1.眼施(げんせ)
慈眼施〔じげんせ〕 |
やさしい眼差(まなざ)しで人に接する |
「目は口ほどにものを言う」といいますように、相手の目を見ると、その思いはある程度わかります。相手を思いやる心で見つめると自然にやさしい眼差しとなり、人は安心します。自らの目を通して相手に心が伝わって、相手も自分の気持ちを理解して、お互いが打ち解けることができることでしょう。
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「目は口ほどにものを言う」といいます。自分の心というものはまなざしによって伝わるものです。そういう意味では誤魔化しがききませんから、
七つの布施の中でも一番難しいことかも知れません。
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2.和顔悦色施
(わげんえつじきせ)
和顔施〔わがんせ |
にこやかな顔で接する |
眼施と同様、顔はその人の気持ちを表します。ステキな笑顔、和やかな笑顔を見ると幸せな気持ちになります。そして周りにも笑顔が広がります。人生では腹の立つこともたくさんありますが、暮らしの中ではいつもニコニコ、なごやかで穏やかな笑顔を絶やさぬよう心がけたいものです。また、メールの顔文字も一工夫してみてはいかがでしょうか。
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自分自身が、相手の表情一つでどれほど影響を受けるかということを考えると、優しい表情で接するということが大きな布施だということもわかるものです。
とはいえ、表情というのは感情が表れるところです。気分のいいときに優しい顔をすることは簡単ですが、腹の立っているときに穏やかな顔を、落ち込んでいるときに
明るい表情をするというのは大変なことです。自分自身の小さな感情にこだわっていたのでは、
和顔施はできません。これ一つ実践するのでも自己コントロールが必要なわけで、大果報を得るというのはもっともなことだと思われます。
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3.言辞施(ごんじせ)
愛語施〔あいごせ〕 |
やさしい言葉で接する |
言葉は人と人との関係を円滑にするコミュニケーションの大事な方法です。私たちは言葉一つで相手を喜ばせたり、逆に悲しませたりする場合があります。相手を思いやるやさしい言葉で接していきましょう。「こんにちは」「ありがとう」「おつかれさま」「お世話になります」など、何事にもあいさつや感謝の言葉がお互いの理解を深める第一歩です
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人間のコミュニケーションの中心は言葉によるものですが、言葉一つが人の生死を左右することがあるものです。
「四摂法〔ししょうぼう〕」の中にも「愛語」がありますが、道元禅師の『正法眼蔵〔しょうぼうげんぞう〕』を抜粋編纂した『修証義〔しゅしょうぎ〕』には次のようにあります。
愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発し、顧愛の言語を施すなり。慈念衆生猶如赤子の懐いを貯えて言語するは愛語なり、徳あるは讃むべし、徳なきは憐れむべし、怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、面いて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす、面わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語能く廻天の力あることを学すべきなり。(愛語というのは、衆生を見るのにまず慈愛の心をおこして、思いやりのある言葉を与えることである。衆生に対して慈しみの心は、母親が我が子を思うような思いを持って話すのが愛語である。徳のある人に対しては褒め、徳のない人に対しては憐れんであげる。恨みを持つ敵を打ち負かし、君子の争いを和睦させるのは愛語を根本とするのである。相手から直接愛語を聞くと、顔をほころばせて喜び、心が楽しくなる。人づてに愛語を聞くと、心に深く刻み込まれる。愛語というのは、国王の力を引き巡らせ、世の中を幸福にする力があることを学ぶべきである)
言葉というのは、いくら立派な言葉であっても、心がこもっていなければ素通りしてしまうものです。その一方で、いくら気持ちがあっても、言葉遣い一つで思いもよらない受け取られ方をすることもあります。あるいは、ついうかうかと人を傷つけたり、不快な思いをさせる言葉を出していることがどれほどあることでしょうか。
そういうことを考えると、言辞施というのも簡単なようで大変難しいものです。と同時に、善い言葉を出すということだけでも、自分の心を明るくする修行ともなり、社会を明るくする一歩ともなるわけです。まずは一言から、嫌な言葉、不快な言葉を避け、優しく温かい言葉を発するように心掛けたいものです。
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4.身施(しんせ)
捨身施〔しゃしんせ〕 |
