船団輸送に見る完敗の海軍 (ヒ86船団の悲劇)
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無能なり!】 会敵率100%以上、船舶喪失と海上護衛総司令部作戦参謀
暗号解読疑念無し!】  航路帯を設定し、いたずらに損害が増えた。アホな参謀達
海防艦諸元】  海軍四隻の海防艦、及び最後の態様
油断!】  油断(対日石油禁輸)が戦争を始める要因(動機)であったはずだが・・・
 ヒ86船団*1の悲劇   現場で苦闘した菊池金雄さんのWebサイトもぜひご一読を!
遠く南の空に、ひたすら無事を祈る母や父,妻や子の祈りは届かなかった ・・・・・・
駒宮真七郎:著 [戦時 輸送船団史]まえがき
 国破れて山河あり。幕がおりた戦争の跡は、荒廃と虚脱以外の何ものでもなかった。
血みどろの三年八カ月、この間国家に殉じた者は陸軍関係 1,439,101 名,海軍関係 419,710 名,
官民 65,859 名,この数字に原子爆弾で死亡した人は含まれていない。 実際のところ何人亡くなった分からないほど、完全に民間人を標的にした人類の歴史始まって以来の非人道殺戮だった。
 総員計 2,517,406 名、これに重度の傷病となった者を加えれば 261 万名にも達した。さらに 戦災による罹災者875万を包括すれば、人的損害はまことに膨大を極めた。
 当然このような結果に陥ることは自明の理であった。では一体誰が戦争の引鉄を引いたのか?。  それは海軍の提出した戦時輸送船損失見積りの甘さだった。 その見積りは科学的根拠もない素人書類だった。
 軍部*2 の膨張主義(戦線拡大)が、米国による石油全面禁輸となり、石油資源獲得を強く目指した海軍が、 その獲得した資源を運ぶ輸送船保護と、攻撃を受けた場合の対潜兵器(探知兵器)や航空攻撃防御など包括的輸送体制を全く研究していなかった。  対米強硬派の石川信吾(海軍省軍務局)や岡 敬純(たかずみ)、軍令部作戦課富岡定俊(さだとし)・神 重徳(かみ しげのり)らは、 総合的思考力が欠如した欠陥人間だったと信じざるを得ない。 自存自衛と戦争目的もあいまいだったが、 輸送船保護を考えなかった Imperial Navy に言葉を失う。 その絶望的状況で一番勇敢だったのが他ならない船員らであった。
戦い終わって海上護衛についての反省戦前認識はこちら
 昭和20年(1945)1月6日、ベトナム南部サンジャック(現ブンタオ)の沖に、資源還送の重要船団が集結した。 タンカー四隻と貨物船六隻で構成されていた。
この船団の護衛は、練習巡洋艦「香椎」を旗艦としても海防艦大東,鵜来,海防艦23号,27号,51号であった。

