| 2006年(平成18年)9月25日(月曜日) 北海道新聞朝刊より 副 島 弘 道 (そえじま・ひろみち"大正 大歴史文化学科教授、日本美術・彫刻史・仏像・文化財) |
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| 木 彫 だ か ら こ そ の 仏 像 BACK | ||
| 伐採し丸太にして運搬… 伝わる自然との関係 | ||
| 仏像は金属や石、粘土などでもつくられるが、今日、国宝や重要文化財に指定されている日本の仏像の約90%は木彫像である。だれもが知っている京都平等院の阿弥陀如来像や、奈良東大寺の仁王像などの傑作も木でつくられた木
彫像だ。仏像の姿や形の美しさはすでに多くのことばで語られているが、仏像にはほかにもいろいろな魅力がある。昨年は 三百体におよぶ等身大の大きさの木彫群像を調べる機会があり、今年の夏も鎌倉時代の仁王像や平安時代の薬師如来像など、各地で木彫像の調査や撮影を行った。そのなかで、
木という素材の魅力にあらためて気づく機会が何度もあった。 日本の木彫技術は時代とともに進歩した。平安時代の十 世紀頃までは、一木造(いちぼくづくり)とい
って、仏像の頭から胴体までを一本の材木から彫る技法が 中心だったが、十一世紀になると、それまでの半分の厚さ の材木を二本たばねて像を彫るような寄木造(よせぎ)の
方法が一般的になった。材木の節約や仏像を軽量化するため の工夫である。たとえば人間ほどの大きさの坐った仏像を彫るには、幅30cm、奥行き15cm、長さ80cmほどの角材二本を前後
にたばねて立てる。前の材木から胸が、後の材木から背中 が彫られるわけである。このときに、二本の材木をきちん と接合するには、接合面が平らな必要がある。それがひと
つの理由で、日本では十一世紀頃から、縦に割りやすく製 材しやすいヒノキ材が木彫素材の中心になった。 30cm角の材木は、それより一回りも二回りも太い木か
らしかとれない。明治以後日本の各地に植林された成長の 早いカラマツでも、直径50cm、高さ15mほどになるの に四十年くらいかかる。高さ約8mの東大寺仁王像に使わ
れたヒノキの角材は一辺が60cm、年輪は三百年分以上も ある。大木である。 ◆◇◆ そういう大木を探すことも大変だったが、伐採も大仕事 だった。今ではクレーンやチェーンソーで、大きな木も意 外に短時間で切り倒せるが、昔は事情がちがう。斧をふる いノコギリをひき、あたり一面に木の香りがただよう山中 に、地響きをあげて巨木が倒れる。その梢を切り、枝を はらって、丸太にして山から運び出すことはさらに困難な 作業だった。鎌倉時代に東大寺の再建に使われた柱は、山口県の山奥で切られ、山を埋め谷をけずり、水路を整備して川を下らせ、瀬戸内海をイカダに組んで運ばれた。奈良北郊の木津 からの陸路を、直径106cm、長さ25mの丸太は車に積まれ、 牛百二十頭に曳かれてようやく東大寺に着いた。各 地の寺院に残されている仏像も、その材木の準備には、今 からは想像できないような苦労があったのだろう。 明治時代の木彫家高村光雲は、有名な老猿という木彫像 を作るとき、北関東まで出向いてトチノキを探し、それを 切らせて東京に運んだ。その重くて太い材木を鉄道の駅ま で運んだときの苦労話は彼の回顧談に語られている。 このようにして運ばれた材木は、クサビや矢とよぶ道具 を打ち込まれて縦に二つ、あるいは四つに割られ、平らに けずられて、ようやく仏像をつくるための角材になる。定 朝や運慶、快慶といった平安鎌倉時代の名仏師たちが仏像 を彫りはじめる前に、こういう人手のかかる作業があっ て、山の木は仏像に姿を変えることができたのである。 ◆◇◆ 木彫像を拝しているとさまざまなことが頭に浮かぶ。木 が仏像になるまでの話はそのひとつである。山の木が倒さ れて丸太になり、丸太が割られて材木になる。材木は彫ら れて仏像になる。そういうことが気になるのは、木が、現 代人のまわりから日ましに失われていく自然を代表する存 在だからだろう。春に伐採したカラマツやアカマツの樹皮 を一気にはがすと、勢いよく樹液が飛びちる。木のみずみ ずしさと生命力を実感する瞬間である。自然素材を重視し た住宅建築や、ガーデニング、アウトドアライフなど、二十 一世紀の人々の自然志向は、木への強い関心に結びついて いる。仏像は信仰の対象だが、近代になると、ほかの宗教美術 や寺院建築などと同じように、文化財としても高い価値 があることが知られてきた。今日、美や理想を求めて仏像 を鑑賞する人や、仏像をとおして歴史にふれようとする入 がたくさんいる。それだけでなく、ここにとりあげたよう な人間と自然との関係についても、仏像は多くのことを気 づかせてくれる。現代人にとっての仏像の価値は、これか らもいよいよ増していくにちがいない。 |
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