自分の身体でできることを奉仕する |
重い荷物を持ってあげる、困っている人を助ける、お年寄りや体の不自由な方をお手伝いするというような身体でできる奉仕です。どんなによいことと思っても、それが実行できなければ意味をなしません。よいことを思いついたら実行し、自ら進んで他のために尽くしましょう。その結果、相手に喜んでいただくと同時に、自己の心も高められるのです
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経典には「起ち迎えて礼拝す」とありますから、相手に不快感を与えない礼儀作法や身だしなみ、経緯をもって接することも身施として大切なことと思われます。
ボランティアとして自分のできることを探して奉仕すること。また、頼まれ事をしたときに、快く応えることも大切な身施ではないかと思います。
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5.心施(しんせ)
心慮施〔しんりょせ〕 |
他のために心をくばる |
心の持ち方で物事の見方が変わってしまうように、心はとても繊細なもので、自分の心が言葉遣いや態度に映し出されます。自分だけがよければいいというのではなく、心底からともに喜び、ともに悲しむことができ、他の痛みや苦しみを自らのものとして感じ取れれば言うことはありません。慈悲の心、思いやりの心から自然とやさしい顔や眼差しにも表れてくることでしょう。
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経典には「上記のような内容で(眼施から身施まで)供養したとしても、心に思いやりがなければ供養にならない。心に思いやりがあれば、深く供養を生ずるであろう」とあります。形ばかりではなく、心が伴っていなければならないということです。あるいは、人の喜びや悲しみ、苦しみを我がことのように受け止めるてあげることも大きな布施といえるでしょう。今の世の中では、そういう心の触れ合いがない寂しさから、悪徳商法や反社会的カルト教団に引っかかる人も少なくありません。
上手なアドバイスはできなくても、一生懸命話を聞いてあげ、自分にわかるできる限りの話をするだけでも、その心が伝わって、いくらかでも表情が明るくなるものです。
また、以前、人のために何もできていない自分であることに悩んでいた時、「人を喜ばせるために何ができるかと考えるところから始めればよい」という話を聞いて、気が楽になったことがあります。確かに「人のために何ができるか」と考えるだけでも、心の方向性が自分中心から変わっているわけです。また、そういう心というのは自ずと相手にも伝わるものです。それに、これならどんな人にでも、どんな状況ででも実行可能です。心施のとっかかりとして、こういうところから始めるのでもいいのではないかと思うわけです。
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| 6.床座施(しょうざせ) |
席や場所を譲る |
「どうぞ」の一言で、電車や会場でお年寄りや身体に障害を持っている方に席を譲ることです。座席だけでなく、全てのものを分かち合い、譲り合う心が大切であるという意味が含まれています。何事も独り占めはいけません。少なくとも電車やバスのシルバーシートは本来の意義に従って利用しましょう。場合によっては自分の地位を譲って後のことを託すという意味も含まれるでしょう。
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現代において、すぐに思い浮かべるのは電車やバスなど、乗り物の座席でしょう。 記憶にある限り、若い人が席を譲らなくなったと言われ続けているので、
席を譲るのが当然だった時代がどうだったのかということはわかりません。しかし現在、年齢に関わりなく、老人や大きな荷物を持った人がいるのに、
席を譲らなくても平気でいる人が多いというのは確かです。 私自身もそうですが、譲る気持ちはあっても、タイミングを外した時や、相手がちょっと離れたところにいる時など、
声をかけるのに臆するようななような気になるのではないでしょうか。タイミングよくさっと譲れる時に比べ、周囲の注目を集めるからです。
どうも、今の日本には、人目につく形で善行をすることを躊躇う風潮があるように思います。勿論、一方に人目につくところでしか善行をしない人たちがおり、
それに対する反動だとは思うのですが。しかし、考えてみれば人目があろうがなかろうが、必要なことは必要だし、困っている人にとっては何の違いもないわけです。
結局、人目を気にしていると言うことでは、どちらも同じということになるでしょう。恥ずかしながら、修養不足です。
ところで、常々この問題で考えたほうがいいのではないかと思っているのは、譲られる側のあり方です。ただし、譲られたら当然のような顔をせずに、
お礼ぐらいしろというようなケチな話ではありません。 もちろん、席を譲って喜んでくれれば嬉しくなりますし、お礼を言われれば本当に善かったなあと思います。
しかし、よく考えてみると、それは相手からの和顔施であり、愛語施であるわけです。そう考えれば、礼を言って当然などというのではなく、わざわざ態度に表さないまでも、
