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般若心経とはどういうお経か


般若波羅蜜多心経 キリスト教では《聖書》(バイブル)1冊でその教えの全部を見ることができるのに対して,
仏教のお経はあまりにもその数が多く,どれをとり上げたならば,教えの全容を見ることができるかという嘆きの
声をよく耳にする。たくさんのお経はそれぞれに理由があってでき上がったのであるし,それを一つにまとめたり,
他を否定したりしないところに仏教の特色があるのであるから,仏教を代表する経典というものをあげることは
困難である。 しかし《般若心経》がそのような代表的経典のひとつであることはまちがいない。その理由を順に
考えていくことは,この経典の特色を示していくこととなろう。

短い,深い,美しい
[特色]まず第一に,その分量がきわめて少なく,全部を音読しても50秒から1分ほどしかかからない。もっともよく
中国や日本において読誦された唐の玄奘(600頃〜664)訳の 《般若心経》でも,経題と本文あわせてわずかに
260字にすぎない。読諦にも写経にも,もっとも簡便であるし,短い文章であるから,文字を解さぬ文盲の人に対しても,
絵で文字の代わりをさせて全文読ませるという,いわゆる 《絵心経》のようなこともでき,この経典の一般性,大衆性
をますます強めたのであった。 同じ意味で.経典を書写してなにごとかを祈願したり,心身の修行に努める(写経)
の題材としても《般若心経》は最適であり、昔、後光明天皇(1633〜54)が疫病平癒を祈って,紺紙金泥の
《般若心経≫を写経されたことがあり,近時では,奈良の薬師寺金堂は,廷ベ100万巻をこえる 《般若心経≫の
写経勧進によって450年ぶりに再建の功をなしとげた。昔から俗に(習ったお経は心経に観音経)といわれるほどの,
仏教経典代表としての大衆性は,なんといっても,コンパクトな,この経典の分量によることが第一であったとい
わなくてはなるまい。 
第二にその内容である。いかに手ごろな分量の経典でも,内容が仏教思想のエッセンスを伝えていなかったならば,
《般若心経》 も,このように広く世に行われることはなかったであろう。《般若心経≫のなによりもすぐれたところは,
難解であり弊行である仏教の教えのもっともたいせつな点を,簡素な文章で十分以上に示しきったところにあったと
みなくてはならない。その一々は文に従って見るべきであるが,いまその要点だけを示してもたいせつな点が4点ある。
@仏教の教えの根本を,(空(クウ))という思想にあるとみたこと。(空)とは,いま目に見えるいろいろなものに,
これこそ永久不変のものだと固執しない考え方を示す。ものは移ろい変わり,ものには本性がない(諸行無常・
諸法無我)という考えは,釈尊以来の仏教の世界観であり人間観であったが,この経典は,大乗仏教の用語に従って,
それを(空)の1字で表したのであった。
A(空)という境地を観,その境地をつかむのは,ただの知恵の働きでは不
可能である。科学的知恵では,ものは対象として存在するのが前提だからである。(空)をつかむのは,知恵も無知
もこえた,根涯的な働きによるほかない。このような真実を直接つかむ働きを(真実智)と仏教ではいっている。
これがサンスクリットでいう(プラジュニャー)であり,中国人は(般若)と書写した。これが経題になったのである
したがって、(般若)によって(空)を観、(空)は(般若)の内容をなしているわけで、昔から(般若)を(能観の智(観
るほうの知恵))(空)を(所観の智(観られるほうの知恵))といったのはこのためである。《般若心経》は,この
〈仏の知恵>である(般若)の働きを説いた経典であった。
B(般若)が適当な訳語で親しまれず,最後まで(般若)
という音写語で適したのは,内容が深いためであるが,そのもっともたいせつな点は,これが単なる知恵でなく,
これによって(さとり)をひらき,(涅槃(ネハン))に至ることができるという強い実践上の意味をもっていたからである。
このように,(般若)によってJ(さとり)の岸に到ることを(到彼岸(トウヒガン))という。そのサンスクリットが
〈パーラミター)で,中国人はこれをも(波羅蜜多(ハラミッタ)と音写した。 この経典の原題になったのはそれである。
(仏の知恵によってさとりの彼岸に至る(般若波羅蜜多))という考えも,釈尊以来のもので,先の(諸行無常・
諸法無我)にあわせて(涅槃寂静(ジャクジョウ))という3句を(三法印(サンポウイン)仏教と他の教えとを分ける
三つの印))というが,(般若)が前2句,(波羅蜜多)が後1句に当たるといえよう。それは合わせて三つということ
ではなく,ものは移ろい変わり,ものには不変の本性がないということが わかり,その境地に安住することができる
ようになれば,それがそのまま仏の涅槃、すなわち寂静なさとりである,なにに固執し,なにをあせることがあろうか,
という境地が開けてくる。
Cかくて般若心経≫は,ものに固執すべきでないことを示しつつ,いまあるものがそれぞれ
に意味をもつことを強く肯定する。否定を通じての肯定であり,肯定に堕せぬ否定であった。これは,仏教の人間観・
修行観の根底ということができよう。人間を否定し去れば,なにをもって仏教の目的を打立てることができよう。
しかし,単なる人間肯定であったならば,どこに(発心(ホッシン)信心を発すること))の必要があり,どうして(修行)
の目的を立てることができようか。それはまた同時に,仏教の自然観ともなり,芸術観ともなった。(柳は緑,花は紅)
ということばのとおり,与えられた自然の中に,仏の心が宿るのを観ることができるようになるはずである。
古来,《般若心経》をもととして,その心をあらわした芸術が数多く産みだされたのはこのためであった。
《般若心経》の(心)にはこのような否定と肯定の大転換という意味がこめられていた,といってよいと思う。
 