練習巡洋艦「香椎」(司令:渋谷紫郎少将),海防艦大東,鵜来,海防艦23,27,51 合計六隻
油槽船さんるいす丸 7,268t原油12,000t
極運丸(2TL) 10,045t原油12,000t
大津山丸(2A)
貨物→油槽改
6,859tB重7,100t,航空燃料400t,揮発油100t,1号重油200t,生ゴム1250t,
優清丸 600t原油 800t
貨物船辰鳩丸(1K) 5,396t生ゴム,錫,ボーキサイト,染料
建部丸(1B) 4,519t航空燃料,生ゴム,マンガン,コプラ,ヒマ,牛皮など3,400t等
豫州丸 5,711t生ゴム,ボーキサイト
永萬丸(2A) 6,968t生ゴム,ボーキサイト
昭永丸(1C) 2,764t重油2,569t,生ゴム400t
No63播州丸 533t原油 430t
積荷は、日本の継戦にとって欠くべからざる物資であった。
この船団は、昭和19年(1944)12月30日シンガポールを出港。護衛艦の到着を待ち、昭和19年(1945)1月9日12:00、 サンジャックを出発した。すでに米潜水艦の跳梁で夜間航行は不可能であり、 昼間航行のみで海岸から2Km程度の海上を8ノット(14.8km/Hr)で日本に向かった。 辰鳩丸は戦時標準船でこの程度の速度しか出せなかった。 1月12日06:45佛印(現ベトナム)キノン湾を出発。11:00頃、 ハルゼー麾下の第三艦隊(機動部隊)艦載機3機がこの輸送船団を発見した。11:30時まず16機が來攻。13:40には約100機が船団に襲いかかった。 卵を割るに牛刀を用いた悲惨な戦いとなった。 この機動部隊は1月21日までに 艦艇11隻,船舶48隻(221,179t)を撃沈した。
ヒ八六船団は、キノン北方30Kmの陸岸近くで全滅した。船団を守る直掩機は一機もなく、 輸送船は次々に炎上し、沈没し、擱座した。あたかもそれは、船団護衛を忘れた海軍の、 ひいては日本の滅び行く姿と重なった。 死を免れて海岸にたどり着いた船員は、 暮れなずむ海の先に今まで乗っていた油槽船の燃えさかる炎のほてりを感じながら、 先程まで死闘が繰りひろげられたその現場を痛哭にむせび眺め続けたという。  友(戦友)を失った哀しさと船を失った悲しさが入り交じり涙は滝のように頬を伝わったという。
12:00豫州丸(5,711総トン)火災沈没・戦死45
12:20永萬丸(6,968総トン)火災沈没・戦死32
14:00頃第51海防艦被爆轟沈,乗組員戦死159
14:08香椎,雷撃と爆弾で轟沈,乗組員・便乗者約1,000人戦死
14:10建部丸(4,519総トン)擱座・火災後全損
14:30大津山丸(6,859総トン)座州・火災後全損,船員・警戒隊戦死28
15:30優清丸(600総トン)擱座・戦死1
16:00No63播州丸擱座・戦死8
17:15さんるいす丸(7,268総トン)擱座後火災全損,戦死12
17:40昭永丸(2,764総トン)擱座後火災全損・船員・警戒隊戦死3
18:00極運丸(10,045総トン)擱座沈没,戦死12
18:00辰鳩丸(5,396総トン)沈没,戦死10
18:30第23海防艦行方不明,戦死155全員死亡
沈没をまぬかれたのは海防艦3隻(鵜來,大東,第27海防艦)だけであった。 1944年4月下旬以降、米海軍作戦部長キングは全潜水艦に護衛艦を沈めよ!。 と指令している。 だが、陸軍爆撃機B-25ミッチエルは目に入る全てを攻撃している。
<= 戦時2A型第二図南丸。
 戦時標準船は川南豊作が経営する『川南造船(株)』でも多く建造された。 戦時貨物船の主流であった1A 船(11.5Kt),2A船〔油・炭混焼〕(10.0Kt),3A船 (12.0Kt)などであった。 ( )内の速度は計画速度で、1A船の実績速度は9.1Ktに過ぎなかった。
船速が計画と比べ著しく劣った。艦政本部はその原因を
(イ)機関が不良で試運転当時のような運転が出来なかったこと。
(ロ)石炭の質が低下したこと。
(ハ)乗員の練度が不良で規定量の燃料を汽缶に供給できなかったこと。を挙げている。
海軍の通弊で、自分が悪かったとは決して云わない。(ハ)乗員の練度は日一日と向上するはずで、これを問題点にするなど論外である。
米リバティ型戦時標準船もその程度の速力だが日本標準船は二重底でなかったことである。 日本の戦時標準船は鉄の棺桶と船員に揶揄された。鉄材節約のため、船舶命数(使用期間)を通常の25年から半分以下の10年程度に見積もり、 その分だけ鋼板(鉄板)を薄くした。二重船底でもなく、鉄板が薄いために簡単に沈没した。この船標船建造を担当した海軍艦政本部は浮泛(ふはん・船が簡単に沈まない)性を持たせる方法として以前にも増して隔壁重点主義を採用したと強調している。 ところが歴史はこれらの船の浮泛性が意図したほど高くなかったことを示している。物資不足と相まって色々ケチったことであろうから補機など諸設備も省略したに違いない。
 戦中は氏が経営する川南造船(株)で、戦時標準船の建造で利益を上げた。 川南豊作は軍部と強い繋がりを持ち、労働力確保のため軍が強制連行した朝鮮人や外国人捕虜を集め、 強制労働をさせた。 戦後、 川南豊作氏は「三無事件(さんゆうじけん・破防法適用第1号)」首謀者であった。
戦時標準船を船員はなぜ鉄の棺桶と呼んだのか?
1.居住区はワンルーム方式〔甲板(左舷)・機関(右舷)各1〕で、鋼板のむき出しであった。
2.2A船程度だと乗組員の定員は66人だったが、左舷上甲板に風呂は1つ。トイレも1カ所しかなかった。
 ※ トイレ船外排出管は耐久性を確保するため亜鉛メッキ管でっあたが、これをケチった。
3.鋼材厚は10〜12mm程度で敵の13mm機銃弾でも簡単に貫通した。
4.外板は鋲接方式だが、鋲径は19mmと小さかった。
5.後に警戒隊員を乗せたが、隊員+乗組員の全員が脱出できる救命艇が用意されなかった。
6.あまりにも低速(10Kt未満)であつた。低速となった二つの大要因
 1)造機技術(エンジン)が低かった。エンジンが先に調達出来なかっなら造船は出来ない。
 2)軍令部や海上護衛総司令部が制海権・制空権は我にあり、よって低速でもOKとした。
 そのうち、ボカスカ沈められたから、短20糎砲、短12糎砲を搭載した。但し、測距儀は無かったので
 もし、砲撃の機会が発生しても目算(でたらめ)砲撃となった。
 短20糎砲弾の初速は325m/s。まさか日露戦争の頭で戦争をしようとしたのか?。

