第30回(平成17年度)記念大会  曹洞宗婦人会 北海道管区研修会                                
   
       平成17年7月25日(月)    札幌パークホテル
(札幌市中央区南10条西3丁目)                                      BACK

       これからの日本

総務省の平成14年9月に発表した高齢者 の推計人口によると、65歳以上の高齢者 人口前年比78万人増の2,362万人(男性995万人、女性1,367万人)で、総人口に占める割合も、前年より0.5ポイン ト上昇し、18.5パーセントになっています。つまり、人口、割合とも過去最高を更新した わけです。また、75歳以上の人口は、1,003万人で、はじめて1,000万人を突破したそうです。 こうした史上空前の記録は、実に驚くべきことで、この寿命の伸びはさらに記録を更新 しつつ……。これからの30年後くらいには、国民のおよそ3人に1人が、65歳以 上の高齢化時代がやってくるそうです。このように長寿の点では、世界一の日本で はありますが、その反面、寝たきり老人をふくむ痴呆老人も増加の一途をたどり、これが 家族や地域社会の苦悩を増大させ、大きな社会問題となっています。自分だけは長生きをしても、なんとしても ボケたくない!と思っていても、現実は着実にその数は増えつづけ、やがてわが身の問題となるかもわかりません。

     
〃老いの戒め"

1,紅葉は春の花よりも更に趣あり 若きより老いて後人円熟す 晩成すべし
2,昔日を自慢すべからず 人の価値は今日に定まる 励むべし
3,余命少なき一日は 若き日の十倍の価あり 慎むべし
4,世間に陰徳の種子まけば 家門に陽報の花咲かん 努むべし
5,いまだ死を免れたるものはあらず 迎えのある時は安んじて 旅立つべし
                       (西国第29番 青葉山松尾寺 訓読書より)

以前、読んだ覚えの"老いの戒め"ですが、 老いをただ漫然と受け入れることなく、この 老いの戒めの言葉をしっかり味わいたいものです。「大器晩成」と申します。晩年になっ てからこそ人格、技能など十分に熟達して、 ゆたかな内容をもつようになるのです。 また、若いころのことを自慢することな く、素直に、そして、ひかえめにしてこそ、 誰からも好かれるのです。昔のことはさておき、今、このときを大事に、日々精を出すように励みましょう。 さらに、残りの命が少ない老人なればこ そ、一日一日が若い日の十倍、いえ、もっと もつと充実した日々でなければなりません。 度を越さないよう、控えめに行動することも 必要でしょう。 人に知れないように施す恩徳も大切です。 陰徳はすぐには現れませんが、俗に"陰徳あれば陽報あり"と申します。

"死について"   "死を視ること帰するがごとし" と申します。ゆったりとして迫らず、従容として旅立ちたいものです。 平成十四年の敬老の日に、読売新聞の特別企画で、五・七・五の十七音による定型の短い詩で、次のようなものが掲載されていました。 (敬称略)

 
老妻に 礼を云うのに 酒が要る      千葉 白石昌明(65)
  晩酌の お供をするね 今日くらい     東京 小岩綾子(25)
  敬老の 歩幅となって 母と旅        東京 角村栄司(70)
  父の背な 私の大事な 道しるべ      千葉 大越勝治(57)

このように配偶者へのいたわりの言葉、両親や祖父母に対する感謝の言葉が、受賞作品として取り上げられていたのです。 俳句ではなく、川柳じみた作品ですが、ほのぼのとした、敬老の日にふさわしい、心あたたまるもの。老いも若きもかくありたいものです。                
 〒105-8544 束京都港区芝2ノ5ノ2 曹洞宗宗務庁内曹洞宗婦人会 (03)3454-6454
  人様に尽くす心      「自己をわするる」 ことの実践 四摂法の教え