こちらもあり難いという気持ちを持つべきこととも言えます。私が問題だと思うのは、譲られた席に座ろうとしない、つまり素直に受けてもらえないケースです。
無論、中には一度座ると立つのが大変という人もいますので一概には言えませんが、頑なに親切を拒まれると、せっかく譲ろうとしたのが嫌な気分になるものです。
もちろん、それが平気になるぐらいになればよいのでしょうが、なかなかそう簡単に割り切れるものではありません。
快く布施を受ける、親切を受けるというのも大切なことだと思うわけです。これは「床座施」と言えるかどうかわかりませんが、四国八十八ヶ所を回っている時に、
ある人から「車に乗るように声をかけられたら、乗るようにしなさい」と教えられたことがあります。
四国では、お遍路さんにお布施することを「お接待〔せったい〕」と言います。車に乗せてあげるというのも「お接待」であり、それを断るというのは、
相手が善根を積もうとしている機会をなくすことになります。だから、快く受けなさいというのです。その人が言うには、修行のために四国を回っているお坊さんは、
車に乗るように声をかけられると、ありがたく乗せてもらって、車を降りたところで感謝して、それから元の場所まで歩いて帰り、同じ道のりを歩いていくのだということでした。
一般の人はそのようなことができないので、ありがたく感謝して、続けて歩けばいいということでしたが、この話を聞いて、私の人生観はずいぶん変わりました。
「布施波羅蜜〔ふせはらみつ〕(布施の完成)」というのは「三輪清浄〔さんりんしょうじょう〕」、つまり布施をする主体と受ける客体、その手段となる施物が清浄で、
滞りがないということです。つまり、布施を受ける側も重要な役割があるわけで、一方的に成り立つわけではありません。
布施の話というと、布施する側のことばかりになりがちなのですが、布施を受ける側の心構えについて考えることも大切ではないかと思います。
老人や妊婦が電車に乗れば、近くの人がさっと立つ。途中の人は通路を明ける。お礼を言って、座る。その後、何もなかったかのように電車が進み始める。
私にとって、三輪清浄の布施といった時に、一番イメージしやすいのがこういう光景です。
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| 7.房舎施(ぼうじゃせ) |
自分の家を提供する |
四国にはお遍路さんをもてなす「お接待」(おせったい)という習慣が残っています。人を家に泊めてあげたり、休息の場を提供することは様々な面で大変なことですが、普段から来客に対してあたたかくおもてなしをしましょう。平素から喜んでお迎えできるように家の整理整頓や掃除も心がけたいものです。また、軒下など風雨をしのぐ所を与えることや、雨の時に相手に傘を差し掛ける思いやりの行為も房舎施の一つといえるでしょう。
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四国遍路にはお遍路さんに宿を提供する「善根宿〔ぜんこんやど〕」という風習があり、今でも一部でそういう場を提供している人がいるようです。しかし、今は昔と違い、
一夜の宿を提供するという意味での「房舎施」というのはあまり機会がないのではないでしょうか。雨露をしのぐ場を提供するということを敷衍して、「自分が多少濡れても、
相手に雨がかからないように傘を差し掛けてあげる」という解釈も見かけますが、確かに大切なことだと思います。また、私の知っている人で、ある反社会的カルトといわれる
教団の元信者なのですが、自宅を使って、気楽にお茶を飲みながら、悩みや相談を聞いてあげている人がいます。これなども房舎施の一つのあり方のようにも思います
(ただ、その人は一介の主婦であるにもかかわらず、相談に来る人の就職の世話からアパートの紹介、出産費用の立て替えまで、本当に頭の下がるような活動をされています)。
以上が『雑宝蔵経』の説く「無財の七施」です。
無財の七施というのは、布施をしようとすれば、鈍なところからでも始められるということを教えられるように思います。
同時に、簡単なことのようでも、それをするためには、やはり自分自身が変わっていかなければならない、言いかえれば、
実践すれば自ずと自分が変わっていくということにもなるでしょう。 「是〔これ〕を七施と名〔なづ〕く。財物を損せずと雖〔いへども〕、大果報を得るなり」(『雑宝蔵経』)
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一日一善といいますように、私たちも普段の生活の中で、この「無財の七施」の中の一つでも真心のこもった布施を実行できれば、自ずと他のこともできるように
なっていくのではないでしょうか。 そうすれば、周りの人たちと仲良くでき、自らの心は安らぎ、ともに幸せに暮らすことができるに違いありません。
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布施について
無畏施
法(真理)を施す「法施」、財(金品)を施す「財施」に「無畏施〔むいせ〕」を加えて「三施」すなわち三種類の布施といいます。