第三に形式上の特色があげられる。《般若波羅蜜多心経》,略して《般若心経》,《心経》は,大乗仏教の中心思想
であり,無数に作り出された《般若経》−その最大なものはじつに600巻に上る−のエッセンスである。したがって
一字一句も省略を許さぬ美しいひきしまった文辞で成立っている。これがこの経典の広まった もう一つの理由と
みることができよう。

真実の実践                                                  BACK
観自在菩薩(かんじざいぼさつ)が
深般若波羅蜜多(じんはんにゃはらみった)を行じたもう の時 五蘊(ごうん)は皆空(かいくう)
なりと照見したまい 一切の苦厄(くやく)を度したもう。

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 この経典の主人公は観自在菩薩、すなわち観音菩薩である。観音と言い、観自在と言う名は、ともに
この世の人々の苦しみを救う働きを表している。 浅草の観音信仰や、西国の三十三観音の信仰に見られるように,
観音菩薩は,すべての人のすべての苦しみを救うのが目的の仏である。この観自在菩薩が《般若心経》の教えを説く
ということは,この経典の目的が,人の苦しみを救い,人々を仏の国へいざなうことを目的としていることを示している。
 その要諦が経題による(仏の知恵によって彼岸へ赴くこと),すなわち(般若波羅蜜多)である。この(般若波羅蜜多)
が仏の深い慈悲のあらわれであるがゆえに,(深般若)といい,それは実践の内容であって,理解の対象に止まる
ものではないがために,(行ずる)というのである。この,人々を救う行いをするとき,観自在菩産は無我の境,
空の境に立つ。(五蘊は皆空なりと照見)するというのがそれである。(五蘊)というのは,自己と外界を形づくる五つの
力ということで色(シキもの),受(ジュ印象作用),想(ソウ表象作用),行(意志と行動),識(シキ理性と認識)の五つは
みな無実体であり,したがって人間の喜怒哀楽も迷いも根拠のないものであることを見抜き,かくて,(一切の苦厄),
すなわち,すべての苦しみと災厄をこえ,救われる,というのである。

