仕事(納棺師)を実現すべく決意をされたものと思われます。

ある日、大型半紙で整えられた巻紙に、なかなかの達筆の筆遣いで 遠山さんの編み出した「復元師秘伝」としたためた巻物をお見せ頂いた事が記憶にあります。

遠山さんは周知の通り、大変お酒の好きな方で いつもアルコールの匂いのするやさしいおじさんでした。その当時はそれほど厳しくも無かったせいもありますが

遠山さんの夜の霊柩車は警察も公認で堂々と走っておられたやに、ご本人からお聞きしたことがありました。

葬儀組合の宴席では いつも手拍子で「鯵ヶ沢甚句」「外山節」「八戸小唄」が十八番で賑やかに楽しい方でありました。

このように初期は 素朴で自然な本来の人の感情 悲しみを和らげるべくの「儀礼」であったものを、後々のものが種々変化、修正、発展させたものではあるが、

何処と無く今気になるものは、「他に見せる」もの飾られるものがあり、ショー的に語られると気になる部分もある。悲しみのご家族の前で 決して美しい一辺倒で

はなく、「魔術師のような鮮やか巧妙な手さばきで崇敬な気持ちを紡ぎだす」と絶賛だが、 本来は無いことの(めったにない)不幸に見舞われて、ぎこちないが

家族の手で真心を込めて、最後の供養をするのが 本来の故人に対する礼儀(つとめ)であることには 変わりはないと思われる。
                                                                                             合 掌



   札幌の葬儀事情・・・・・・・・ 札幌は全国に先駆け 30年先を走ってきた                          BACK




 こんな機会も少ないようで、葬儀の札幌事情を少し述べてみたいと思います。  

前述の通り「納棺師」が今から四十年前に発足誕生して、今や全国に広まったのは周知の通りでありましたが、時期を同じくして その頃から 

札幌の「祭壇飾り」は全国に先駆けての「大量生花花飾り祭壇技術」と会場の天井を飾る「幕張り技能技術」の著しい向上発展は、目を見張るものがありました。

天井の幕張とは 画鋲を何千本も用いての「折り返し幕」や両脇に何重にも重ねての「円形シャンデリア」やその応用デザイン等々、各葬儀社は競い合って 技術の

向上を図ったものでありました。(:現在は斎場の施行が多くなり幕の使用は少なくなっています。)    同時に祭壇は「道具の飾り」(内地、全国的には)よりも

生花による「花祭壇」方式が主体になり、各生花店の若者達が中心になり、直線から曲線に、平面から立体的にと 日々競争研鑽精進した結果、そのレベルは

全国一を誇るにまで到達した経過があります。 今や全国つづうらうらまで、納棺師、生花祭壇は常識にまでなっています。

この大きい流れを発展させた裏には、全国葬儀業界をまたにかけ、広く商いを展開している 福井の元繊維卸業のK社の影響力に、誠に大きいものがありました。

カラーで鮮やかなぼかしの長短の幕を多数開発し、祭壇の中の各種多様な灯篭の開発、両脇に飾る「飾り庭道具」の開発、柩の中の各種飾り、仏衣の題材の開発等々、

より良い物をと、この北海道方式を、全国に広める大きな役割を担ったわけであります。

全国 (内地) 的には長い長い誇りある伝統、習慣、慣習しきたりがあり、まったく新しいものに取って代わるには、すこぶる大きい抵抗があり、そう簡単に受け入れがたく

(この職業に対する差別的又は偏見もあったりして) これが為に遅れを取った感もぬぐいきれない。 それに控え新札幌の地は、流行歌新曲の発表の地であり、

結婚式は例の会費制であり、葬儀も通夜に大勢集まり 香典には、少額の香典返しを用いて 会費制に近いものがあり、大変合理的で 効率よく 生活の知恵であり、

何でも新しいものに飛びつき 塗り替えてしまうこの気質が、このときばかりは 幸いしたのかも知れない。                       合 掌   09"3/1




           

    参考ホームページ       ヤフーの納棺師に対する種々ご意見        楽天ブログ「今日のご遺体」        批判的
     (様々なご意見)