「無畏施」とは、人から不安や恐怖を取り除き、恐れのない状態にすることです。中村元博士の『仏教語大辞典』(東京書籍)を見ると、「無畏を人に施すこと。人の厄難を救うこと。おそれなき状態を与えること。一切衆生に恐怖の念をなからしめること。獅子・虎狼・怨賊・水火などから人を救って恐れることのなからしめること」とあります。
私はこれまで宗教と関わってきた中で、社会の中における宗教者(あるいは教団)の役割、あるいは(特に大乗仏教の)他者との関わりにおける宗教的実践ということを考えるときに、最も重要なのがこの「無畏施」ではないかと思うようになりました。
しかし、私の見る限りにおいて、「法施」「財施」に比べて「無畏施」はあまり重視されていないような気がします。ネット上で「無畏施」を検索しても、「法施」「財施」に比較すると、あまり詳しくは説かれていません。
思うに、これは「法施」「財施」に比べて「無畏施」というものの具体的なイメージがつかみにくいからではないでしょうか。ネット上を検索しても、なかなか腑に落ちる説明を見ることができません。
そのような中で、「施無畏者〔せむいしゃ〕」と呼ばれる観世音菩薩を引いて説明されているのが、仏教の深い内容を簡明・平易に説かれる故・佐藤俊明老師(曹洞宗)です。内容から見て保険関係の人たちにされた法話だと思いますが、さすがに見事なまとめ方です。(佐藤俊明のちょっといい話 第七話「保険と観音様」)
佐藤師は、この内容を『禅の話』(現代教養文庫・絶版)のなかで、さらにわかりやすく説いておられますので、これを引用します。
金のあるものは金のないものにこれをわかち与え、力のあるものは、力のないものに力を貸してやり、ほほえみを失ったものにはほほえみを、やわらぎを失ったものにはやわらぎを、道理に明るいものは道理に暗いものを導き、それにより人生に安心を与え、人々の心から不安や恐怖を取り除いてやる。それが無畏施である。観音様のことを一命「施無畏者」(無畏を施すもの)という。観音様は三十三身を現じ、すべてのものに無畏の安らぎを与えてくれるからである。私どもが真に福祉社会を実現するには、私どもがまず施無畏者にならなくてはならない。
無畏施については以上で十分という内容ですが、私なりにもう少し検討してみたいと思います。
「無畏」という言葉を調べてみると、「恐怖しないこと。おそれのないこと。安穏で怖畏の全くない状態。勇気。おそれずやろうという強い心」とあります(『仏教語大辞典』)。つまり、このような状態にしてあげることが「無畏施」ということです。
ここで注目したいのが、「勇気。おそれずやろうという強い心」というところです。言い換えれば、単に不安をなくすというだけではなく、前向きな気持ちを持つということになるでしょうか。これこそが宗教(信心)において、最も肝心なところだと思うわけです。
人間、前向きな気持ちさえ失わなければ、何とかなるものです。不思議と智慧や力が湧いてきたり、事態が思いもよらない展開をしたり、導きを得たりして、もうどうしようもないというようなところを切り抜けるというのは、決して珍しいことではありません。
また、前向きな気持ちが体によい影響を及ぼすことは、今や周知の事実です。
もちろん、どんなに前向きな気持ちを持っていたところでダメなときはダメですし、死ぬときは死にます。しかし、たとえそうであったとしても、自分にとっても、周囲にとってもよりよい何かを残すことができます。結果的に、それがかえってよかったということも、よくあることです。
ですから、宗教団体あるいは宗教者の所には多くの人が救いを求めて集まりますが、極端な話、「無畏」を与えることができれば、あとは本人が何らかの結果を出すとさえ言えます。
無畏施とは、本人の自己治癒力、自己解決能力を引き出すことだと言い換えてもいいでしょう。
自分で前向きに歩き出すのでなければ、本当に問題が解決したとは言えません。また、自分が前向きに取り組むようになれば、現実的に問題が解決していなくても何とかなる者です。「勇気。おそれずやろうという強い心」ということが重要であるゆえんです。
次に「無畏施」と「法施」を比較してみましょう。
「法施」すなわち正しい法を説くといっても、聞く側が受け入れる状態になければ、何の役にも立たないわけです。経済的問題であれ、人間関係の問題であれ、その他の問題であれ、自分の悩みにドップリ浸かっている人に、いくら適切なアドバイスをしたところで、あまり効果はありません。
まず、人の話を聞いてみようかと思える状態にまで引き上げる必要があるわけです。
そして、正しい教えを説くことと、人の心を引き上げることとを比較すると、後者のほうがはるかに難しいものです。悩み込んでいる人を相手にした時ほど、理論理屈の無力さを思い知らされることはありません(その一生懸命さに相手の心が動かされるということもありますが…)。
つまり、法施だけでは衆生救済は不可能で、それ以前に無畏施の実践が必要不可欠だと言うことになります。つまり、自己救済のみを目的にするのならともかく、衆生救済を考えるのであれば、法施以上に無畏施が大切だと考えられます。
また、とかく「無畏」というと、言葉(教え)によって自分のとらわれや迷いに気づかせ、不安や恐怖を取り除くということを想定しがちのような印象があります。