色は空なり
舎利子(シャリシ)よ、色(シキ)は空(クウ)に異ならず、空は色に異ならず。色はすなわちこれ空なり、空はすなわち
これ色なり。受想行識もまたこのごとし。

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<般若心経>の説法者が観音菩薩であるのに対し、その聞き手(対告衆)が
舎利子(シャ−リプトラ)である。舎利子は実在の仏弟子で、知恵第一といわれ、十大弟子の一人であった。こういう
実在の人物が、神話的存在である観音菩薩から説法を聞くという構成も、大乗経典ならではのおもしろさであろう。
この舎利子に対し,観音菩薩がくり返し教示するのが,(ものは実体なく,実体ないのがものである)という教えであった。
(もの)(色)に実体がないように,(五蘊)の他の四つの力,すなわち,(受・想・行・識)も実体ない,というのが,この
一段の趣旨である。しかし,これが単なる現実否定でもなく,またもちろん,単なる現実肯定でもないことは上に見た
とおりで,否定を通っての肯定,肯定に生かされる否定であることは,《般若心経》の真趣旨として見落としてはならぬ
ところであろうし,ましてや,これを同語反復としたのでは,まったく真意を見落としてしまう。

変わりなき世界
舎利子よ,この話法の空相は, 不生(フショウ)にして不滅, 不垢(フク)にして不浄, 不増にして不滅なり。
このゆえに空の中には, 色もなく, 受想行識もなく, 眼耳鼻舌身意もなく, 色声香味触法もなく,眼界もなく,
乃至(ナイシ)意識界もなし。
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宇宙と自己の実体(五蘊)が,すべて実体がないことを見抜けば,つぎに,その実体のあらわれた姿(相)はどう考える
べきかが課題となる。ここで《般若心経>示すのが,有名な(空相の六不)という説である。すなわち,無実体である(空)
が,世にあらわれるとき,それは く生じたり滅したりすることがない),(垢(ケガ)れたり,浄(キヨ)らかになったりする
ことがない),(増えたり減ったりすることがない)というのである。究極の境地を否定的表現によって表現するのは
インド人の伝統的方法であったが,ここでも,実体なく,したがってそれにとらわれることなく,自由自在であるという,
大乗仏教の至高の境地である(空)は.すべての相対的判断を絶し,永久不変の寂(享)かな境地であり,表現として
は否定,内容としては実践でしかつかみえないものであることを,このように示したのであった。
(このゆえに空の中には‥…)という以下は,(色・受・想・行・識)のような宇宙と自我の構成力も,(眼・耳・鼻・舌・
身・意)や,それに対応する感覚である(色・声・香・味・触・法)も,さらには,それら感覚の働く領域である
(眼界・耳鼻‥…・)以下(意識界)も,ことごとく実体はないことが示されている。中国仏教初期を代表する高僧で,
四大翻訳僧の1人である鳩摩羅什(クマラジュウ)の第一の弟子であった僧肇(ソウジヨウ374〜414)は,王の怒りを
受けて死刑となったが,死刑前の7日間に《法蔵論》 という著書を書上げた。その中でいう,(四大(自己と外界を
つくる四つの根源的なもの,地・水・火・風)元(モト)主なし。五陰(ゴオン五蘊と同じ)本来空。首(コウベ)を以て
白刃に臨めば,猶(ナオ)し春風を斬るが如し)と。これこそ《般若心経》にいう(空)の(不増不滅)の境地といって
よかろう。本来土から出た人間が,なすべきことをなしとげて再び土にかえっていくのに,遅速や運不運があるはず
がないではないか,ということであった。

生死をこえて
無明(ムミョウ)もなく,また無明の尽くることもなく,
乃至老死もなく,また老死の尽くることもなく,
苦集滅道もなし。智もなくまた得もなし。無所得を以てのゆえに。