 あまりにも潜水艦に沈められたので昭和19年(1944)秋から設計された、三B,三Dから、更に四B,
 四TM,四TLから18Kt以上の設計となった。ただし、増速は単なる気休めでしかなかった。

 上図は、陸軍が要求した1TL(油槽船)に改造を施し、護衛空母兼油槽船である。海軍は、制海権、制空権を含め護衛体制は万全と大見得を切っていたが、あまりにもボカスカ沈められることに立腹した陸軍は1TLを改装し特TLを四隻建造を昭和19年(1944)末から行うことで両軍合意した。
 ところが、この時期海軍は特攻兵器製造に血道をあげ実際には実現しなかった。この件に関し「戦時造船史(日本海事振興会・S37/3/24発行)」に詳しい。軍令部中澤祐が、特攻は大西瀧治郎が始めた。軍としては全く考えていなかった。などの虚言は造船裏面史でもそのウソが暴かれる。
-船舶の優速性は被害を軽減させられるのか?
 商船の敵は、機雷、水上艦艇、航空機、潜水艦などが考えられる。例え速度が20Kt程度になろうとも機雷,水上艦艇,航空機については、 その程度の速力でも被害を軽減できないであろう。では潜水艦ではどうだろうか、発見された場所が敵から遠距離ならば逃げられるかもしれない。 射点についた潜水艦の魚雷攻撃には20Kt程度の速度ではまず逃げ切れない。船速が20Ktでも雷跡を2000m先に発見し回避手段を講じなかったなら被雷する。よって、商船の被害軽減と速度は大きな因子にならない。
 二重底なし、鋼板厚の薄さが被害の甚大さを招いたものと考えられる。 もう一つ優速性は乗組員の心理的・肉体的疲労軽減に寄与するはずだ。シンガポールから下関まで2,540浬ある。船速10Ktだと10.5日、13Ktだと8日、15Ktだと7日である。 敵に姿を暴露する期間が短縮される。すなわち優速は、乗組員のモチベーションをあげると考えられる。その点では意味があった。
 −この敵魚雷発見距離と回避について「戦時造船史」頁742−
 同書頁374〜375 を読んだだけでも、日本は戦争を始めるべきではなかった。
 戦時標準船の寿命が進水から5ヶ月半。これは一体誰の責任なのか??
日本海軍の戦略思想
一、大艦巨砲で敵艦隊を制圧し制海権を握る。
二、制海権を握れば船団の護衛は必要ない。
三、よって最優先攻撃目標は敵艦隊。輸送船は
   攻撃目標ではない。
四、船の安全は集団で行うものでなく個艦(船)で
   あり、傭船先の海運会社が 考える問題だ。
日本海軍米輸送船撃沈98隻(90万トン)
米国海軍の戦略思想
一、補給なくして、戦闘に勝利した例はない。
二、太平洋の戦いで、最優先すべきは輸送船の
   安全。
三、敵の輸送船を阻止すれば戦いに勝てる。
四、自国の船団の護衛は海軍の役務。
   operations research [策略研究]対象。
米潜は日本の輸送船 1,113隻撃沈
船舶運営会資料では雷撃で沈没した100総トン以上の船舶は 1,153隻、4,763,486総トン。と記録している。
 帝国海軍は戦時・戦中で海防艦以上の艦艇を673隻保有したことになるが、その内潜水艦は190隻。構成率 29.82%である。一方米海軍の潜水艦構成比は2%と云われており、このたった2%が戦前日本が保有していた商船の91%を沈めたという。  これでみると、日本は空母戦力や、航空機の性能や、戦艦の大砲や、兵員のモチベーションの高さなどに関係なく米潜水艦に息の根を止められたといっても過言ではない。  戦争を始める決意をさせたのも資源地帯の確保であったのだから、国力維持の根幹たる資源輸送に最大限の努力を傾注すべきと思うが、 兵学校兵科出身者はその重大性を全く認識せず、資源還送担当者を腐れ士官の捨て所と言ってはばからなかった。

