「座禅」とは
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「自我」をコントロールし、本来の心の働きを取り戻す
自分の心を洗い、不要なものを捨てる
余分なものを捨てていくことで、本当に大切なものが見えてくる
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| 現代は欲望が肥大化した時代 |
現代の日本は物があふれ、インターネットを使えば人の心を刺激する有象無象の情報が氾濫する
そんな消費社会、高度情報社会の中で毎日を過ごす私たちの中には「欲望肥大」という名の
生活習慣に首まで漬かってしまっている人も少なくない。
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あくなき欲望と「自我」が苦しみと悩みを
生む原因になる
物と欲望への執着 (ふくれる不満)
(深まる悩み)
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禅の世界では、人を「本来無一物」と定義している。その心は、本来は全てのものが無であり、
私たち人間も本来何も持っていないことを意味する。しかし、人はこの世にあふれる物に目や
心を奪われ、執着するため心がくもり、不満や悩みが生まれる。つまり、くもりのない
晴れた心を持ち、執着心を捨てなさい、という教えだ。
禅の世界では人は少しの時間でも座禅をしている間は誰でも仏と同じ境地に至れるといわれます。
ここでは「すわる」を仏教の用語を使い「座る」と記されます。
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人は「本来無一物」
禅の究極の目的は「無」になること
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自分の心を静かにみつめてみる
鏡は自分の心を映し出す
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毎朝起きて顔を洗うとさっぱりとした気分になる。「洗う」という行為には、不純なものを取り除く
という意味もある。顔を洗えば心も洗われる。そして、その顔を鏡に映すことで心の中も見えてくる。
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数息観(すそくかん)
座禅をしていると、五感が研ぎ澄まさ
れ、普段は聞こえないさまざまな自然
の音が聞こえてくる。そのような状態
が続くと、心が集中するどころか、
色々な雑念や妄念にとらわれて
しまう事がある。
↓
雑念を払う為の有効な手段
↓
心の中で数を数え、全神経を自分
の呼吸に集中させる。具体的には
心の中で息を吐くときに「ひとー」
と数え、吸うときに「つー」といった
ように数えていく。そして10まで
いったら再び「ひとー」「つー」と
繰り返す。(数息観)
大き目の座布団の上に普通の座布
団を二つ折りにしたものを重ねる。
視線は1.2メートルほど先を
ゆったりと眺める。
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| 足の組み方@両足の裏を天井に向けて組む座り方 |
足の組み方A片足だけを逆側のももに乗せて天井に向ける座り方 |
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重要な三つのポイント
座禅をするために必要な心得として
「調身」「調心」「調息」が挙げられる。
これらのうち、一つでも欠けると正しい
座禅はできないとされている。 |
| 調 身 |
服装や姿勢を調える |
| 調 心 |
雑念をはらい、心の乱れを調える |
| 調 息 |
呼吸を調える |
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おへその下に意識を集中し
複式呼吸を心がける
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座禅は呼吸法が最も大切だともいわれる。息は必ず鼻で吸うようにして、吐くときはおへその下のお腹の部分(丹田)に
意識を集中させて「静かに、細く、長く」息を吐くようにする、これを、複式丹田呼吸法という。 |
立っていても 坐っていてもすべてが
修行「行住坐臥」ぎょうじゅうざが
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禅というと坐る姿勢を思い浮かべるが、立っていても横たわっている状態でもできるといわれる。
「行住坐臥」は禅の言葉で「歩くこと(行)」「とどまること(住)」「すわること(坐)」「横たわること(臥)」
の四つの状態を組み合わせたもので、「どんなときでも」という意味がある。つまり、
いつも自分を同じ状態にコントロールしていくのが禅の心といえる。
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| 歩く禅 歩禅 |
食後や座禅の合間に、疲れや眠気をとるために歩くことを歩禅という。腹式呼吸をしながら早足で、
精神を集中して黙々と歩くことを指す。 |
| 動く禅 動禅 |
庭や玄関先、部屋などを掃除したり、朝食を作ったりすることをいう。 |
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| 「禅」にゆかりのある身近なことば |
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| 所 得 |
一般的にお金や財産を得るという意味に使われるが、本来は参禅学道によつて得た
仏法に関する考えを指す。品物やお金を得るという物質的なものではなく、精神的な
面で得られた成果や余裕、満足感をあらわす。 |
| 接 待 |
師を求めて各地を旅する修行僧にお茶や食べ物を振舞う事。誰かをもてなすという「純粋」
な意味での布施の行いをいう。 |
| 日常茶飯 |
いつもの食事とお茶のこと。大切な真理も日常生活の中にある。常に変わらず、同じご飯を
食べ続ける事のなかにこそ、真理があり、当たり前で平凡な中にこそ修行があると言う意。 |
| 悪 口 |
仏典では「あっく」「あくく」と読み、悪いことばのことを言う。悪口を言うと、必ずその報いを
うけるとされる。「不悪口」という言葉もそこから生まれた。 |
| 無 |
膨れた風船の中にいる自分を想像してみると分かり易い。執着しない、自由な心になる事を言う。 |
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仏の心を学ぶ座禅
ひろさちや |
座禅を中心とする仏教を「禅仏教」といいます。一般には禅宗と呼ばれていますが、最初の頃は「仏心宗」と呼ばれていました。
禅仏教は、仏教の発祥地であるインドではなしに、六世紀になって中国で成立した新しい仏教です。
仏教と言うのは、文字通りに「仏の教え」です。私たちが経典を通じて仏の教えを学び、悟りを開こうとするのが仏教です。
けれども、経典の解説は難しい。また、間違った解釈を教えられる事もあります。そこで、経典よりも、経典を説かれた
仏の心を直接に学ぼうとするのが「仏心宗」の言葉のゆえんです。そのために、禅仏教においては坐禅をします。
坐禅と言うものは、単なる瞑想ではありません。それは、仏の心を学ぶ為のものです。仏の心を学ぶというよりも坐禅に
よって私たちは仏と、一心同体になっているのです。仏が坐っておられる姿が坐禅であり、私たちが坐禅をしている時は
私たち自身が仏になっているのです。禅仏教ではそのように考えています。従って、坐禅と言うのは禅堂にあつて坐っている
だけではありません。行住坐臥、行くこと、とどまること、坐る事、横になる事のすべてが坐禅です。
私たちの日常生活において、仏が洗面しておられるつもりで洗面し、仏が食事をなさっているつもりで食事をし、仏が
喫茶をしているように喫茶をする。そうなってこそ本当の坐禅なんです。ともかく、一時間でも坐禅をすればその一時間
だけは私たちは仏になっているのです。そういうつもりで坐禅をすべきです。
現代の日本社会は、すさまじいまでの競争社会になっています。その中で私たちはともすれば人間らしい心を失って
しまいます。坐禅によって仏の心を学ぶことによって、私たちは人間らしい心を取り戻せるでしょう。
さあ、あなたも坐禅をしませんか。 (宗教評論家)
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