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 古典はつねに慎重であり,自己の主張よりも読者の受けとり方を考慮して説かれている。
《般若心経》 もここにおいて,実体→表現→人間へとその説き方を進めてくる。すなわち,万物は無実体である
ことを示し,進んで,その表現せられたものも無実体であることを示したのち,それを受けとる人間の側にもとらわれ
のあってはならないことを示す段階へと立至る。 この(人間にとって根本的なものの見方)を示すに当たってとられ
た方法は,釈尊の根本説法で用いられた(十二因縁)の説法であり,(四諦(シタイ))の法門であったことは
きわめて興味ぷかい。このあたりにも,《般若心経》が広汎な信者,読者を得た秘密があるのであろう。
「十二因縁」これは,人間の構造を12の因果関係をもって結び合わせる解釈である。まず,人間存在は生まれながら
に無知であるとみる。これが第一の(無明)。この(無明)からさまざまな行い(行)が産みだされ,(行)から人間の意識
である(識)が産みだされる。この(識)から概念と内容,すなわち(名色ミョウシキ)が産みだされ,これが人間のもつ
六つの感覚器官,すなわち(六入)によびかける。これが触覚をはじめとする,感覚すなわち(触)に働きかけ,それ
より感受性→(受)がおこり,その好むところに従って(楽)がおこる。その楽とするところを止め保とうとするところより
執着,すなわち(取)がおこり,そこから結果→(有(ぅ))が産みだされる。これが人間の(生(ショウ)となり,(老死)
という結果になるというのである。 《般若心経》は,12の連関で考えられる,このような人間存在を(有る)と(無い)
の両面からみて,そのいずれに流れることも迷いであるとしている。(無明もなく,’無明の尽くることもない)というのが
それである。知恵のないことをなげくのも迷いである。しかしまた知恵のないことが尽き,知恵に誇るのも迷いである。
(花は咲くもよし,散るもよし)これこそ《般若心経》の世界である。人間の12のあり方を否定すれば人間は考えられ
ない。 しかし,その一つ一つに誇れば人間の全体像はなくなってしまう。 同様に,釈尊が世の見方として示した(苦・
集・滅・道)という四つの真実(四諦説)も,一つ一つを説明ないしは事実として固定して受けとってしまえば意味のない
ことになってしまう。人生は苦であるが,苦に固定してしまえば救いはない。苦であることを認めつつ,それに固執しない。
そうするとそこからその原因→集→がみいだされてくる。すなわち縁起の法である。万物は相依(よ)り相起こっている
という事実がみえてくる。それを滅せば救いが開かれる。これが(滅諦(メッタイ))である。その方法が(道諦)である。
これでわかるように,(苦)も(集)も(滅)も(道)も,その一つ一つが真実を示しつつ,しかも独立国定せず連関している
ところが生きた人生の真実を示しているのである。ここのところを《般若心経》は、(苦集滅道も無し)と示すのである。
このような境地に至れば,(わたしはこのような知恵がある)と誇ることもなく,(なにを得た),(なにを失った)とさわぐこ
ともない。これが(智もなく,得もなし)である。なぜなら,人間がそもそもなにをもって生まれてきたということもないから
〜(無所得を以てのゆえに)→である。

さとりに生きる                                       BACK
菩提薩唾(サッタ)は,般若波羅蜜多によるがゆえに,
心に圭礙(ケイゲ)なく,圭礙なきがゆえに,恐怖あることなし。
一切の顛倒(テンドウ)夢想を遠離(オンリ)して,涅槃を究竟(クキ゛ョウ)す。
三世(サンゼ)の諸仏は,般若波羅蜜多によるがゆえに,阿耨多羅三藐(アノクタラサンミャク)
三菩提を得たもう。
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 人間が受けとる(空)の境地として,(十二因縁)と(四諦説)のいずれも,固定した真理として受けとるべきでない
ことを示したのち,ついで《般若心経》は,真にとらわれのない,自由の境地,さとりの境地を示す。
(菩提薩唾は般若波羅蜜多によるがゆえに,心に圭礙なし)というのがそれである。(菩提薩唾)とは(さとり)(菩提)
を求める人(薩唾),すなわち(菩薩)である。ここではとくに観音菩薩を指すが,一般にひろくいって,求道者であり,
救済者である菩薩は,上に見た(空)の知恵の境地に住し,自他の区別がないから,心身にかかる障礙(圭礙)がない。
障礙がないから恐柿がない。したがって,あらゆるまちがった考え(顛倒)や迷妄(夢想)をはなれ,その極,
仏の静かなさとりの境地である(涅槃)を成しとげる(究意)。これを要していえば(知恵による真実のすくい)
(般若波羅蜜多)によるから, 過去・現在・未来(三世)の仏は、<この上ない正しい悟り>無上正等覚
=anuttara-samyak-sambodhi=阿耨多羅三藐三菩提)を得る,と示すのである。