 連合国との戦争の帰趨にミッドウェイ海戦や捷一号(レイテ)沖海戦で、千載一遇のチャンスを逸したとの、負け惜しみ的戦記(著述者の多くは旧海軍関係者)が氾濫しているが、とんでも無い見当違いをしている。 先の大戦は陸軍と海軍将兵が連合国と戦ったのではなく、日本商船隊が連合国と戦ったのである。  当然輸送船の悲しさで、潜水艦や航空機の攻撃に対する有効な武装や装備もなく勝利するはずもなかった。 来襲してくる敵機を遥か遠くから探知できるレーダーもなく、海に潜む潜水艦を発見する探知機もなく、またそれら攻撃に反撃する有効な装備さえ備わっていなかった。
 1945年に入ると人が生きるための食料さえ底を尽き幼児はひもじさに泣いた。あろうことか国会議事堂前まで野菜畑にされた。 それでも軍部は一億玉砕を叫んでいた。 山口県出身と云っているとあるボンボン代議士(本当は東京生まれの東京育ち)で総理大臣になった男が、戦後レジーム(REJIMU・脱却すべき体制)など、大層な発言をしたが、このボンボンは憲法改正を目論んだ発言であろう。  あの内地を含め三百万人にも及ぶ犠牲者を出し、かつ一度もこの悲劇を総括もしなかったことを知っているのか。 この国が、国民に対して牛馬以下の非人間的扱いをしてきた事実を知っているのか、と叫びたい。  そのくせ、北朝鮮による拉致問題は私の内閣で解決する!。 年金は最後の一人まで明らかにする!。と国民に大嘘を吐いた。 この大嘘はかっての帝国海軍のお家芸であった。 彼はその血を輸血して貰っていたに違いない。


大提督?山本五十六の蹉跌
 1942年9月中旬以降翌年1月まで補助戦力(機動部隊・先遣部隊[潜水艦])の活躍により米海軍は最悪の事態を迎えていた。 ガダルカナルを巡る戦いで同島奪回支援の戦いで戦艦比叡・霧島(1942/11/12〜13・第三次ソロモン海戦)を失い一挙に彼の闘志は萎えた。
 訓練に次ぐ訓練で帝国海軍の戦艦は、世界のどこの戦闘艦より優れた攻撃性を有する存在と信じていた。それを一挙に2隻も失ったのだ。 その上かって一度も訓練や考えたこともなかった連合艦隊の艦艇をガダルカナル島への輸送作戦に使わざるを得なかった。 いずれも、山本にとって未経験の教えられ考えたこともない作戦であった。作戦の神様を自他ともに認めていた参謀黒島亀人全く同然だった。 

 大艦巨砲で制海権を確保すると豪語していた連合艦隊が戦艦2隻を瞬時に失い。 潜水艦まで輸送作戦に使う。 それらは彼にとって想定外の事態であったし対応すらできなかった。
 南太平洋海戦で損傷した空母搭乗員をラバウルに注ぎ込んだ。ラバウル基地航空隊は出撃に次ぐ出撃で搭乗員のあいだでは 「俺たちが帰還する時は戦死したときだ」と公然と話していた。
 水雷戦隊に属していた駆逐艦乗組員や先遣部隊の潜水艦乗りは、自分たちに科せられたガ島輸送を米軍の目を盗むようにして運ぶことから「鼠輸送」と自嘲した。 その結果、駆逐艦乗組員も潜水艦乗組員も搭乗員も全てやる気を失ってきた。