一人の心というもの 私たちは日ごろどのような考え方で暮らし ているのでしょうか。たとえば、美しい桜の花が咲いたとします。
桜の花は開花から散るまで、せいぜい二週間の命でしょう。そのた めはかなさの代表としても扱われます。このはかなくも美しい
桜の花が咲いたとき、私たちは「お願いだから散らないでちょうだい。 もっともっと長く咲いててちょうだい」と勝手なことを思います。
そんな思いの中で散っていく桜につい感傷に浸ってしまいます。 庭に草が生えたとします。お客様に草の生えた庭を見せるわけ
にはいきません。「生えなきゃいいのにめんどくさい」といいながら不機嫌な気持ちで草取りをします。草は意地悪で生えているの
ではありません。種が落ちたところを命の場として生きているにすぎな いでしょう。庭だから生えるなというのは人間の勝手です。
こんな風に人間というものは勝手な心で生きています。でも現実の世界は人間の勝手な心のいいなりにはなってくれません。そう
すると、私たちは、悲しんだり、腹を立てたりということになってしまうのです。なにも花や草の場合だけではありません。あらゆるこ
とに勝手な心を向けていますと、こんな風にならざるを得ないといえましょう。 二笑顔で暮らすそこで、悲しんだり、腹を立てたりせず
に生きていくためには、どのようにすればいいのでしょうか。もう答えは出ています。勝手な心を棚上げして生きていけばいいのです。
簡単に言ってしまいましたが、「勝手な心を棚上げして生きていく」とは、言うは易し行 うは難しで、簡単ではなさそうです。そもそも
「勝手な心」とは何でしょうか。正確には「自分の勝手な心」となりましょう。自分が今見ている花や草といった対象の側から考えます
と、花は散るものであり、草は生えるものである、となりましょうが、それを私たちの心の側から考えますと、散って欲しくないもので
あり、生えて欲しくないものである、となります。この後者の考え方が「自分の勝手な心」ということになりましょう。 対象、すなわち
現実(花は散るもの)にではなく、自分の心(散って欲しくない)の方に重心を置いた考え方が「勝手な心」だということです。その場合、
自分の心と現実とは一致していませんから、思うままにならないという苦の感情が起こりますが、この苦の感 情を起こさないために
は、自分の心から現実 (対象)の方に考え方の重心を移せばいいと思うのです。花が散るとき、「散って欲しくない」から「散ってあた
りまえ」に心の重心を移すわけです。そのようにできれば「勝手な心を棚上げ」できたのであり、花の散るのもまた風流と言える心の
余裕もできましょう。草が生えても黙々と草取りもできるのではないでしょうか。きれいになった庭を見て思わず笑顔がこぼれるかも
知れません。 三人様に尽くすこの自分の勝手な心を棚上げするということが道元禅師の「自己をわするる」というこ とではないかと
思うのです。そのための方法として道元禅師は「座禅」を正門として説かれました。でももう一つ勝手口から入る方法 も説かれている
ように思います。それが「四摂法」という入口です。すなわち、

欲張らず に人様に物を差し上げる(布施)、
自分のことばかり考えずに人様のことを考えてやさしい言葉をかけてあげる(愛語)、
人様の役に立つことをする(利行)、
自分を人様と区別せず同じ目線に立って考える(同事)  の四つの方法です。

この方法は、人様のことだけを考え、人様に尽くす実践ですから、対象の側に重心を置く考えになるかと思います。この実践によって
も「自己をわするる」、すなわち「自分の勝手な心を棚上げする」ということが達成できることでしょう。そして、笑顔で幕らすことができ
るようになると思います。人様に尽くす心は、実は、自分が笑顔で暮らせる心だったのですね。 (山口県・萩・海潮寺 木村隆徳)
「授かりとして いただく人生と 択ぶ人生と」    愛知専門尼僧堂長  青 山 俊 董 さま     
青山俊董先生講演より 05"7/25録音解釈

30周年の節目に当たり その息の長さを 長寿の秘訣に例えて見れば 寺院の何百段の石段を毎日登るについて 下から見上げると
どうにも心(気分)がなえてしまう。見上げずに足元の一段一段を今日を「もう一歩、今一歩」と踏みしめて いつの間にか一年十年百年
永劫に歩くに例えたり。 

よしやろう⇒発心(やる気、願い)して思うところ具体的に⇒実践する→始めたら⇒相続する(三日坊主にしない)
そう簡単ではないから⇒「曲がりながらまっすぐ行く」⇒人生色々大回りしながら⇒豊かになりながら→後ろに下がったり→力を
増しつつ、一層力を増して→それに慣れて押してゆく。予定通りに行かないから(掲げた灯を灯しながら)豊かに力を増しつつ
前に進もうではないか。

それを相続していると→慣れてきて「何とかやることが出来るようになる」⇒やがて、初めてのういういしい気持ち願いが消えて
(本気が消えて)→いつの間にか おごり惰性になって→長いだけでは中味がなくなっていく。⇒あくまでも貯金ではない
「現在進行形である」→何年修行した(過去ではなく)今 只今に取り組む。

授かりとして頂いている人生と⇒男女を択べないと同様⇒「生かされている命の姿は、病んで健康を失う時に気付かせて頂く」「病が又
一つの世界を開いてくれる、心の花が大きく開いた」→ひとつのものも頂きようで「人生の財産に転じて行ける」
南無病気大菩薩⇒病むことを得たり(余計に心配等で病を重くしてしまわないように)→積極的に人生の財産に変えてゆこう。