しかし、言葉だけで迷いを除き、不安や恐怖をなくす、「勇気。おそれずやろうという強い心」を持たせるというのは、現実的には極めて困難です。実際に障害を取り除くとか、こちらの必死さに心が動くというようなことのほうが有効な場合が多いものです。
当然、お札やお守り、ご祈祷といったものも極めて有効です。それら自体にも効果があるだろうということは経験上確信していますが(ただし当然、それは本当に効果のあるものと、ないものがあるということにもなります)、本人の信じる気持ちが効果をもたらすという要素もあるので、たとえ偽物でも有効な道具立てとなるわけです(また、それがきっかけで本物の力が発揮されるようになることさえあるようです)。
私は教団に所属していたときも広報関係の仕事に従事していたので、あまり信者さんと接した経験はありませんでした。それでも、時には信者さんの相談を受けることがありました。
そういう時、私も一生懸命、相手の話を聞き、いろいろな教えの話やアドバイスをするのですが、世間知らずの上に理屈っぽい私の話など、あまり役には立っていなかったようです。ところが、よくわからないけど一生懸命話してくれるからとか、私にとっては意味のないような一言が心に響いたとか、こちらの思惑とは別のところで勇気づけられ、自分で問題を解決していったりするのでした。
あるいは家賃の支払いができなくて督促がかかり、裁判所に行かなければならないのだけど、その勇気がないという信者さんがいました。この時などは、一緒に裁判所に着いていってあげることで、あっさりと解決しました。
普通の人から見ればごく些細な問題なのですが、本人にとっては深刻な問題です。どれほど「心配することはない」と言っても、効果はありません。むしろ、こちらが簡単な行動を一つ起こすことで、相手の不安や恐怖がなくなるわけです。
また、それによって、本人も自分の中の無駄なこだわりやとらわれに気づき、そこから教えの内容がわかってくるという効果もありました。
宗教(特に仏教などの場合)の哲学的な側面に関心を持つ人は、説く教えの正しさが宗教の価値のように考える傾向があるように思われるのですが、現実は違います。経験の少ない私でも痛感していることで、信者を相手に奮闘している宗教者は日々実感されていることなのでしょう。
そういう宗教のあり方を低レベルと思っている人がいますが、そういう人は宗教についても人間についてもよくわかっていないのだと思います。
「施無畏者」と呼ばれる観世音菩薩が三十三の姿を取って衆生を救済するように、無畏施というのは精神的・現実的あらゆる方便を用いて実践されるものだと思われます。佐藤俊明先生が明快に説かれているように、無畏施とは観音行と言い換えることができるでしょう。
宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』には、無畏施が端的に描かれています。
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジヨウニ入レズニ
ヨクミキヽシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病氣ノコドモアレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ツテソノ稻ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ(以下略)
つまり肉体も精神も惜しみなく施すということで、これを本当に徹底して実践しようとすれば、自分の生活など顧みる余裕のないことは確実です。伝教大師のいう「忘己利他」の精神に立たなければ不可能でしょう。仕事や家庭を持った一般在家の人間には極めて難しいことです。
それでも、生活の場面場面では、そうと意識しないで無畏施を実践していることも少なくないのではないでしょうか。見返りを求めないで困っている人を助けようとするのは、立派な無畏施=観音行だと思います。
菩薩とは大乗仏教徒の理想像ですが、観世音菩薩に祈るときは、ただ自分の救いを祈るだけではなく、観音様の働きができるような自分になることをも祈るべきです。
一人ひとりのできることは限界があっても、そういう輪が広がれば、それぞれの能力を生かすことによって、立派な観音様が顕現するでしょう。宗教団体がそのような意識を持てば、世間から批判されることもなくなるはずです。
最後に一点、「無畏施」は正しい宗教と誤った宗教を見分ける重要な基準ともなります。
世の中の教団や宗教家の中には、無畏施どころか、人の不安や恐怖をあおるものがすくなからずあります。そのほうが人を引きつけ、縛り付けることが容易だからです。
「無畏」すなわち不安や恐怖のない人は、ことさらに宗教に依存する必要はなくなりますし、ましてや他人のコントロールを受けることなどは望みません。
ですから、本当の無畏施の実践者(本物の宗教者というべき人)は、人の不安や恐怖を引き出すような言動を徹底して避けます。また、来るもの拒まず、去る者追わずで、自分に依存させようともしません。むしろ自立させようとします。
もし、「この信仰をしなければ不幸になる」などと感じているならば、その教えは無畏施とは縁遠いものです。早々に離れたほうが賢明でしょう。
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