 苦闘するガ島への組織的船団輸送のとん挫から、補給物資をドラム缶に詰め、 駆逐艦によって輸送する作戦に少なからず疑義をはさんだ第二水雷戦隊司令田中頼三を陸上勤務に左遷したが、 それはかえって将兵の不満をたかめただけであった。
 信じていた大艦巨砲は無力で、輸送という山本五十六にとって信じられない役務(戦役)に茫然自失したと察せられる。

ガ島撤退までに海軍の第一線機 892 機、搭乗員 1,882人を失った。
機動部隊司令長官を引き継いだ小澤治三郎は空母搭乗員の陸上進出に反対した。
ルンガ沖夜戦で大勝利した田中頼三(少将)の左遷の理由はハッキリしない。
本来任務はガダルカナル島増援兵員の揚陸と軍需品の揚貨だったがこれは頓挫している。田中は駆逐艦を輸送船代わりに使うというイレギュラな方法に批判的だったと伝えられている。

 ミッドウェイ海戦以降も空母戦力や戦艦の優位は揺るがなかったのに、 次なる戦略も戦術も彼(山本五十六)は持っていなかった。 戦略なき者に戦術なく、 戦術なき者に勝利の女神は微笑まなかった。 米国を仮想敵国とし、 太平洋が戦場になると承知しながら、いざこの広大な海域が戦場となったとき、 海軍は米国攻略の有効な戦略も戦術も持ち合わせいていなかった事実を露呈した。

 漸減邀撃(ぜんげんようげき)戦のみ描いていたが、そのような戦いはどこにも生起せず、 人が戦うために物資輸送は必須で絶対条件ということは考慮外だった。この点に関し、世にも珍しい東郷平八郎の末裔らであった。

 更に、このような遠隔地に大兵力を短時間に輸送し、重火器などの運搬、 必要な物資を短時間に揚貨・揚陸する揚塔設備さえ無かった。 また揚貨した戦術資源を可及的速やかに分散する機動力(運搬車両)を全く保持していなかった。 これらの戦闘遂行資源の分散は、四千年前のピラミッド建設当時となんら変わらない方法、すなわち、全て人力に頼った。

 このような状態で、虎の子の輸送船も海岸擱座という使い捨て戦法を選択せざるを得なかった。 すなわち彼らは、兵站(logistics)も、それにともなう通商破壊作戦という概念もなく、 ひたすら艦隊決戦にこだわり、その滅亡の際まで方向転換出来ない教条的・硬直組織が Imperial navy だった。


ガ島の戦い前に山本五十六が気付いたなら
この段階で Imperial Navy が、アッ!とひらめき、戦争とは輸送が全てなのか!。 と気付き海上護衛に本気で取り組んでいたなら、後のマリアナ沖海戦で陸軍に泣きつくほど、 燃料に困らなかったはずだが東郷元帥の末裔の兵学校出身者は、全く為す術もなく立ちつくしていた。少なくとも山本は奇抜な作戦家ではあったかも知れないが、包括的管理者としては幼稚園生に等しい。 勝利するために、何を行えばよいか分からなくなっていた山本は、ただただ死に場所を求めていた。 と筆者は思う。 使い回しにされた駆逐艦や潜水艦乗組み将兵は、 山本五十六に失望し、基地航空隊・空母機動部隊などの搭乗員などの志気は失せていた。 そして彼は、彼の希望どおり、ソロモンの空に消えた。
マリアナ沖海戦(1944月6月19日〜20日)の前、絶対国防圏を設定した。北は千島から小笠原諸島、更にさがって トラック島を結ぶ線である。日本からトラック島まで3,700Kmもある。開戦当初、ガダルカナル島争奪戦で 補給基地ラバウルからガ島までの1,000Kmの補給さえ出来なかったのに、どうしてトラックまでの補給線が確保 出来ると考えたのか??。 ?マークを百個付けても理解できない。 ガ島の輸送にはそれなりに護衛駆逐艦を随番させたが これが全くといってよいほど役に立たなかった。最後には駆逐艦や潜水艦を輸送船替わりに使っている。
Imperial Navy の水上艦,潜水艦,航空部隊のいずれもが、敵の輸送船団攻撃の重要性を理解していなかった。 そのような情況でまた、民間船の護衛の必要性など念頭になかった。すなわち、日露戦争にも第一次世界大戦の 戦訓・教訓さえ海軍の教育機関であった海軍兵学校・大学校は教えていないことになる。  兵学校出身者テク音痴にも言葉を失うが、過去の戦訓も教えず、かつ取組まなかった海軍は一体何を入学した若者に教育していたのであろうか??。
機会があればぜひ読んで頂きたい。昭和19年(1944)3月、 海軍省教育局が徴用船員向けの小冊子「船員ニ告グ」である。  大和魂・武士道精神の発揮。金剛精神の発揮が輸送効率につながる。 また「心眼で見張れ」と述べている。 時代錯誤も甚だしく読みながら腹が立ってくる。  心眼は具体的にどんな眼なのだろうか。  一体だれが備わっていたのだろうか。 レーダーと心眼ではどちらが性能的に上位なのだろうか。