病気をしたとき→勿論病気を択べないが→「仏様からの授かり物とあらば」→「もろ手を合わせ承る(すべてお任せ)」⇒「全部頂いて、
エリ食いはせぬ」.....海は、いかなる川の水も平等に受け入れる。⇒「私」を空っぽにして無条件にニコニコしながら受け入れる。

円相⇒無始無終まどかなる事⇒出発点であると同時に、どの一点を抑えても、同時に終着点。⇒生涯修行→今ここを全力投球→災い転じ
て幸、財産、楽しんでゆこう。

私にとって、この身、都合、好き嫌い、利益か否か、いつも真ん中にいがちなもの⇒韓国の地図は韓国が中心、日本もしかり(国のエゴ)
⇒一つのものを見るにしても、真に透明でない→自分の物差しでしかない→私の持ち合わせの寸法でメガネを掛けて見がちである。

四運を一景に⇒生(ショウ)老病死→どの様な時も「追ったり、逃げたりせず、同じ姿勢で、景色に応じて、積極的に」⇒
一つの景色としてみる。

「下り坂には下り坂の風向がある」⇒愛憎⇒あえぎつつも、のぼせ上がった自分自身を突き放して、客観的冷静に(騒ぎ立てて見えない)

涅槃行の一つ⇒福徳を授ける吉祥天、寄り添うのは災悪を授くる黒暗天⇒如何なる事があろうとも、追ったり、逃げたりしないで→「投
げられた処で起きる小法師(こぼし)かな」⇒そこを正念場として、姿勢をただし、腰をすえて、オタオタせずに真直ぐに受けて立つ。

四運は仏家の調度⇒人生の道中は色々あった方がいいんじゃ。⇒「人生何もなかれと願うけれど、何もないと退屈でかなわんぞ。→色々
あるからいいんじゃ。→七転八倒して「死にたくない、死にたくないと言うけれど、皆んな生きていたら困るじゃないか。

ご祈祷の寺では、一つ一つ小出しに頼まず、頼むなら全部頼め。⇒全部頼むというのは全部お任せじゃ⇒お任せ出来たら楽ですぞ。

この生かされている命というものは→親からもらった、天地一杯からの授かりじゃ。→地球の24時間自転は月の引力のお陰(それがなけ  
れば6時間自転で人類が生まれたかどうか?)→この命を授かり、生かして頂いている大切な命ゆえに⇒限りなく何が本物か、間違いのな
い本当の信仰か→限りなく見極めて歩まなければならぬ人生だ。

先生16歳のときの唄⇒「紅に 命燃えんと緑なす 黒髪たちて 入りし道かも」

般若⇒「みんなで一番いいものを探そう、値打ちのないものに、あくせくしないように、目の深さ、高さを、間違いのない、霊験な、厳
しい目でよく見て、正しい教えに出会うことが大切である。

今一言の最終⇒和顔(ワゲン)→くやしくて「こぶし」を上げたいが、(恨みつらみをぶつけたりしては、修羅の世界に入る)⇒その「こぶ
し」を広げて合掌する。→今一言を深呼吸してニッコリ慈しみの笑顔⇒「夫婦喧嘩は合掌してから」....笑い
青山俊董さま 小樽 龍徳寺にて H11−9−16 講演録音より (当時先生66歳)
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最近はめっきり北海道来道も多くなりました⇒「手のつかぬ 月日豊や 初暦」元旦の日、今年一年365日色々な可能性を秘めた毎日 
を期待して様々を描く。⇒すべての人々に、一日24時間、一年365日手つかずの時間の財産を、全く平等に授かり頂いている。

人はその24時間を⇒1〜2時間にぼんやりか⇒30時間の中味を濃く使うか→光でうめるか、闇でうめるか。
世の中には四種の生き方、考え方を選択する人々がいる。
  1.闇から闇へ 2.闇から光へ 3.光から闇へ 4.光から光へ ⇒授かりとして動きようのない物と思える事も、ダメと諦めることな   
      く、変えてゆく。⇒良い方へ転じる事も出来ると同様に、悪いほうにも変えてゆく事もあるから注意が肝要。
  2.変える主人公は、他ならずして私の人生を決めるのは私自身。⇒私の今日只今の生き方にかかるのじゃ。