不思議の発見

ゆえに知る,般若波羅蜜多は,
これ大神呪(ダイジンシュ)なり。これ大明呪(ダイミョウシュ)なり。
これ無上呪なり。これ無等等呪なり。よく一切の苦を除き,真実にして虚しからず。
ゆえに般若波羅蜜多の呪を説く。すなわち呪を説いて曰(イワ)く。
羯諦(ギャテイ),羯諦,波羅羯締,波羅僧羯許,菩提裟婆訶(ボウジソワカ)。
般若心経。

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 否定的にのみ表現されてきた(さとりの境地),(仏の住む彼(か)の岸)も,ここに至って,もうすこし具体的に示す
ことはできないであろうか。この要求に答えるのが《般若心経》の末尾の段である。 では,そのさとりの境地とは
なにか。それは言語的表象をこえたものである,と示される。ことばはたしかになにかを伝える。しかし,その伝えた
反面を否定して伝える。たとえば,右といえば左でないことを示し,有といえば無でないことを伝えてしまう。同様に,
この経典がくり返し伝えてきた,(空)という考えも,(空)ということばで表されるときには,相対的となることを免れない。
(空)とは〈有)の反対である。(空)とは(無)に近いものである等々。 このような相対的判断に陥ることを恐れた
《般若心経》は(知恵による真実のさとり)は(ことばをこえたことばである)と示す。(ことばをこえたことば)とはなんで
あろうか。それは(不思議なことば),(呪)というほかはない。(呪)とは,インド人が長い間思いをこめてきた,不思議な
ことばである。インド人のことばで〈マントラ)という。ふつう(真言(シンゴン))と訳されることばで,一つの意味しか
伝えぬことば,相対的な働きしかないことばに対して,全体的な意味を伝える力のあることば,真実のことば,仏の
ことばを指している。(真言宗)という宗派は,このような,仏のことばに直接耳を傾けることを目的とする。
(般若波羅蜜多)は,いままでいろいろに見てきたけれども,たいせつなことは,ことばにとらわれないことであるとする。
それは不思議な働き(神通力)をもつ呪(神呪)である。真実の知恵の呪(大明呪)である。このうえない不思議な
呪(無上呪)である。並ぶものない呪(無等等呪)である。このように,単なることばでなく,仏の境地,仏の働きそのもの,
生々発展して止むことなき宇苗の根源的な力であるから,すべての苦を除くことができ,真実そのものであって虚偽を
まったく含まない。 このように見てくれば,この経の真実は呪によってしか示すほかない。すなわち,(往けるときに,
往けるときに(羯諦,羯諦gate gate),彼岸に往けるときに(波羅羯諦 Paragate),彼岸に往きつきて
(波羅僧羯諦parasamgate),さとりあり(菩提裟婆訶bodhisvahaa))(知恵),(仏の知恵)の働きによって,
仏の境地である真実の岸に至ることが梵音をもって示されている。この最後の頌を翻訳することなく,原音のまま
示したのは,古人の深いおもいいれがあったものと思われる。原著をそのまま在重にとなえることによって,
冒頭からくりかえし戒められてきた,(空)の教え,(般若)の知恵を,相対的に,主知主義的に受けとるべきで
ないという,この経典の趣旨は実感をもって,信者,読者の上にひぴいたはずである。古来,このような呪句を
(真実語)ともいい,(呪句)(陀羅尼dharani)とも唱えて,軽々に翻訳することを禁じたのは,よく宗教の本質をふまえ
たものといわなくてはなるまい。 《般若心経≫が,論じきたり,示しきたった一経の趣旨を最後に,ことばをこえた
ものとして,ついに(呪)によって示したのはきわめて興味ある思想史的事実であったといわなくてはなるまい。