太平洋戦争開戦前、各年に見積もられた船舶喪失数と実際には大きな乖離があった。 また、日本の南進作戦(政策)で米国との戦争が避けられない場合の船舶喪失を聞かれた海軍軍令部総長永野修身が提出した喪失見積りはチョーいい加減のものだった。
1944年2月17日・18日に行われた米軍トラック島空襲で失われた輸送船舶トン数は20万5千トン。 見積もりの非科学性を露呈した。
戦争指導部は「戦闘に勝つことが戦争に勝つこと」と考えたが、 連合軍は日本の補給線を絶つことが戦争に勝つ大きな要素である。とみなした。  相次ぐ輸送船舶の喪失で日本の継戦は不可能となっていく。 護衛なし無防備の船舶に対し米潜は悠々浮上したまま攻撃した。 丸腰はたまらないと電柱の擬砲を搭載せざるをえなかった。

 詳しくは「戦時輸送船団史(駒宮真七郎:著)」で。 または、「大日本帝国のアキレス腱(NHK取材班:編)」や「消えた潜水艦イ52(NHK取材班:編)」に詳しい。
「戦時輸送船団史(駒宮真七郎:著)」で延々と続く輸送船の遭難を読んだとき、 一体 Imperial Navy は、どんな思いで戦争を始める引鉄を引いたのか?。考えさせられる。
遠く、南ソロモン群島、中部太平洋、ニューギニア戦線に送られた将兵は、補給のない絶望的戦いを余儀なくされた。また、多く餓死や疾病に斃れた。 それを玉砕と呼び、統帥の責任を糊塗した。

 米軍は大きく違い太平洋戦争が始まるや兵学校での成績最優者を次から次に運輸本部に配置し、一方では戦時標準設計船(輸送カーゴ、2,712隻 1944万総トン)を造り就航させた。 また、橋頭堡を築くと集積した物資は機械化車輌移動(水陸両用カーゴや車輌)で瞬く間に分散させた。   6万トンの戦艦大和を造りながら、海防艦や、たかだか100トンの程度の監視艇・魚雷艇が造れないいびつな海軍力であった。