下のう(農?)は草をはやし、中のう(農?)は作物を作り、上のう(農?)は土を作る。

「太陽は、夜の明けるのを待って、昇るのではない。⇒太陽が昇るから、夜が明けるのじゃ。」⇒物事が上手くいかない時他人や他に転  
化しがちであるが、事の解決とはならない。→心がけを、私の責任において、喜びつ変えてゆく姿勢が肝要。

「瀬戸物と瀬戸物がぶつかりっこすれば、壊れてしまう」→どちらかが、やわらかい気持ちで....。→とかく自分の事は判らないもの
  私がいけなかったかも知れない、もし自分が瀬戸であつたとしたら、やわらかい心で接しよう。⇒仏様の清い光に照らして頂いて初  
    めて自分の欠点が見えてくる。

「過去が咲いている今(総決算)、未来の蕾で一杯の今」⇒一点のゴマカシもなく、○○年どんな生き方をしてきたか、生きてきた決算が
 今の私の姿だ。→明日が見える今を生きる。

「若きは麗しい、老いたるは尚に麗しい」⇒俊董様還暦の唄「還暦の 峠を越えて 新たなる 又旅立ちをする (楽しからずや)」→仕上げ  
    時よしやるぞと、老化で一服ではない。これが景色である。

「生老病死」老を見据えて人生を深める⇒病を見据えて人生を深める⇒死を見据えて人生を深める⇒今日一日頂いている命(これが景色)
 如何なる状態になろうと、仏の手の中から無条件で授かる→如何なっても結構(文句がない)⇒「全部頂く、エリ食いはせぬぞ」
 PPK(ピンピンコロリン)死に方まで人は択びたがるものであるぞや。

作曲家→楽譜に移す→命がない⇒生演奏によって→命が与えられて感動を呼ぶ
 真の道理教え→人の言葉となって説かれ、お経になり→今日まさに成すべき事を実践し命が与えられる。

幽霊の話その特徴 1.オドロ髪→もう済んでしまって如何にもならない事を、怨念、執念、愚痴のように、引きづり続けて、心の荷物と               
                             して、闇から闇に向かう心。
                 2.前両手 →来るかこないか判らない事に取り越し苦労呼び込み。
                 3.両足なし→過去へ未来へと今ここを(足元)を限りなく取り逃がしていつつ(足がない)
怨念に満ちた眼→1.オラの嫁っこの眼だ  2.オラはそんな眼で嫁っこ見ていたかな⇒大違いだね。→人の欠点を見るが、自分の角は見        
    えぬもの。→仏の光で見させて頂く。→悪口でもいい、第3者を通じてでも、伝え聞いても直したい。

この体 鬼と仏とあい住める→六地蔵(天上界 人間界 地獄界 餓鬼界 畜生界 修羅界) →十の戒
   十重禁戒 十の戒め
     不殺生戒。(フセッショウカイ)いのちあるものを、ことさらに殺さざるべし。
     不倫盗戒。(フチュウトウカイ)与えられざるものを、手にすることなかるべし。
     不邪婬戒。(フジャインカイ)道ならざる愛欲を犯すことなかるべし。
     不妄語戒。(フモウゴカイ)いつわりのことばをロにすることなかるべし。
     不酷酒戒。(フコシュカイ)酒に溺れて生業を怠ることなかるべし。
     不説過戒。(フセツカカイ)他人の過ちを責めたてることなかるべし。
     不自讃毀他戒。(フジサンキタカイ)己を誇り、人を傷つけることなかるべ、
     不樫法財戒。(フケンホウザイカイ)物でも心でも施すことを惜しむことなかるべし。、
     不瞋恚戒。(フシンイカイ)怒りに燃えて自らを失うことなかるべし。
     不謗三宝戒。(フホウサンポウカイ)三宝を謗(ソシ)り、不信の念を起すことなかるべし。

「仏生」→この地上にある住むすべてのものが、この大空の下の大地という一つの床の上に住む(例外のない、宇宙船地球号)兄弟仲間じゃないか。
   →垣根をきづいて争いが絶えぬのは悲しいことだ。→仏さまは、まったく平等の命、命頂かねば生きては行けない。
   →あの空、あの山も、我が家の月山なのだ。

この地上に住むもの⇒ 1.鉱物→物質 2.植物→物質+命 3.動物→物質+命+喜びと悲しみ 4.人間→前者と命の尊さを頂き感じる。

「仏教」⇒自覚の教え。⇒今をどう生きていくか→幸せに生きてゆこうではないか。→悲しみ苦しみの闇〜光へ又は光〜光へ。

蓮華は泥田に咲く(清水には育たない) 1.泥を嫌うと咲かない。2.泥を肥料として転ずる。(材料)3.泥そのもの=イコールではない。