《般若心経》のテキスト
 260字((一切)顛倒……の(一切)を入れると262字)といわれる 《般若心経》 も,いろいろなことばによる
テキストがたくさん残っていてその豊富なことでも経典中の白眉である。その主なものだけ紹介する。 
@ まず原典である梵本。いままで見てきた玄奘訳の《般若心経》(現在行われている日本,朝鮮,中国の
《般若心経》のもと。ほとんど全文玄奘訳と同じ)の型に近いもの(小本)と,内容がずっと増幅している大本とがある。
わが国の法隆寺に伝わる貝葉(パイヨウインド産の,ターラという樹の葉を乾かした上に書いた写本)本は,
6世紀以前のものとみられ,世界最古の《般若心経》原典である。大・小に大きく二分される《般若心経》のテキストも
細部にわたっては,いろいろな出入,異同が少なくなく,この小さい経典が成立するに当たって,長い時間と広い
範囲に及んで,さまざまなひとの手によってでき上がったものであることを示している。日本には写本・刊本の梵本が
きわめて多種伝わっている。
A チベット訳本。大本系のものがあり,おもしろいことに(般若部)と(密部)に重ね
て同じものが収められている。これは理由のあることで,《般若心経》は文字どおり,(般若)の経であるとともに,
(呪),(密呪)の経典であると考えられていた証拠である。モンゴル訳《般若心経》も,この系統のものである。
B 漢訳。7種類の翻訳と,音写本が1種現存している。やはり小本系が世に広く行われた。中でも代表抑なものが
鳩摩羅什訳と,玄奘訳とであった。他の5本はすべて大本系であったが,世に広く行われたということはできない。
やはり<般若心経>の真価は(価値高き小品)という点にあったのであろう。

《般若心経》の研究と信仰
 小品ではあるが,大乗仏教の中心思想である(空)をよく押さえ,しかも否定主義に陥ることなく,よく実践原理
たりえた《般若心経》は,一般大乗の人々にも,密教の人々にも広く研究され信仰された。インド大乗仏教の論客
アーリア=デーパく150〜250頃)の作と伝えられる 《般若波羅蜜多心経註》が漢訳で伝えられるほか,チベット
大蔵経中には6種の注釈が収められている。チベット人の注釈も2種現存する。中国,日本で作成された注釈は
おびただしい数にのぼり,経典に対する注釈としては一番といえるのではなかろうかと思われる。その特色は諸宗
いずれの人も注釈に参加しているという点で,これも 《般若心経》の通仏教的性格のあらわれである。
《大正大蔵経》に収められているものだけでも77部もある。賢首(ゲンジュ)大師法蔵(中国華厳宗の第三祖),空海,
最澄,白隠,一休等,名ある高僧の《般若心経》注釈だけでもたいへんな数にのぼり,近世,近代の講述に至っては
無数である。 信仰もしたがって超宗派的であるが,真言宗,禅宗においてもっともよく読まれ,信仰されたといって
よい。しかし浄土宗ーたとえば源信(942〜1017)の《般若心経義≫−や,浄土真宗ーたえば大谷光瑞(1878〜1948)
の《般若波羅蜜多心経講話》ーにも倖仰され,《般若心経》を公的に読誦しなかったのは日蓮宗くらいであった。
真に国民経典の観がある。   /
金岡秀友著書より引用させて頂きました
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