太平洋戦争における日本商船隊の総決算
開戦時+建造船舶 4,225隻 1,021万総トン
戦時喪失       3,129隻  883万総トン
敗戦後運行可能船舶 588隻   79万総トン
判明している船員の戦死 60,607人(日本殉職船員顕彰会
60,608人。過酷な任務に邁進した船員に敬意と深甚なる感謝の意を表する。 また、過酷な条件で殉職された関係者に深い哀悼の誠を捧げたい。
ガ島擱座の山浦丸
第二次ガタルカナル島強行輸送作戦は昭和17年(1942)11月13日決行された。
船団は、長良丸、宏川丸、佐渡丸、かんべら丸、那古丸、山月丸、山浦丸、信濃川丸、鬼怒川丸、ありぞな丸、ぶりすべん丸の11隻である。 この船団の揚貨地はガダルカナル島エスペラン岬であった。ところがラッセル島沖で大規模な空襲に見舞われ、この段階で6隻が被弾沈没した。残った佐渡丸は命によりショートランド島に待避。損傷しながらも宏川丸、山月丸、山浦丸、鬼怒川丸は15日 02:00 タファロンガ泊地に突入擱座させた。しかし夜明けとともに飛来した敵機により全船とも炎上。 結局、ガダルカナル島に揚陸できた物資は野・山砲弾260箱。米1,500俵(当時の兵員の4日分)に過ぎなかった。
太平洋の島嶼に兵員をバラマクのなら補給線の確保と迅速な揚貨は必須で絶対的要件であったはずである。 持っている揚貨設備は貧弱で米軍にみられる多量な兵員物資を即座に揚陸するLST機能艦船艇は全く保持していなかった。
これら4隻の船員は船を捨てガダルカナル島に上陸した。上陸後の船員は、軍からも邪魔者扱いされ、飢餓とマラリアなどの悪疫に苦しみ、翌年2月初めに強行された撤退作戦で帰還できた船員は、同島に上陸した267人中で僅か27人にすぎなかった。
海防艦「奄美」
鵜來(Ukuru)と同型の海防艦「奄美」
主要諸元:長さ 72.5m,幅 9.1m,吃水 3.03m,排水量 1,020t,速力 19.5kt
主要兵装: 12Cm 連装高角砲1基,12Cm単装砲1基,25mm三連装機銃5基,25mm単装機銃1基,爆雷120発
鵜來は船団護衛用の艦艇で艦形は占守より直線的でより簡単に建造できるように設計された。詳しくは海防艦を参照。
護衛艦の被害
機動部隊の襲撃を受けた Case ヒ86船団: 護衛艦を沈めるのが目的でなかったので生き残れた。
B−25の襲撃を受けた Case ヒ88J船団: 目に付く全ての艦船を携行爆弾,機銃弾が尽きるまで攻撃された。  駆逐艦「天津風」を除いて全て撃沈された。 「天津風」はたまたまスコールの中に入ることができたので撃沈をまぬかれた。  艦種別損失(損耗)実態はこちら
◆1945年には開戦時の4分の1の船舶があったが、各主要港湾は米軍の機雷封鎖で身動きがとれなかった。
◆北号作戦(燃料還送)の名の下シンガポールを戦艦伊勢、日向、巡洋艦大淀、 駆逐艦五が昭和20年2月10日出港した。10日後無事呉に帰港したが 奇跡の航海である。缶用重油は搭載と航海消費で収支に合うものではなく、 ドラム缶で搭載した航空ガソリン2,000KL程度が唯一の収穫であった。
この段階では、南方から日本までにの会敵率(敵に出合う率)は200%を超えていた。
1945年3月19日シンガポール港 を発ち日本へ向かった。ヒ88J輸送船団の最前線で戦った駆逐艦天津風苦闘の実態はこちら
*1 1943年7月から大型タンカーによる門司〜シンガポール間の 輸送を「ヒ船団」と名付けた。実態は油槽船のみの運航は少なく貨物船も加わっている。  1944年の秋、海上護衛総司令部は、海上輸送が危機的状況を呈し抜本的対策を講じない限り 補給線維持は困難との報告書を纏めた。だがこの報告書が表に出されることはなかった。
1945年1月20日「特攻船団」での還送を目指した「南号作戦」が展開される。 ヒ01(1943年7月10日)が初回で最終は1945年2月27日ヒ98船団が最後である。
ヒ86船団の全滅以外に、ヒ88B,ヒ88D,ヒ88G,ヒ88I,ヒ88J,ヒ98船団が全滅 している。
-- 参考文献 --
海上護衛軽視の実態 「大日本帝国のアキレス腱 NHK取材班 角川書店 H5/8/5初版発行」
海上護衛戦の実態 「戦史叢書 海上護衛戦 防衛庁防衛研修所戦史室/著 朝雲新聞社1971発行
             「海上護衛戦」 「海上護衛戦参謀の回想」など 大井 篤/著
資源還送船の実相 「戦時輸送船団史 駒宮真七郎/著 出版共同社 S61/10/8発行」
全戦没艦船調査  「太平洋戦争沈没艦船遺体調査大鑑 戦没遺体収容委員会 S52/7/10発行」
戦時造船史   「太平洋戦争と計画造船」小野塚一郎著
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開戦時存在した日本海軍四隻の海防艦諸元及び最後の態様   真相 大和片道燃料のウソ。小林儀作が大和を沈めた。   資源還送の護衛を考えなかった海軍は1945年、すでに戦争を継続する油がなかった。
船舶喪失と海上護衛参謀の回想。

太平洋戦争取材班
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